変節の宰相:馮道:1章:李存勗時代②
〇『風に訊け、波に問え――馮道、諸国のことを語る』
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風に訊け、波に問え――馮道、諸国のことを語る
晋陽の秋は短い。
夏の名残を引きずった陽光が高く、遠くに霞む太行山の尾根が、朝夕にはうっすらと金に染まって見えた。
この晋陽は、いまや李存勗の根拠地として栄え、多くの文官武将が参集し、新たな天下を夢見て策を練る場所である。
その城内の一隅、風の通る涼やかな廊下にて、馮道は李嗣源と並んで腰を下ろしていた。
李嗣源は李存勗の従兄弟であり、勇将として名高い男。冷静で思慮深く、主君にも臆せず意見を進言するところから、内外の信頼を得ていた。
馮道は、もともと幽州の文士である。 戦乱の只中をくぐり抜け、いまやこの晋陽にて文事の責任を任されようとしている。
ふたりの間には、すでにいくつかの議論が交わされていたが、この日はより広い視野――すなわち、中国全土に林立し始めた割拠勢力たちの動向について、語らうことになっていた。
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七国の動向
「李将軍。天下にはすでに、七つの勢力が割拠しております」
馮道が帳面を開きながら、穏やかな口調で語りはじめた。
「東南の江淮には呉、これは楊氏が立てた政権。都は広陵(いまの揚州)にあり、長江を挟んで戦略的にも要地を占めております」
「ふむ……かの地は物資が豊かで、軍もよく整っておると聞く」
李嗣源が頷いた。
「加えて、四川盆地には**前蜀**がございます。王建の息子、王衍が継ぎましたが、聞けば奢侈を好み、政は乱れているとか」
「だが……あの地は天然の要害、取り込みは容易ではあるまいな」
「まさしく」
馮道は、筆で地図の一点を指しながら続ける。
「それから、長江の中流には小国が二つ。荊南、またの名を南平。この地は地勢が狭く、軍事的には脅威になりませぬが、逆に申せば、交通の要を押さえております」
「道の狭きこそ、時に剣より鋭い」
李嗣源の目が鋭く光った。
「他には?」
「湖南には楚がございます。馬殷が建てた国にて、辺境ながらも兵は精鋭、民政も整っております」
「楚は……侮れぬな。あの馬殷は兵站の管理が巧みだ」
「ええ。そしてさらに東、浙江には呉越。銭氏が都を杭州に置いております。ここも財力では随一でしょう。宋代には“東南形勝”と申しますが、まさにその地です」
「確かに、銭塘江を扼しておる。港も深い」
馮道は、最後の一国を静かに指し示した。
「そして、遠く南、広東には南漢。地は遠く、気候も異なり、文化も独特。けれど、南海貿易により財貨は豊かです」
「なるほど、七国。いずれも一角の雄」
李嗣源は地図を見つめ、軽く息をついた。
「これらとどう向き合うべきか。それが、我が晋陽の将来を左右することになる」
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文武の調和
廊下に吹き抜ける風が、竹の葉をさらさらと鳴らした。
馮道は筆を置き、ゆっくりと手を組んだ。
「李将軍……すべてを一度に討つことは不可能です。いまは、交わるべき者と盟い、敵対すべき者を慎重に選ぶべきでしょう」
「同感だ」
「呉越や楚、あるいは呉あたりとは使者を通じ、互いの利を重んじて和を結ぶ。その間に、後梁を打ち破り、まず中原を確保するのです」
李嗣源の眉がわずかに動いた。
「それは、政の人の道……では、武の者ができることは?」
「内を安んじ、軍を鍛え、諸将をまとめることです。そして、民を苦しめぬこと。李存勗様の御威を、民草が喜んで仰げるように整える。それが、武と文が手を取り合って行う政でございましょう」
その言葉に、李嗣源はしばらく無言で頷いた。
やがて口を開いたとき、彼の声は静かで、それでいてどこか熱を帯びていた。
「馮殿……我らが道は、容易いではない。が、今宵あなたと語らって、わずかに霧が晴れたようだ」
「わたくしも、です。李将軍がただの武人でないこと……改めて心強く思いました」
ふたりは微笑み合い、同じ方角を見つめた。
