〇馮道、李存勗に連れられて幽州から晋州へ向かう道中にて
幽州の牢獄に閉じ込められてから、馮道が味わった苦しみは長く、深かった。冷たい石壁に囲まれ、外の世界から断絶された日々(ひび)。だが、時は流れ、ついに李存勗――彼の運命を大きく変えることになる、あの独眼の将軍が彼の解放を命じたのだった。
今、二人は車に揺られて、幽州の地を後にし、北方の要衝・晋州へと向かっている。李存勗の声が車内の静寂を破った。
「馮道よ、わたしの本拠地である晋州に着けば、これからの我が軍の全貌がお前にも見えてくるだろう。」
馮道はしばし視線を遠くの地平線へと向けた。目の前に広がるのは荒涼とした北方の大地。しかし、その荒涼のなかにも、李存勗が築き上げた強固な拠点の匂いが満ちていることを、馮道は知っていた。
「まず、晋州は私の拠点にして、後唐建国の根幹だ。ここには政治と軍の両面から重臣たちが揃い、私の野望を支えている。」李存勗は静かながらも自信に満ちた口調で続ける。
「郭崇韜、これは我が軍の参謀で、政治と軍略に通じた人物だ。彼の策は度々(たびたび)我が軍の勝敗を左右してきた。李嗣源、私の従兄弟にして、兵の統率に優れる将軍。彼の指揮のもとで、多くの戦いに勝利を収めている。そして董璋、武勇に秀でた重臣であり、前線で多大な活躍を見せている。」
馮道はそれぞれの名を聞きながら、ただの武力集団ではない、統率の取れた軍団であることを痛感した。
「李存勗軍団の政治体制は非常に組織的だ。軍と政治が密接に絡み合い、晋州の統治は一枚岩である。兵士はただの戦力ではなく、行政官や地方の民と連携し、民心を掌握しながら力を蓄えている。地方の豪族や有力者も取り込み、地域の安定に努めている。」
車が進むにつれて、晋州の城壁が視界に入ってきた。城の堅牢さは、北方の激しい戦乱の中でも堅実な防衛を誇っていることを示していた。
「晋州はまた、軍団の指揮系統も明確だ。大軍団は複数の部隊に分かれ、それぞれの司令官が厳格に任務を遂行する。こうした組織の力があってこそ、我々(われわれ)は後唐としての統一を見据えているのだ。」
李存勗の言葉は静かだが、熱を帯びている。馮道はその胸中に、彼の夢と野望が鮮やかに映し出された。
「馮道、お前の知識と経験が必要だ。わたしは単なる武将ではない。乱世を治めるには政治の才も必須だ。だからこそ、お前のような策士を必要としている。」
馮道は李存勗の視線を見返し、固く頷いた。
「仰せのままに、陛下。わたくし馮道、全力を尽くします。」
かくして、馮道は新たな地で、かつての牢獄の苦悩を乗り越え、北方の激動を駆け抜けるべく歩み出したのだった。
〇晩春の晉陽
晩春の晉陽
──黄土の風に舞う土埃の向こう、城門の石垣は陽光を浴びて鈍く輝いていた。
幽州での獄中生活から解き放たれた馮道は、今この地に降り立った。唐王朝滅亡後の乱世、群雄割拠のなかで一際強勢を誇るのが、李存勗率いる晋である。
馮道はその李存勗に見出され、晋陽の地に迎えられたのだった。晋陽は晋の本拠地であり、政軍の中心。李存勗の野望はただの地方政権に留まらず、やがて中原を制し、新たな王朝を興すに至るが──その兆しは、この城の中に確かに芽吹いていた。
城内の応接の間で、馮道は三人の男と顔を合わせる。いずれも、李存勗の右腕左腕と称される者たちだ。
まず郭崇韜。知略と統治に長けた名参謀で、李存勗の軍事・政治の両輪を支える。彼の語り口は穏やかだが、その奥には常に計算された熱が潜んでいる。
「馮殿、殿下はあなたの学識と冷静な判断力を高く買っておられます。幽州の獄にあってなお志を折らぬその胆力、見事でございましたな」
馮道は軽く会釈しながら、静かに答える。
「生き延びるために言葉を慎んだだけ。学識と呼べるほどのものかどうか……」
次に現れたのが、李嗣源──後に後唐の第二代皇帝となる男である。
「馮殿。あなたの噂はかねてより耳にしておりました。乱世には、剣より筆が重くなる時もある。我らが殿下も、それをよくご存じだ」
李嗣源の眼光は鋭く、しかしその語り口は率直で、兵を率いる将の風格が漂っていた。
最後に現れたのは、董璋。重厚な甲冑を身にまといながらも、どこか農夫のような素朴さを残すその姿は、まさに野戦を重ねた歴戦の勇者であった。
「文官というのは、どうにも性に合わんと思ってたが……馮殿、あんたは違う気がする。俺のような武人にもわかる言葉で話してくれるからな」
