↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/24

変節の宰相:馮道:序章:青年時代②

〇【秋の政庁にて ~馮道、後梁に仕官す~】


乾(かわ)いた秋の風が、薊(けい)県(けん)の空を吹(ふ)き抜(ぬ)けていた。黄土(こうど)の町に赤く色づいた楡(にれ)の葉が舞(ま)い、遠くには落日(らくじつ)の金が薄(うす)くかかっている。


「唐(とう)が……とうとう滅(ほろ)びたか」


その噂(うわさ)は、市井(しせい)の酒肆(しゅし)からも、官(かん)の口伝(くちづた)えからも、密(ひそ)やかに、しかし確(たし)かに馮道(ふう・どう)の耳に届(とど)いていた。時(とき)は天祐(てんゆう)四年(西暦(せいれき)907年)、唐最後(さいご)の皇帝(こうてい)・哀帝(あいてい)が朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)によって廃(はい)され、「後梁(こうりょう)」という新(あら)たな王朝(おうちょう)が立(た)てられた年(とし)であった。


かつての栄光(えいこう)――玄宗(げんそう)・貞観(じょうがん)の治(ち)、都長安(とちょうあん)の百万人(ひゃくまんにん)――は、もはや昔語(むかしがた)りでしかない。 馮道(ふう・どう)は二十代半(はば)ば。寒門(かんもん)の子として生(う)まれ、学(がく)をもって身(み)を立(た)てると決(き)めていた。


戦乱(せんらん)と飢饉(ききん)に疲弊(ひへい)する中原(ちゅうげん)を前(まえ)に、彼(かれ)は一つの選択(せんたく)をする。


「民(たみ)を見捨(みす)てぬ文官(ぶんかん)となろう。血(ち)を流(なが)すのではなく、筆(ふで)をもって支(ささ)えよう」


________________________________


仕官(しかん)のきっかけは、地方(ちほう)に派遣(はけん)された郷挙里選(きょうきょりせん)――優秀(ゆうしゅう)な人物(じんぶつ)を推薦(すいせん)する制度(せいど)によるものであった。 馮道(ふう・どう)の学識(がくしき)と几帳面(きちょうめん)さ、そして人(ひと)の話(はなし)をよく聞(き)く耳(みみ)と物腰(ものごし)の柔(やわ)らかさは、すぐに節度使(せつどし)の目(め)にとまる。


「これからの時代(じだい)、剣(けん)よりも文(ぶん)が必要(ひつよう)になる。おぬしのような者(もの)にこそ、政(まつりごと)を託(たく)したい」


そう語(かた)ったのは、当時(とうじ)の幽州(ゆうしゅう)の節度使(せつどし)の一人(ひとり)、柳璨(りゅう・さん)であったと伝(つた)えられている。 馮道(ふう・どう)はその幕下(ばっか)に入(はい)り、文職(ぶんしょく)――つまり地方行政(ちほうぎょうせい)の事務官(じむかん)として働(はたら)き始(はじ)める。


________________________________


秋(あき)の政庁(せいちょう)。 庶民(しょみん)の陳情(ちんじょう)、税(ぜい)の台帳(だいちょう)、略奪(りゃくだつ)を受(う)けた村(むら)の報告(ほうこく)、民兵(みんぺい)の徴集(ちょうしゅう)名簿(めいぼ)――。


馮道(ふう・どう)の机(つくえ)には、時(とき)に百枚(ひゃくまい)を超(こ)す文書(ぶんしょ)が積(つ)まれた。 それを黙々(もくもく)と読(よ)み、整理(せいり)し、誤字(ごじ)を訂(てい)し、必要(ひつよう)ならば自(みずか)ら筆(ふで)を取(と)り、清書(せいしょ)する。


