変節の宰相:馮道:1章:李存勗時代③
〇『洛陽の空の下にて――馮道記す』
都が落ちるというのは、ただ一つの城門が破られることではございませぬ。 それは、国の骨が軋み、血が止まり、魂が流れ去る音でございます。
私がそれを目の当たりにしたのは、開封陥落のその後、洛陽の地に立ったときのことでございました。
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後梁の終焉
晋王・李存勗様率いる後唐軍が、黄河を越えて後梁の首都・開封を落とされたのは、まさに戦神が筆で描いたかのような電光石火の進撃でございました。
この知らせが洛陽に届いたとき、後梁の末帝・朱友貞――諡号では「哀帝」と記されることになるその方は、狼狽し、身内も重臣も置き去りにしたまま、ただ己の命を保たんとして都を捨て、洛陽へと逃げ込まれました。
しかし、天の理は容赦なく、 そのお逃げになった先でさえ、戦火の風は容赦なく帝を追いつめたのでございます。
洛陽での朱氏の末路について、私は多くを語りませぬ。 ただ、かの方が最後に見たのが、滅びゆく王朝の空であったことは、間違いございませぬ。
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新たな任
そして、その報せが届いた日――
私は開封の一角で、帳簿を巻き、兵站の確認を終えたところでございました。 すると、思いもよらぬ勅使が馬蹄の音を立てて駆け寄ってまいりました。
「馮道殿、洛陽へおいでいただきたい。新たな御所より、正式な命にてございます」
――新たな御所。
このたったひとことが、私の背筋に、凛とした緊張を走らせたのです。
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洛陽の再生
洛陽に入った私が目にしたものは、 都の門は開かれ、街は不安と疲労の色を滲ませながらも、なんとかその形を保っておりました。
兵は秩序を守り、民は静かに息を呑み、 そして、存勗様は高台に立って、かの旧都を見渡しておられました。
「ここを都とする」 そのお言葉は、どこか静謐で、しかし力強く、一つの時代の始まりを告げる鐘のようでもございました。
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筆の使命
やがて私は、洛陽の政庁へと呼び出されました。 軍略の才ある者は数多くとも、政をまとめる者は、まだ少うございましょう。 ましてや、開封の戦の裏方として名を知られた私を、使わぬ道理はございません。
「馮道よ、今より洛陽の政を取りまとめ、我が国の根を築け」 そう仰せつかったとき、私は再び、筆を手中にする覚悟を新たにいたしました。
剣ではなく、策でもなく、筆にて国を支える―― 私がこの地で為すべきことは、ただ一つ。 戦の後に、民が生き、日が昇る、その地盤を築くことでございます。
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時代の転換
後梁の崩壊は、一つの世の終わりを示し、 そして、後唐の勃興は、新たなる流れのはじまりを告げました。
洛陽の空の下、私は思います。 国とは、王とは、民とは―― その問いに、私は筆を以て応えねばならぬのだと。
(語:馮道)
〇馮道、洛陽での政
――後唐・長興元年(923年)――
洛陽の空には、早春の淡い霞がかかっていた。かつて東都と呼ばれたこの地も、いまや度重なる戦火に焼れ、城門の周囲には半ば崩れかけた家屋が並んでいる。だが、そんな荒れ果てた都にも、ようやく新たな風が吹き込みつつあった。
その風の名は――馮道である。
馮道、字は可道。かつての晋陽に生まれ、温厚にして才を備え、権謀よりも仁徳を重んじる人柄として知られる。彼がこのたび、後唐の新帝・荘宗**李存勖**により、洛陽の再建を命じられたのであった。
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民の暮らしを第一に
政務の初日は、あまりに静かであった。官署に集められた書吏たちは、皆、一様に疲弊した顔をしている。戦で家族を失った者、逃散から戻った者、あるいは朝令暮改に振り回されてきた者も少なくない。そんな中、馮道は静かに口を開いた。
「余がここに来たのは、ただ一つ――民の暮らしを、もとに戻すためである」
それは、決して声高な言葉ではなかった。だが、その口調には澱みなき確信が宿っていた。
まず彼が手をつけたのは、地方官吏の選定であった。戦功や出自にこだわらず、実務に堪える人物を一人ひとり抜擢していく。中には、先帝時代に冷遇されていた才人も含まれていた。
「政は、剣よりも筆を重くせねばならぬ」
そう語る馮道の施政方針は、徹底して文治主義に貫かれていた。
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租税の改革と民の回復
租税制度も、根本から見直された。過酷な徴発と刑罰は控えられ、代わって用意されたのは、民ごとの戸籍を整えたうえでの公正な課税体制である。兵を失い、田を荒らされた村々(むらむら)には、まず灌漑と農具を支給し、開墾の補助を与えた。