馮道は静かに微笑むと、一歩下がり、三人に向かって深々(ふかぶか)と礼をした。
「世の混沌を正すために、言葉の力がほんの少しでも役立つなら、この身、惜しむことはありません」
この日から、馮道は晋陽にて李存勗の政務を補佐し、やがて後唐の成立に至るまで、幾度となく戦火と政争のただ中に身を置くこととなる。だがその歩みは、常に静かで、穏やかで、そして揺るがぬ芯を持っていた。
乱世のなかで、一人の文人が如何にして五朝に仕え、なおその節を保ち続けたのか──その物語は、まさにこの晋陽の地から始まったのである。
〇『風、未だ定まらず ― 晋陽にて』
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風、未だ定まらず ― 晋陽にて
雲一つない青天の下、晋陽の街並みが春の光に包まれていた。
瓦葺きの屋根の向こうに、太原の山々(やまやま)が墨のように連なっている。かつて前漢の武帝がここを「北の要」と称したことも頷けよう。匈奴と対峙するための軍政拠点として、ここは悠久の昔より、風と戦の交差する地であった。
いまこの晋陽には、新たな天下を夢見る男たちが集い、策を練っている。
馮道はその一人であった。かつて幽州の牢に繋がれた身であったが、いまは一転して、後唐の礎を築こうとする俊傑たちの中に名を連ねている。
この日、馮道は城内の一角、古木に囲まれた庭園で李嗣源と対面していた。李嗣源は、先帝・李克用の養子であり、現・李存勗の従兄弟。武人としての風格と、文に通じた聡明さを併せ持つ人物である。
「馮殿、晋陽の空気には、ようやく慣れましたか」
そう声をかけてきた李嗣源は、まだ若々(わかわか)しい面差しながら、言葉にはどこか老成した重みがあった。
「ええ、おかげさまで……晋陽とは、まこと、面白い土地ですな」
馮道はゆるりと微笑んだ。
「辺境に近く、武門の気質が根付いている。だが、交易にも長け、匠たちの技も見事。政治の根を張るには、なかなか骨が折れましょう」
「ふむ。それは確かに……父の代からの軍閥政権です。法の整備よりも軍令の迅速、理よりも義に重きを置く風土。それがこの晋州の気風ですな」
李嗣源は冷やかな声で答える。
「しかし、帝業をなすというのなら、それでは足りぬ。軍だけでは天下を治められません」
馮道は頷いた。
「まさに仰せの通りです。ゆえに、わたくしどものような文人が必要とされるのでしょう。制度の整備、財政の基盤、地方官の任免。武ではなく、理に基づく政治。それを小さくとも、まずこの晋陽から始めねばなりません」
「民の暮らしを、兵の規律を、官の秩序を整え……」
李嗣源は庭の池を見つめた。
「――そのすべての先に、天子の道がある」
しばし、二人は無言で風を聞いた。
李嗣源がふと目を細めて言う。
「だが問題は、我が軍の拡張にあります。西は岐、南には梁がいまだに牙を剥き、北では契丹が動いている。拡張と防衛、その両立なくしては、我らの夢は潰えましょう」
馮道は静かに問い返す。
「李将軍は、拡張をどのように考えですか? たとえば、征服か。懐柔か」
李嗣源はふっと笑った。
「それを今、あなたに聞いてみたかった。幽州にて学び、各地の政変を乗り越え、今なお筆を執る文人の目から見て――この国は、どう進むべきでしょうか」
しばしの沈黙。
馮道は空を仰ぎ、ゆっくりと口を開いた。
「恐は、戦と政の並行が肝要です。李存勗様は名将にして、野戦の雄。ですが、民の心を掴むには、兵ばかりでは不十分。各地の郡県を掌握したならば、その地の豪族を取り込み、旧官人を登用し、穏やかな改革を進めるべきです」
「うむ……つまり、柔かく包み込むような天下取り、か」
李嗣源は頷いた。
「そう、それが馮道殿の道――“柔よく剛を制す”ということですな」
ふと、李嗣源の声が低くなる。
「やがて李存勗様が中原を手中に収めたなら、都を開き、帝となられる。そうなれば、あなたの才もますます必要になりましょう」
馮道は穏やかに笑った。
「私など、時流に押されて流れ着いた身。されど、一滴の墨が、紙の上に何かを刻むこともあるでしょう。もしその役目があるのなら、喜んで引き受けます」
風が吹き抜けた。
木々(きぎ)の葉が揺れ、どこかで鴉が鳴いた。
――戦乱の世のただなかで、理と武とが交錯する。 馮道という一筆が、後の歴史に何を描き出すかは、まだ誰にもわからなかった。