「この地(ち)の米(こめ)は今年(ことし)七分(ななぶ)どまり、加徴(かちょう)は不可(ふか)。兵糧(ひょうろう)の徴発(ちょうはつ)は隣州(りんしゅう)より転(てん)じさせるべし」 「里正(りせい)が失踪(しっそう)したとの報(ほう)、代(か)わりを立(た)てねば村(むら)が回(まわ)らぬ」 「豪族(ごうぞく)が井戸(いど)を占拠(せんきょ)との件(けん)、早急(そうきゅう)に役人(やくにん)を送(おく)って調停(ちょうてい)を」


誰(だれ)が見(み)ても地味(じみ)で報(むく)われぬ役回(やくまわ)り。だが、彼(かれ)は己(おのれ)の使命(しめい)を理解(りかい)していた。


「民(たみ)の安(やす)き日々(ひび)は、この机(つくえ)の上(うえ)から始(はじ)まるのだ」


________________________________


やがて、その誠実(せいじつ)さが伝(つた)えられ、馮道(ふう・どう)は後梁(こうりょう)の中央政府(ちゅうおうせいふ)に召(め)される。 だが、彼(かれ)は急(いそ)がず、驕(おご)らず、ひとつずつ職務(しょくむ)を積(つ)み上(あ)げていく。


世(よ)はまさに五代十国(ごだいじゅっこく)の入(い)り口(くち)。王朝(おうちょう)はめまぐるしく変(か)わるが、馮道(ふう・どう)はただ一(ひと)つの信念(しんねん)――


「順応(じゅんのう)しつつ、民(たみ)を思(おも)うこと」


を胸(むね)に抱(いだ)き、筆(ふで)を取(と)っていた。




〇【筆にて記す――馮道の回想】


──秋(あき)の夕暮(ゆうぐ)れ。風(かぜ)に乗(の)って、紙(かみ)の端(はし)がさらさらと音(おと)を立(た)てる。 机(つくえ)に向(む)かい、筆(ふで)を執(と)る私(わたし)の手(て)は、時折(ときおり)ふと止(と)まる。 思(おも)い出(だ)すのは、唐(とう)の終(お)わりと、新(あら)たな王朝(おうちょう)のはじまり。 まこと、歴史(れきし)とは紙(かみ)に記(しる)すよりも早(はや)く、そして無情(むじょう)に流(なが)れてゆくものだ。


私(わたし)は馮道(ふう・どう)。 今(いま)こうして中原(ちゅうげん)の一隅(いちぐう)で筆(ふで)をとる身(み)だが、かつての唐(とう)の末(すえ)に生(う)まれ、いまや後梁(こうりょう)という新(あら)たな王朝(おうちょう)のもとで仕官(しかん)している。 その間(あいだ)に起(お)きたすべてのことを、簡単(かんたん)に語(かた)ることなど本来(ほんらい)はできぬのだが……それでも、振(ふ)り返(かえ)らねばならぬ時(とき)もある。


________________________________


かつて唐(とう)は、天下(てんか)に冠(かん)たる大帝国(だいていこく)であった。 長安(ちょうあん)を都(みやこ)とし、玄宗(げんそう)の世(よ)には万国(ばんこく)が朝貢(ちょうこう)し、律令(りつれい)と儒教(じゅきょう)に支(ささ)えられた秩序(ちつじょ)が大地(だいち)を包(つつ)んでいた。 だが、栄華(えいが)は長(なが)く続(つづ)かぬ。安禄山(あん・ろくざん)の乱(らん)――それがすべてのはじまりだった。


唐(とう)の中央(ちゅうおう)はこの反乱(はんらん)によって大(おお)きく揺(ゆ)らぎ、節度使(せつどし)と呼(よ)ばれる地方(ちほう)の軍事長官(ぐんじちょうかん)たちが力(ちから)を持(も)ちすぎた。 本来(ほんらい)は皇帝(こうてい)の命(めい)に従(したが)うべき彼(かれ)らが、やがて自(みずか)らの領土(りょうど)を私物化(しぶつか)し、「一国一城(いっこくいちじょう)の主(あるじ)」と化(か)していく。 その中(なか)で、名(な)ばかりの皇帝(こうてい)は都(みやこ)で帳簿(ちょうぼ)を眺(なが)めるばかりとなり、兵権(へいけん)も財政(ざいせい)も彼(かれ)らの手(て)に渡(わた)っていた。