「刑はやみくもに用いてはならぬ。人は、恐れてではなく、信じて従うべし」
その言葉どおり、馮道は一人ひとりの官人に、刑罰の執行を最小限に抑えるよう命じていた。
やがて、洛陽の街に、かすかに笑い声が戻ってきた。市では物売りの声が響き、耕されたばかりの畑からは若芽が顔を出す。民の姿も、次第に力強さを取り戻しつつあった。
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主君への諫言
だが、馮道とて、ひたすらに穏やかであったわけではない。
ある日の政務後、馮道は自らの筆で、荘宗皇帝に上奏文をしたためていた。
「近時、征伐多く、民心、やや疲れたり。今は戦よりも治を先んずべし――」
その文面には、忠誠とともに、苦言が添えられていた。決して阿らず、しかし節度をもって、主君に諫言するその姿勢は、やがて多くの官吏の尊敬を集めていくこととなる。
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春の雨のごとき政
後に人々(ひとびと)は語ったという。
「馮公の政は、春の雨のごとし。静かにして万物を潤す」
かくして、乱世にあって一人の賢人が、洛陽に再び人の世の温もりをもたらしたのであった。
〇前蜀の終焉――激動の四川と馮道の支え
――925年、五代十国の乱世――
唐王朝の崩壊から数十年。かつての広大な帝国の跡地は、多くの群雄が割拠し、戦乱の炎が絶え間なく燃え盛っていた。中でも四川盆地は、その豊かな自然ゆえに、古来より「蜀」と呼ばれ、人々(ひとびと)の暮らしの場として栄えてきた。しかし、そんな土地にも時代の波は押し寄せていた。
その地に立てられた前蜀は、わずかな期間ながら独立を果たし、かつての蜀漢の面影を忍ばせる政治と文化を育んだ。しかし、勢力を伸ばす後唐にとって、この西の国は看過できぬ障壁であった。
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四川の戦況
四川の山河は、常に変わりやすい天候と険しい地形が特徴である。雲が低く垂れ込め、谷間には霧が立ちこめる。広大な盆地の中に点在する城砦は、自然の要塞でもあったが、長期間の戦乱により徐々(じょじょ)に疲弊していた。
前線で戦う兵たちは、幾重にも重なる険しい峠を越え、息を切らせながら砦の守りを固めていた。彼らの手には冷え切った剣、背には重い甲冑。疲労は隠せないが、その目はひたすら祖国の未来を見据えている。
「我々(われわれ)は蜀の民を守る最後の盾だ」
そんな決意が、荒れ果てた野営地の焚火の中で囁かれる。だが、後唐の大軍は数の上でも兵力の質でも優勢であり、徐々(じょじょ)に防衛線を押し下げていた。
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馮道の支え
一方、遠く洛陽にて政務を執る馮道の胸中は、静かでありながら燃えていた。
彼は戦の指揮官ではない。だが、政治家としての手腕を駆使し、前線の兵士たちに「生きるための後方支援」を届ける使命を帯びていた。
戦火で荒れ果てた各地の戸籍は乱れ、税収は途絶え、農地は耕されぬまま放置されている。馮道はまず、これらを一つ(ひと)つ(ひと)つ丁寧に洗い直すことから始めた。
「人は、正しく管理され、支えられることで初めて国家の礎となるのだ」
役人たちには、戦功や血筋よりも、誠実かつ有能な者を任用するよう命じた。現場の実務能力こそが、この混乱期の復興を左右すると信じていた。
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兵糧と献策
兵糧の確保は、馮道の最大の課題の一つであった。洛陽の倉庫には戦に必要な米や塩、薬品、武具が蓄えられていたが、これを遠く四川まで運ぶ道は危険に満ちている。何度も輸送路の整備を指示し、盗賊の取り締りを強化。物資が前線に届くまでの時間を可能な限り短縮した。
そのため、彼は現地からの報告に耳を澄ませ、前線の声を行政の中枢に反映させた。兵士たちの苦難を少しでも和らげるため、医薬品の配給や補給計画も緻密に練った。
洛陽の政務室で書を執る馮道の姿は、戦乱の中にあっても毅然としていた。
「戦とは、ただ人を殺めるものではない。命を守り、再び生きる場所を築く営みだ」
その言葉は、彼の同僚たちの胸に響き、多くの賛同者を生んだ。政務の合間に、馮道は戦況を見つめ、上奏文に苦言を交えながら、主君・後唐皇帝荘宗へ献策を重ねていった。
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歴史に残る賢人
こうして、戦いの前線と後方は表裏一体となって動いた。前蜀の守る四川の城砦は徐々(じょじょ)に揺らぎ、最終的に後唐の勢力により制圧されたが、その過程で馮道の後方支援は多くの命を救い、戦乱に疲れた民衆の生活の一端を支えた。
「刀が砕けても、筆は折れぬ。政の道は続く」
その言葉は、時代を越え、後唐の復興期を支えた賢人の姿として歴史に残った。