その先に広がるのは、七つの国、幾千の民、そして未だ定まらぬ未来である。
だが、彼らには語る言葉があった。筆と剣が交わり、策と誠が共にあるならば、きっと風は道を開く。
――これは、乱世にあって理を保った男、馮道の歩みの、ほんの序章に過ぎぬ。
〇『黄河を越えて――李存勗、開封を狙う』
時は、五代十国。 唐王朝がすでに潰え、華北は諸侯群雄の草刈場と化していた。
中原に覇を唱えていたのは、後梁の朱氏。 かつて唐末の宦官政権を覆し、自ら帝位についた朱全忠の後を継いだ者たちである。
一方、北方の太原に拠ったのが、李克用の子、李存勗であった。 晋王を称し、北の漢族・胡族の連合軍を率いて勢力を広げていたが、彼の眼差しは常にひとつの一つの都――開封に注がれていた。
後梁の首都、開封。
中原の喉元にあたる大河、黄河の南岸に広がるその地を掌中に収めることは、すなわち天下を名乗る資格を得ることに他ならなかった。
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出陣の決意
ある晩秋のこと――
晋陽の本営にて、李存勗は一枚の地図を前に座していた。 その顔には、久しく見なかった高揚の色が浮かんでいる。
「間者の報せによれば……後梁、開封の守りが薄いとな」
声には重みがあった。
参列していた諸将がざわめく。だが、誰ひとり異を唱える者はいない。
李存勗は、もとより果断な男である。 武勇に優れ、若き日には父の李克用と共に戦場を駆け、今では誰もがその軍才を認めるところであった。
「ならば、時は来り――我が軍の主力を率いて黄河を渡る。中原の王道、今ここに定めん」
彼は、軍議の席を立ち、傍らに控えていた文臣へと振り返った。
「馮道!」
名を呼ばれた男は、静かに歩み出た。
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馮道の支え
馮道――
本来は幽州の書生に過ぎぬが、才覚を買われ、今では李存勗の腹心と目される一人であった。 温和な物腰の中に、芯の通った胆力を秘め、戦のときも政のときも、必ず一歩退いて全体を見渡せる希有の人物である。
「はい、殿下」
「これより、全軍を挙げて南征する。戦の備え、糧秣と軍資を万端整えよ。時は急なり」
「御意……ただちに着手いたします」
馮道は即座に深く一礼し、退出した。
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兵站の戦場
その後の数日、晋陽の城下は静かな熱に包まれた。
馬が整えられ、鍛冶場では矢尻が雨のように鍛えられる。 兵士たちは昼夜を分かたず訓練に励み、街道には米俵や乾肉、塩、兵糧丸を積んだ車がひっきりなしに行き交った。
馮道は、そのすべての指揮にあたった。
彼は戦場には出ぬ。されど、その働きなくしては、軍は一歩も動けぬ。 商人と交渉し、倉庫を開き、地方の郡守に命じて徴発を行い、また兵卒の家族を慰撫して不安を鎮めた。
時に豪族が米の買い占めを企てれば、使者を送り、理と利で屈服させる。
時に輸送路が洪水で絶たれれば、土木の民を率いて仮橋を架ける。
まさに、紙と筆の戦場を一人で駆ける将のような姿であった。
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黄河を渡る
数十日後――
李存勗の軍勢は、ついに指出の刻を迎える。
軍旗はなびき、金鼓は鳴り響き、晋陽の空は一面の黄塵に包まれた。 軍装を整えた騎兵が次々(つぎつぎ)と南へ進み、輜重車は山を越え、川を越え、黄河の北岸に布陣する。
李存勗は出陣前、ひとときの静寂を馮道と共に過ごした。
「よく整えたな、馮道」
「もったいなきお言葉にございます。すべては殿下のご英断あってのこと」
李存勗は笑った。
「……開封は遠い。だが、そなたの力があれば、どれほどの道でも踏み越えられよう」
馮道は黙して頭を下げた。だが、その瞳はどこまでも澄んでいた。
それは理の人の覚悟――勝っても驕らず、負けても惑わぬ。 長き戦乱に身を置きながら、人の道を見失わぬ者の眼であった。