そして、ついにその一人(ひとり)――朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)が現(あらわ)れた。


________________________________


朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)。 元(もと)は黄巣(こうそう)という大乱(たいらん)の中(なか)で頭角(とうかく)を現(あらわ)した武人(ぶじん)にすぎなかった。 粗野(そや)で剛胆(ごうたん)、しかし情(なさけ)け容赦(ようしゃ)のない男(おとこ)。 戦場(せんじょう)においては敵(てき)を容赦(ようしゃ)なく屠(ほふ)り、部下(ぶか)には鉄(てつ)の規律(きりつ)をもって臨(のぞ)んだ。 「忠義(ちゅうぎ)」とは名(な)ばかりで、彼(かれ)が仕(つか)えた唐(とう)の朝廷(ちょうてい)すら、もはや彼(かれ)の操(あやつ)り人形(にんぎょう)にすぎなかった。


ついには、唐(とう)の最後(さいご)の皇帝(こうてい)・哀帝(あいてい)を廃(はい)し、自(みずか)ら「梁(りょう)の帝(みかど)」を称(しょう)した。 このとき、唐(とう)はついに滅(ほろ)んだ。 天祐(てんゆう)四年(907年)のこと。私(わたし)が二十余歳(にじゅうよさい)であったときの、忘(わす)れがたき出来事(できごと)である。


________________________________


新(あら)たな王朝(おうちょう)の名(な)は「後梁(こうりょう)」。 都(みやこ)は汴州(べんしゅう、いまの開封(かいほう))に置(お)かれ、中原(ちゅうげん)を中心(ちゅうしん)に一定(いってい)の支配(しはい)を確立(かくりつ)した。 だが、その政(まつりごと)は唐(とう)のそれとは違(ちが)う。制度(せいど)よりも武力(ぶりょく)、法(ほう)よりも威圧(いあつ)。 朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)は、かつての儒者(じゅしゃ)たちの言(げん)を顧(かえり)みることなく、功績(こうせき)ある者(もの)には土地(とち)と官職(かんしょく)を、逆(さか)らう者(もの)には死(し)を与(あた)えた。


私(わたし)はこの梁(りょう)のもとで仕官(しかん)し、文職(ぶんしょく)を任(まか)されていたが、内心(ないしん)には常(つね)にある問(と)いがあった。


「この王朝(おうちょう)に、未来(みらい)はあるのか」


朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)は強(つよ)く、そして速(すみ)やかに国(くに)をまとめた。 だがその足元(あしもと)には、怨嗟(えんさ)と野心(やしん)と、いくつもの火種(ひだね)が転(ころ)がっていた。


歴史(れきし)とは、常(つね)に前(まえ)の世(よ)を踏(ふ)みつけで進(すす)むものだ。 だが、その踏(ふ)み跡(あと)に残(のこ)る人々(ひとびと)の声(こえ)を、私(わたし)は聞き続(ききつづ)けたい。 だからこそ、私(わたし)は筆(ふで)を執(と)るのだ。




〇【風の通い路 ― 馮道、梁の戦に想う】


都(みやこ)、汴州(べんしゅう)。夏(なつ)を越(こ)え、秋(あき)の気(き)が忍(しの)び寄(よ)る頃(ころ)となりました。 西(にし)の庭先(にわさき)で風鈴(ふうりん)が鳴(な)り、乾(かわ)いた音(おと)がどこか遠(とお)くへ響(ひび)いてゆくのを、私(わたし)は文案(ぶんあん)の合間(あいま)に、ふと耳(みみ)にいたしました。


馮道(ふう・どう)と申(もう)します。 時(とき)に、唐(とう)が滅(ほろ)んで五年(ごねん)。世(よ)はすでに「梁(りょう)」と名(な)を変(か)えております。


