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変節の宰相:馮道:序章:青年時代③

〇『北地の風、幽州に立つ』


――馮道、乱世に門を叩く――


朝靄(あさもや)のなか、風(かぜ)が乾(かわ)いた大地(だいち)を擦(こす)る。 私(わたし)――馮道(ふう・どう)は、その風(かぜ)の中(なか)に立(た)っていた。齢(よわい)三十(さんじゅう)に近(ちか)づこうとしていた頃(ころ)である。


私(わたし)の故郷(こきょう)、易州(えきしゅう)は幽州(ゆうしゅう)――すなわち今(いま)の北京(ぺきん)あたり――の南(みなみ)にある小(ちい)さな地(ち)だ。唐(とう)の末(すえ)、世(よ)はすでに混迷(こんめい)の底(そこ)にあった。天子(てんし)の詔(みことのり)は辺境(へんきょう)に届(とど)かず、兵(へい)は民(たみ)を守(まも)らず、そして義(ぎ)もまた力(ちから)の前(まえ)に屈(くっ)する。そんな世(よ)に、私(わたし)は生(う)まれ育(そだ)った。


唐王朝(とうおうちょう)。 数百(すうひゃく)年(ねん)の栄華(えいが)を誇(ほこ)ったその帝国(ていこく)も、安史(あんし)の乱(らん)以降(いこう)は急速(きゅうそく)にその命脈(めいみゃく)を縮(ちぢ)めていた。節度使(せつどし)という名(な)の地方軍閥(ちほうぐんばつ)が力(ちから)を持(も)ち、やがて皇帝(こうてい)の言葉(ことば)すら無視(むし)する時代(じだい)が来(き)た。そして、ついに朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)が唐(とう)の最後(さいご)の帝(てい)、哀宗(あいそう)を禅譲(ぜんじょう)させ、「後梁(こうりょう)」を建(た)てたのは、私(わたし)が二十半(はん)ばの頃(ころ)だった。


だが、その乱世(らんせ)において、幽州(ゆうしゅう)もまた例外(れいがい)ではなかった。幽州(ゆうしゅう)を支配(しはい)していたのは、劉仁恭(りゅう・じんきょう)という男(おとこ)。盧龍軍(ろりゅうぐん)節度使(せつどし)として、独立(どくりつ)同然(どうぜん)の政権(せいけん)を築(きず)いていた。そしてその子(こ)、劉守光(りゅう・しゅこう)は、父(ちち)を押(お)しのけ、幽州(ゆうしゅう)の実権(じっけん)を握(にぎ)ったのである。


劉守光(りゅう・しゅこう)の治世(ちせい)は――率直(そっちょく)に申(もう)せば――暴(ぼう)にして傲(ごう)であった。 彼(かれ)は厳(きび)しい税(ぜい)を課(か)し、重(おも)い兵役(へいえき)を課(か)し、民(たみ)の暮(く)らしは疲弊(ひへい)した。噂(うわさ)には飢(う)えにより家族(かぞく)を売(う)る者(もの)もいると聞(き)いた。そんな中(なか)、私(わたし)は文官(ぶんかん)として彼(かれ)のもとに仕(つか)え、せめてもの理(ことわり)を説(と)こうと努(つと)めた。


ある日(ひ)のこと。劉守光(りゅう・しゅこう)は苛烈(かれつ)な徴兵令(ちょうへいれい)を下(くだ)し、村々(むらむら)から若者(わかもの)をかき集(あつ)めた。 私(わたし)は控(ひか)えの間(ま)に呼(よ)ばれ、声(こえ)をかけられた。


「馮道(ふう・どう)よ、お前(まえ)は何(なに)を考(かんが)えているのだ。これほどの兵力(へいりょく)なくして、幽州(ゆうしゅう)を守(まも)れん。命令(めいれい)は絶対(ぜったい)だ」


私(わたし)はためらいながらも口(くち)を開(ひら)いた。


「主上(しゅじょう)。民(たみ)の暮(く)らしは限界(げんかい)に達(たっ)しております。あまりに重(おも)い負担(ふたん)は、必(かなら)ず反発(はんぱつ)と怠慢(たいまん)を生(う)み、軍(ぐん)の士気(しき)をそぐこととなります」