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やがて、黄河のほとりに陣を敷いた軍は、朝霧の中を静かに渡り始める。
幾百もの馬蹄が川面をたたき、舟が滑り出し、渡橋が幾重にも重ねられてゆく。
その流れの彼方には、開封の楼閣が、薄ぼんやりと陽に照らされて浮かんでいた。
――これは、馮道という一人の文人が、静かなる胆力で支えた大戦の、始まりの光景である。
〇『黄河を越えしとき――馮道記す』
……この戦を思い出すたび、胸の裡に冷やかな風が吹き抜けるような気がいたします。 私が、晋王・李存勗様に仕え、開封を目指した、あの晩秋のこと――
時は、唐が既に滅び、後梁が華北を支配していた頃。 そして我が君、存勗様は太原を本拠とし、晋王を名乗って北地を治めておられました。 とはいえ、その胸の内には、すでに「王」の二字では収まりきらぬ志が燃えておられたのです。
ある夜、密やかに軍議が開かれました。 存勗様の眼差しは、黄河の向こうをじっと見据えておられました。
「――後梁、いま守り手薄なり。開封へ攻め入る好機にござる」
そのお言葉は、雷鳴のようでございました。 誰もが息を呑みましたが、反対の声など出ようはずもありません。 我が君は、常に最も険しき道を選び、それを真っ(まっ)すぐ貫いてこられたお方なのですから。
「馮道、そなたにすべてを託す。軍の糧秣と資金の手配、万事を頼むぞ」
――そう仰せつかったとき、私の背中には、氷のような汗が流れました。
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兵站の苦心
戦の準備とは、何よりもまず「時」との戦いでございます。 兵糧の確保、車馬の動員、武器の補充、道中の水路の確保、さらには兵の士気…… どれか一つでも欠ければ、進軍の脚はたちまち止まりましょう。
私は、夜を徹して筆と算木を操り、各地の郡県に書を飛ばし、 金と米と馬と人をひとところに集めるため、あらゆる手段を尽くしました。 民が苦しまぬよう、商人には利益を与え、豪族には義を説き、使者には誠を以て交渉させました。
戦場に立たずとも、私の机上には、別の戦があったのです。
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開封陥落
やがて、すべての備えが整いました。 軍は音もなく黄河へと進み、初霜の降る夜、密かに舟を漕ぎ出したのです。
この進軍が、後梁の将たちにはまったくの予想外であったようでございます。 我が軍の動きは、まさに電光石火。舟は三日で黄河を越え、 騎兵は風のように河南の地を駆け抜け、後梁の守備軍が体勢を整える前に、開封の城門に迫ったのです。
城の守りは、あまりに脆く、あまりに早く、崩れ落ちました。 十年続いた梁の都は、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく、我が軍の手に落ちたのでございます。
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天下の誉
開封陥落の翌日――
まだ戦塵の残る中、存勗様は城中を巡り、 その眼で都の様子をご覧になっておられました。
私が控えておりますと、やがてお呼びがかかりました。
「馮道……見事な備えであった。おかげで一兵たりとも飢えることなく、 この都へ辿り着くことができた」
そう仰って、我が君は小さく頷かれました。 その瞳には、いつもより深い色が宿っておりました。
「――戦は、剣のみにあらず。お前の手が、我が軍を勝たせたのだ」
このときばかりは、私も言葉に詰まり、ただただ頭を垂れるばかりでございました。
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筆と墨の人
思えば、私は剣を握ったこともなく、軍令を発したこともございません。 それでも、存勗様のお傍に仕え、戦の裏を支えることができたことは、 文官冥利に尽きることでございます。
黄河を越え、開封を陥れたあの勝利―― その一頁に、私のような筆と墨の人間の名が、ほんの少しでも刻まれているならば、 これ以上の誉れは、他にございませぬ。
(語:馮道)