私(わたし)がこの梁(りょう)に仕(つか)えるようになったのは、唐(とう)の崩壊(ほうかい)と前後(ぜんご)してのこと。もとより書(しょ)を好(この)み、筆(ふで)をもって世(よ)に立(た)とうと願(ねが)った身(み)でございます。 けれど、いかに筆(ふで)が潔白(けっぱく)を語(かた)ろうとも、戦乱(せんらん)の世(よ)においては、剣(けん)と兵馬(へいば)が政(まつりごと)を支配(しはい)いたします。


________________________________


後梁(こうりょう)。それは、朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)という一人(ひとり)の武人(ぶじん)が、唐(とう)の名(な)を打(う)ち砕(くだ)いて立(た)てた新(あら)たなる王朝(おうちょう)。 彼(かれ)はかつて唐(とう)に仕(つか)え、節度使(せつどし)として権勢(けんせい)をふるい、やがて時(とき)の昭宣帝(しょうせんてい)を強引(ごういん)に禅譲(ぜんじょう)へと導(みちび)きました。 唐(とう)が滅(ほろ)んだのは、天祐(てんゆう)元年(907年)のこと。 朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)は、国号(こくごう)を「梁(りょう)」と定(さだ)め、自(みずか)らは「太祖(たいそ)」と称(しょう)しました。


けれど、その玉座(ぎょくざ)の下(した)には、なお燃(も)え続(つづ)ける残火(ざんか)がございました。 それが「晋(しん)」、すなわち後(のち)の後唐(こうとう)となる存在(そんざい)です。


晋王(しんおう)を名乗(なの)っていた李存勗(り・そんぎょく)── 彼(かれ)の父(ちち)・李克用(り・こくよう)は唐(とう)の忠臣(ちゅうしん)であり、異民族(いみんぞく)・沙陀(さた)族(ぞく)の雄(ゆう)として名(な)を馳(は)せた名将(めいしょう)でございました。 父(ちち)の死(し)を受(う)けて、李存勗(り・そんぎょく)は北方(ほっぽう)に拠(よ)り、唐(とう)の復興(ふっこう)を旗印(はたじるし)に掲(かか)げて晋(しん)を率(ひき)い、梁(りょう)との宿命的(しゅくめいてき)な戦(たたか)いに臨(のぞ)むのでございます。


________________________________


この梁(りょう)と晋(しん)、いずれも「中原(ちゅうげん)の主(あるじ)」を目指(めざ)して争(あらそ)っていたのは、ただ領土(りょうど)のためではありません。 梁(りょう)は武(ぶ)で簒奪(さんだつ)し、晋(しん)は義(ぎ)で奪還(だっかん)を目論(もくろ)む。 まこと、天下(てんか)を争(あらそ)う両雄(りょうゆう)でございました。


梁(りょう)においては、太祖(たいそ)・朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)があまりにも強(つよ)く、また冷徹(れいてつ)でございましたゆえ、朝廷(ちょうてい)はその影(かげ)に怯(おび)え、清廉(せいれん)の士(し)も口(くち)をつぐむ日々(ひび)が続(つづ)いておりました。 そのうえ、疑心深(ぎしんぶか)さから幾人(いくにん)もの忠臣(ちゅうしん)を処断(しょだん)し、やがて、政(まつりごと)の屋台骨(やたいぼね)を損(そこ)なってまいりました。


私(わたし)ども文官(ぶんかん)に課(か)せられたのは、もっぱら体裁(ていさい)の整(ととの)った奏文(そうぶん)を編(あ)み、都(みやこ)の内情(ないじょう)を平穏(へいおん)に見(み)せかけること。 けれど、外(そと)に目(め)を転(てん)じれば、国境(こっきょう)ではすでに幾度(いくど)となく晋軍(しんぐん)との衝突(しょうとつ)が起(お)きていたのです。