しかし、劉守光(りゅう・しゅこう)の目(め)は鋭(するど)く光(ひか)り、怒(いか)りが滲(にじ)んだ。


「文人(ぶんじん)が現場(げんば)を知(し)らぬのは当然(とうぜん)。お前(まえ)は私(わたし)に逆(さから)うのか」


やがて数日後(すうじつご)、私(わたし)の屋敷(やしき)に兵(へい)が押(お)し入(い)り、文書(ぶんしょ)と書籍(しょせき)を押収(おうしゅう)された。私(わたし)は幽州(ゆうしゅう)城内(じょうない)の牢(ろう)に投(とう)じられたのだ。


暗(くら)い檻(おり)の中(なか)、夜毎(よごと)に聞(き)こえるは兵(へい)の怒号(どごう)と民(たみ)の嘆(なげ)き。外(そと)の世界(せかい)は混沌(こんとん)そのものだった。 だが、私(わたし)は腐(くさ)らなかった。静(しず)かに筆(ふで)を取(と)り、心(こころ)を鎮(しず)め、いつかこの乱世(らんせ)に理(ことわり)を取(と)り戻(もど)す時(とき)を夢見(ゆめみ)た。


数月後(すうげつご)、政局(せいきょく)の変動(へんどう)により劉守光(りゅう・しゅこう)は敗(やぶ)れ、私(わたし)の身(み)の上(うえ)も変(か)わる。だが、その話(はなし)はまた別(べつ)の機会(きかい)に。


幽州(ゆうしゅう)の風(かぜ)はいまも記憶(きおく)に残(のこ)る。乾(かわ)いていて、冷(つめ)たくて――そして、乱世(らんせ)の匂(にお)いがした。




〇『幽州獄中の風にて』


獄舎(ごくしゃ)の薄明(うすあ)かりが壁(かべ)を淡(あわ)く照(て)らす。冷(つめ)たい石(いし)の床(ゆか)に座(すわ)り込(こ)み、私(わたし)は過(す)ぎ去(さ)りし日(ひ)の記憶(きおく)を辿(たど)っていた。


私(わたし)は馮道(ふう・どう)。幽州(ゆうしゅう)の牢(ろう)に囚(とら)われてなお、心(こころ)は自由(じゆう)を求(もと)めている。


かつて唐王朝(とうおうちょう)は、中国(ちゅうごく)を悠久(ゆうきゅう)の歴史(れきし)の彼方(かなた)から支配(しはい)してきた偉大(いだい)な帝国(ていこく)であった。しかし、時代(じだい)の波(なみ)は容赦(ようしゃ)なく押(お)し寄(よ)せた。安史(あんし)の乱(らん)以降(いこう)、中央(ちゅうおう)の権威(けんい)は弱(よわ)まり、地方(ちほう)に節度使(せつどし)と呼(よ)ばれる軍事長官(ぐんじちょうかん)が割拠(かっきょ)するようになった。


その混乱(こんらん)の中(なか)、朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)という人物(じんぶつ)が現(あらわ)れた。彼(かれ)は唐(とう)の末期(まっき)、黄巣(こうそう)の乱(らん)を鎮圧(ちんあつ)した武将(ぶしょう)であり、後(のち)に自身(じしん)の力(ちから)を拡大(かくだい)させて唐(とう)の皇帝(こうてい)を禅譲(ぜんじょう)させ、自(みずか)ら後梁(こうりょう)という新王朝(しんおうちょう)を建(た)てた。


だが朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)とは、ただの軍閥(ぐんばつ)ではない。冷徹(れいてつ)で狡猾(こうかつ)、時(とき)に冷酷(れいこく)な面(めん)を持(も)ちながらも、乱世(らんせ)を生(い)き抜(ぬ)く非凡(ひぼん)な政治家(せいじか)であった。彼(かれ)の野望(やぼう)は大(おお)きく、強靭(きょうじん)な意志(いし)で動乱(どうらん)の時代(じだい)を切(き)り開(ひら)いた。