________________________________


晋(しん)の将軍(しょうぐん)たちは皆(みな)、驍勇(ぎょうゆう)でございました。 その中(なか)でも、李嗣源(り・しげん)なる人物(じんぶつ)の手腕(しゅわん)は目(め)を引(ひ)くものでした。彼(かれ)は後(のち)に李存勗(り・そんぎょく)の義兄弟(ぎきょうだい)として、さらなる運命(うんめい)を辿(たど)ることになりますが、それはまた別(べつ)の時(とき)の話(はなし)にいたしましょう。


907年(ねん)から911年(ねん)にかけて、梁(りょう)は晋(しん)と幾度(いくど)も戦(いくさ)を交(まじ)えました。 太原(たいげん)を拠点(きょてん)とする晋軍(しんぐん)は、山西(さんせい)一帯(いったい)を固(かた)め、しばしば河東(かとう)から黄河(こうが)を越(こ)えて侵攻(しんこう)してまいりました。 梁(りょう)の将(しょう)たちも奮戦(ふんせん)いたしましたが、国内(こくない)の不安(ふあん)は次第(しだい)にその足元(あしもと)を揺(ゆ)るがせておりました。




〇【沈黙の灯 ― 馮道、梁の政変を生きる】


月明(つきあか)かりというものは、不思議(ふしぎ)なものだと想(おも)います。 昼(ひる)の光(ひかり)が、万物(ばんぶつ)をあからさまに照(て)らし出(だ)すのだとすれば、夜(よる)の月(つき)は、すべてをぼかし、曖昧(あいまい)に包(つつ)み込(こ)んでくれる。 そして、その曖昧(あいまい)の中(なか)にこそ、人(ひと)は本音(ほんね)を隠(かく)し、真(しん)の姿(すがた)を沈(しず)めるのかもしれません。


天祐(てんゆう)九年(ねん)──西暦(せいれき)で申(もう)せば、九一二年(ねん)の夏(なつ)。 私(わたし)は都(みやこ)・汴州(べんしゅう)にて、政庁(せいちょう)の片隅(かたすみ)に席(せき)を得(え)ておりました。 名(な)を馮道(ふう・どう)と申(もう)します。齢(よわい)は三十(さんじゅう)。もとは遼西(りょうせい)の寒村(かんそん)に生(う)まれ、書(しょ)をもって世(よ)に立(た)たんと志(こころざ)した一介(いっかい)の文官(ぶんかん)に過(す)ぎません。


あの夜(よる)── 朱友珪(しゅ・ゆうけい)殿(どの)が、実(じつ)の父(ちち)である皇帝(こうてい)・朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)を、その手(て)にかけたという報(しら)せが都(みやこ)を走(はし)ったのは、夏(なつ)の雨(あめ)が上(あ)がったあとの蒸(む)した夜(よる)のことでございました。


________________________________


朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)──梁(りょう)の太祖(たいそ)にして、唐(とう)を滅(ほろ)ぼし、みずから帝位(ていい)についた英雄(えいゆう)です。 その剛腕(ごうわん)と冷徹(れいてつ)さは、時(とき)に恐(おそ)れと称賛(しょうさん)をもって語(かた)られました。 けれど、人(ひと)は歳(とし)を重(かさ)ねれば老(お)います。 猜疑(さいぎ)の目(め)は増(ま)し、重臣(じゅうしん)を遠(とお)ざけ、信頼(しんらい)は次第(しだい)に身内(みうち)に偏(かたよ)ってゆく。 その果(は)てに、己(おのれ)が息子(むすこ)に命(いのち)を奪(うば)われるとは──歴史(れきし)とは、かくも皮肉(ひにく)なものです。


朱友珪(しゅ・ゆうけい)は、父(ちち)の怒(いか)りを恐(おそ)れておりました。 あまりに冷酷(れいこく)な父(ちち)の目(め)が、やがて自分(じぶん)に向(む)くことを察(さっ)したのか、あるいは、すでに破滅(はめつ)の気配(けはい)を感(かん)じていたのか。 真相(しんそう)は、友珪(ゆうけい)自身(じしん)のみが知(し)ることでしょう。 しかし、事(こと)はすでに起(お)こったのです。 太祖(たいそ)は、寝所(しんじょ)にて毒(どく)を盛(も)られ、あっけなく崩(ほう)じました。


________________________________


宮中(きゅうちゅう)は震撼(しんかん)しました。 それも当然(とうぜん)でございます。 主君(しゅくん)が崩(ほう)じた。しかも、誰(だれ)の手(て)によってか、皆(みな)が知(し)っていた──けれど、誰一人(だれひとり)として、それを口(くち)にする者(もの)はいなかったのです。


私(わたし)もまた、その一人(ひとり)でございました。 筆(ふで)をとる手(て)が震(ふる)えたのを、いまでも覚(おぼ)えております。 しかし私(わたし)は、何(なに)も語(かた)りませんでした。


なぜかと申(もう)しますと、それが「生(い)き延(の)びる」ということだったからでございます。


________________________________


朱友珪(しゅ・ゆうけい)は帝位(ていい)に就(つ)きました。 年若(としわか)き帝(みかど)は、政(まつりごと)の才(さい)も、軍(ぐん)の威(い)も、父(ちち)に及(およ)ぶべくもありませんでしたが、それでも玉座(ぎょくざ)に座(すわ)れば「聖明(せいめい)なる主君(しゅくん)」でございます。


重臣(じゅうしん)たちは、恐(おそ)る恐(おそ)る膝(ひざ)を折(お)り、祝辞(しゅくじ)を捧(ささ)げました。 宮中(きゅうちゅう)の女官(にょかん)たちは、何事(なにごと)もなかったかのように装(よそお)いました。 そして私(わたし)は、いつものとおり朝早(あさはや)くに起(お)き、政庁(せいちょう)の机(つくえ)に向(む)かい、命(めい)ぜられるままに詔(みことのり)を草(くさ)しました。


──言葉(ことば)は、刃(やいば)にも、盾(たて)にもなる。 この世(よ)の真理(しんり)でございます。 ならば、いま私(わたし)にできることはただ一(ひと)つ。 「沈黙(ちんもく)」でございます。


誰(だれ)を責(せ)めず、誰(だれ)を裁(さば)かず。 そのかわりに、命(いのち)をつなぎ、次(つぎ)の世(よ)を見届(みとど)けること。


________________________________


思(おも)えば、私(わたし)が初(はじ)めて朝廷(ちょうてい)に入(はい)ったのは、まだ唐(とう)の末期(まっき)でございました。 乱世(らんせ)のうねりに飲(の)まれながら、帝(みかど)が代(か)わり、政(まつりごと)が転(てん)じるさまを何度(なんど)となく見(み)てまいりました。 けれど、変(か)わらぬものもあるのです。


それは、夜(よる)が明(あ)け、また日(ひ)が昇(のぼ)るということ。 そして、人(ひと)は生(い)きていれば、まだ何(なに)かを為(な)せるということ。


朱友珪(しゅ・ゆうけい)の治世(ちせい)は、短(みじか)いものでございました。 わずか一年(いちねん)あまりののち、異母弟(いぼてい)・朱友貞(しゅ・ゆうてい)に討(う)たれ、都(みやこ)にふたたび剣戟(けんげき)の音(おと)が響(ひび)くこととなります。


──けれど、その話(はなし)はまた、別(べつ)の折(おり)にいたしましょう。


________________________________


月(つき)は、静(しず)かに照(て)っております。 何(なに)が真(しん)で、何(なに)が偽(いつわ)りか──そんなことは、月(つき)も知(し)らぬことでしょう。 ただ、私(わたし)はこうして筆(ふで)を取(と)り、生(い)きて、記(しる)すことができております。


それで、今(いま)は十分(じゅうぶん)でございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。