一方(いっぽう)、彼(かれ)と激(はげ)しく争(あらそ)ったのが李克用(り・こくよう)という名将(めいしょう)である。李克用(り・こくよう)は漢族(かんぞく)と契丹(きったん)などの混血(こんけつ)である沙陀(さだ)族(ぞく)の出身(しゅっしん)であり、その血(ち)には北方遊牧民族(ほっぽうゆうぼくみんぞく)の逞(たくま)しさが流(なが)れている。彼(かれ)は河北(かほく)地方(ちほう)を支配(しはい)し、節度使(せつどし)として唐(とう)の名(な)を借(か)りつつも実質的(じっしつてき)な独立勢力(どくりつせいりょく)を築(きず)いた。


また、李克用(り・こくよう)の軍(ぐん)は「鴉軍(あぐん)」と呼(よ)ばれていた。その名(な)は黒(くろ)い甲冑(かっちゅう)に身(み)を包(つつ)み、まるで群(むれ)れ飛(と)ぶ鴉(からす)のように素早(すばや)く、そして厳格(げんかく)に戦(たたか)うその兵(へい)たちの姿(すがた)に由来(ゆらい)している。敵兵(てきへい)が彼(かれ)らを目(め)にするとき、その黒(くろ)い軍勢(ぐんぜい)の圧倒的(あっとうてき)な存在感(そんざいかん)に戦慄(せんりつ)したという。


さらに、李克用(り・こくよう)は「独眼竜(どくがんりゅう)」とも称(しょう)された。若(わか)い頃(ころ)の戦(たたか)いで負傷(ふしょう)し、一方(いっぽう)の眼(め)を失(うしな)ったためである。その隻眼(せきがん)の勇将(ゆうしょう)は、その目(め)に宿(やど)る鋭(するど)い光(ひかり)で多(おお)くの敵(てき)を威圧(いあつ)し、戦場(せんじょう)ではまさに不動(ふどう)の存在(そんざい)であった。


李克用(り・こくよう)は豪放磊落(ごうほうらいらく)で、武勇(ぶゆう)に優(すぐ)れ、民衆(みんしゅう)からの支持(しじ)も厚(あつ)かった。冷酷(れいこく)な面(めん)を持(も)つ朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)とは対照的(たいしょうてき)に、彼(かれ)の強(つよ)さは正義感(せいぎかん)にも支(ささ)えられていた。


李克用(り・こくよう)の後(あと)を継(つ)いだのが息子(むすこ)、李存勗(り・そんきょく)だ。彼(かれ)は父(ちち)の威光(いこう)を受(う)け継(つ)ぎつつ、さらに政治的(せいじてき)手腕(しゅわん)に長(た)け、後唐(こうとう)という王朝(おうちょう)を立(た)ち上(あ)げた。李存勗(り・そんきょく)は若(わか)くして英明(えいめい)と謳(うた)われ、多(おお)くの将兵(しょうへい)から慕(した)われた指導者(しどうしゃ)であった。


この二人(ふたり)の間(あいだ)で繰(く)り広(ひろ)げられた抗争(こうそう)は、まさに五代十国時代(ごだいじゅっこくじだい)の象徴(しょうちょう)だった。朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)の後梁(こうりょう)は中原(ちゅうげん)を制(せい)し、李存勗(り・そんきょく)の後唐(こうとう)は河北(かほく)を根拠(こんきょ)とした。互(たが)いの勢力(せいりょく)は譲(ゆず)らず、戦火(せんか)は絶(た)えなかった。


私(わたし)はこの幽州(ゆうしゅう)の獄中(ごくちゅう)にありながらも、政局(せいきょく)の動(うご)きを肌(はだ)で感(かん)じる。遠(とお)く離(はな)れた京師(けいし)から、断片的(だんぺんてき)な情報(じょうほう)が漏(も)れ伝(つた)わってくるのだ。


朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)の冷徹(れいてつ)さと李克用(り・こくよう)、李存勗(り・そんきょく)の剛胆(ごうたん)さ。二(ふた)つの王朝(おうちょう)は、時(とき)に刃(やいば)を交(まじ)え、時(とき)に策略(さくりゃく)を巡(めぐ)らせ、後(のち)の世(よ)を大(おお)きく揺(ゆ)るがせた。


私(わたし)がこの獄舎(ごくしゃ)で見(み)つめるのは、ただ己(おのれ)の身(み)の上(うえ)ばかりではない。混迷(こんめい)の世(よ)にあって、いかに生(い)きるべきか――その答(こた)えを模索(もさく)し続(つづ)けている。


そしていつの日(ひ)か、この乱世(らんせ)の渦(うず)を抜(ぬ)け出(だ)し、再(ふたた)び風(かぜ)のように自由(じゆう)に動(うご)ける日(ひ)を夢見(ゆめみ)ている。



〇『幽州の獄中より、新たな風を待つ』


――馮道、乱世の狭間にて――


私(わたし)は今(いま)、幽州(ゆうしゅう)の牢獄(ろうごく)の中(なか)にいる。冷(つめ)たく暗(くら)い石(いし)の壁(かべ)に囲(かこ)まれ、陽(ひ)の光(ひかり)は届(とど)かず、時(とき)の感覚(かんかく)は薄(うす)れていた。ここに監禁(かんきん)されてからどれほどの歳月(さいげつ)が流(なが)れたのか、それすら分(わ)からなくなっていた。長(なが)きにわたる孤独(こどく)と苛烈(かれつ)な日々(ひび)は、精神(せいしん)だけでなく身体(しんたい)も蝕(むしば)んだ。しかし、それでも私(わたし)の心(こころ)は折(お)れなかった。いや、むしろこの暗闇(くらやみ)の中(なか)でこそ、時代(じだい)の流れ(ながれ)を深(ふか)く見(み)つめることができた。


あの頃(ころ)の中国(ちゅうごく)は、激(はげ)しい群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代(じだい)であった。長(なが)きにわたる唐王朝(とうおうちょう)の栄華(えいが)も、ついに崩(くず)れ去(さ)り、その末期(まっき)は混迷(こんめい)を極(きわ)めていた。朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)という男(おとこ)が、かつての唐(とう)の都長安(とちょうあん)を掌握(しょうあく)し、907年(ねん)に後梁(こうりょう)を建国(けんこく)した。彼(かれ)は、かつては唐(とう)の軍人(ぐんじん)であったが、その野望(やぼう)は留(とど)まるところを知(し)らず、混乱(こんらん)の中(なか)で皇帝(こうてい)の座(ざ)を簒奪(さんだつ)したのである。


後梁(こうりょう)は中原(ちゅうげん)の大地(だいち)を支配(しはい)したが、その周辺(しゅうへん)には依然(いぜん)として多(おお)くの軍閥(ぐんばつ)が割拠(かっきょ)していた。なかでも北方(ほっぽう)、幽州(ゆうしゅう)を中心(ちゅうしん)に勢力(せいりょく)を張(は)っていたのが劉守光(りゅう・しゅこう)である。彼(かれ)は堅固(けんご)な軍事力(ぐんじりょく)と冷徹(れいてつ)な政治感覚(せいじかんかく)でこの地(ち)を治(おさ)め、私(わたし)もまたその幕僚(ばくりょう)として彼(かれ)に仕(つか)えていた。


そんな折(おり)、北(きた)の荒涼(こうりょう)たる地(ち)から強力(きょうりょく)な敵(てき)が迫(せま)ってきた。李存勗(り・そんきょく)、後唐(こうとう)の武将(ぶしょう)であり、名高(なだか)き「独眼竜(どくがんりゅう)」と呼(よ)ばれた人物(じんぶつ)だ。彼(かれ)は契丹(きったん)族(ぞく)に起源(きげん)を持(も)つ将軍(しょうぐん)、**李克用(り・こくよう)**の息子(むすこ)である。その軍(ぐん)は黒衣(こくい)を纏(まと)っていた。このことから「鴉軍(あぐん)」と恐(おそ)れられていた。李克用(り・こくよう)自身(じしん)もまた、隻眼(せきがん)の武将(ぶしょう)で、その勇猛果敢(ゆうもうかかん)な姿(すがた)は敵味方(てきみかた)を問(と)わず畏敬(いけい)の念(ねん)を抱(いだ)かせた。


李存勗(り・そんきょく)が率(ひき)いる鴉軍(あぐん)は幽州(ゆうしゅう)に向(む)けて進軍(しんぐん)を開始(かいし)した。劉守光(りゅう・しゅこう)はこれに応戦(おうせん)したが、両軍(りょうぐん)の激(はげ)しい戦(たたか)いは後者(こうしゃ)の敗北(はいぼく)をもって幕(まく)を閉(と)じることとなった。幽州(ゆうしゅう)は李存勗(り・そんきょく)の手(て)に落(お)ち、私(わたし)は敵(てき)の牢獄(ろうごく)に幽閉(ゆうへい)される身(み)となった。


牢獄(ろうごく)の中(なか)で、私(わたし)は日々(ひび)の苦(くる)しみに耐(た)えながらも、この乱世(らんせ)の中(なか)で如何(いかに)に生(い)き延(の)びるかを思案(しあん)していた。政治(せいじ)の風(かぜ)は激(はげ)しく吹(ふ)き荒(あら)れ、敵(てき)も味方(みかた)も簡単(かんたん)に変(か)わる。そんな時代(じだい)、知略(ちりゃく)と機転(きてん)こそが命(いのち)を繋(つな)ぐ唯一(ゆいいつ)の糸(いと)であった。


ある日(ひ)、牢(ろう)の扉(とびら)が重々(おもがおも)しく開(あ)き、軍人(ぐんじん)たちが私(わたし)を迎(むか)えにきた。李存勗(り・そんきょく)が私(わたし)を牢(ろう)から釈放(しゃくほう)し、自身(じしん)の側(そば)に迎(むか)え入(い)れるという。なぜ彼(かれ)が私(わたし)に興味(きょうみ)を持(も)ったのか。それは私(わたし)がかつて多(おお)くの政務(せいむ)に携(たずさ)わり、混乱(こんらん)の中(なか)でも冷静(れいせい)な判断力(はんだんりょく)を持(も)っていたこと、そして何(なに)より、乱世(らんせ)の中(なか)で必要(ひつよう)とされる「知恵(ちえ)」を備(そな)えていると見抜(みぬ)いたからであろう。


李存勗(り・そんきょく)が私(わたし)の前(まえ)に姿(すがた)を現(あらわ)した時(とき)、彼(かれ)は静(しず)かながらも力強(ちからづよ)い眼差(まなざ)しで私(わたし)を見(み)つめた。


「馮道(ふう・どう)よ、我(わ)が軍(ぐん)は戦(たたか)いに長(た)けているが、天下(てんか)を治(おさ)めるには知恵(ちえ)も必要(ひつよう)だ。お前(まえ)の才知(さいち)を、わがために貸(か)してはもらえぬか。」


その言葉(ことば)に私(わたし)は心(こころ)の奥底(おくそこ)から震(ふる)えるものを感(かん)じた。牢獄(ろうごく)での孤独(こどく)な日々(ひび)が報(むく)われるかのように、そして新(あら)たな未来(みらい)への扉(とびら)が開(ひら)かれた瞬間(しゅんかん)でもあった。


かくして、私(わたし)は李存勗(り・そんきょく)の下(もと)で再(ふたた)び新(あら)たな役割(やくわり)を担(にな)うこととなる。混乱(こんらん)の中(なか)、時代(じだい)の波(なみ)に逆(さから)わず、しかし己(おのれ)の才覚(さいかく)を尽(つ)くして生(い)き抜(ぬ)く。その決意(けつい)を胸(むね)に、私(わたし)は幽州(ゆうしゅう)の牢獄(ろうごく)から解(と)き放(はな)たれたのだった。

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