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変節の宰相:馮道:序章:青年時代②

〇【秋の政庁にて ~馮道、後梁に仕官す~】


かわいた秋の風が、けいけんの空をけていた。黄土こうどの町に赤く色づいたにれの葉がい、遠くには落日らくじつの金がうすくかかっている。


とうが……とうとうほろびたか」


そのうわさは、市井しせい酒肆しゅしからも、かん口伝くちづたえからも、ひそやかに、しかしたしかに馮道ふう・どうの耳にとどいていた。とき天祐てんゆう四年(西暦せいれき907年)、唐最後さいご皇帝こうてい哀帝あいてい朱全忠しゅ・ぜんちゅうによってはいされ、「後梁こうりょう」というあらたな王朝おうちょうてられたとしであった。


かつての栄光えいこう――玄宗げんそう貞観じょうがん都長安とちょうあん百万人ひゃくまんにん――は、もはや昔語むかしがたりでしかない。 馮道ふう・どう二十代半はばば。寒門かんもんの子としてまれ、がくをもっててるとめていた。


戦乱せんらん飢饉ききん疲弊ひへいする中原ちゅうげんまえに、かれは一つの選択せんたくをする。


たみ見捨みすてぬ文官ぶんかんとなろう。ながすのではなく、ふでをもってささえよう」


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仕官しかんのきっかけは、地方ちほう派遣はけんされた郷挙里選きょうきょりせん――優秀ゆうしゅう人物じんぶつ推薦すいせんする制度せいどによるものであった。 馮道ふう・どう学識がくしき几帳面きちょうめんさ、そしてひとはなしをよくみみ物腰ものごしやわらかさは、すぐに節度使せつどしにとまる。


「これからの時代じだいけんよりもぶん必要ひつようになる。おぬしのようなものにこそ、まつりごとたくしたい」


そうかたったのは、当時とうじ幽州ゆうしゅう節度使せつどし一人ひとり柳璨りゅう・さんであったとつたえられている。 馮道ふう・どうはその幕下ばっかはいり、文職ぶんしょく――つまり地方行政ちほうぎょうせい事務官じむかんとしてはたらはじめる。


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あき政庁せいちょう庶民しょみん陳情ちんじょうぜい台帳だいちょう略奪りゃくだつけたむら報告ほうこく民兵みんぺい徴集ちょうしゅう名簿めいぼ――。


馮道ふう・どうつくえには、とき百枚ひゃくまい文書ぶんしょまれた。 それを黙々(もくもく)とみ、整理せいりし、誤字ごじていし、必要ひつようならばみずかふでり、清書せいしょする。


「このこめ今年ことし七分ななぶどまり、加徴かちょう不可ふか兵糧ひょうろう徴発ちょうはつ隣州りんしゅうよりてんじさせるべし」 「里正りせい失踪しっそうしたとのほうわりをてねばむらまわらぬ」 「豪族ごうぞく井戸いど占拠せんきょとのけん早急そうきゅう役人やくにんおくって調停ちょうていを」


だれても地味じみむくわれぬ役回やくまわり。だが、かれおのれ使命しめい理解りかいしていた。


たみやすき日々(ひび)は、このつくえうえからはじまるのだ」


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やがて、その誠実せいじつさがつたえられ、馮道ふう・どう後梁こうりょう中央政府ちゅうおうせいふされる。 だが、かれいそがず、おごらず、ひとつずつ職務しょくむげていく。


はまさに五代十国ごだいじゅっこくくち王朝おうちょうはめまぐるしくわるが、馮道ふう・どうはただひとつの信念しんねん――


順応じゅんのうしつつ、たみおもうこと」


むねいだき、ふでっていた。




〇【筆にて記す――馮道の回想】


──あき夕暮ゆうぐれ。かぜって、かみはしがさらさらとおとてる。 つくえかい、ふでわたしは、時折ときおりふとまる。 おもすのは、とうわりと、あらたな王朝おうちょうのはじまり。 まこと、歴史れきしとはかみしるすよりもはやく、そして無情むじょうながれてゆくものだ。


わたし馮道ふう・どういまこうして中原ちゅうげん一隅いちぐうふでをとるだが、かつてのとうすえまれ、いまや後梁こうりょうというあらたな王朝おうちょうのもとで仕官しかんしている。 そのあいだきたすべてのことを、簡単かんたんかたることなど本来ほんらいはできぬのだが……それでも、かえらねばならぬときもある。


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かつてとうは、天下てんかかんたる大帝国だいていこくであった。 長安ちょうあんみやことし、玄宗げんそうには万国ばんこく朝貢ちょうこうし、律令りつれい儒教じゅきょうささえられた秩序ちつじょ大地だいちつつんでいた。 だが、栄華えいがながつづかぬ。安禄山あん・ろくざんらん――それがすべてのはじまりだった。


とう中央ちゅうおうはこの反乱はんらんによっておおきくらぎ、節度使せつどしばれる地方ちほう軍事長官ぐんじちょうかんたちがちからちすぎた。 本来ほんらい皇帝こうていめいしたがうべきかれらが、やがてみずからの領土りょうど私物化しぶつかし、「一国一城いっこくいちじょうあるじ」としていく。 そのなかで、ばかりの皇帝こうていみやこ帳簿ちょうぼながめるばかりとなり、兵権へいけん財政ざいせいかれらのわたっていた。


そして、ついにその一人ひとり――朱全忠しゅ・ぜんちゅうあらわれた。


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朱全忠しゅ・ぜんちゅうもと黄巣こうそうという大乱たいらんなか頭角とうかくあらわした武人ぶじんにすぎなかった。 粗野そや剛胆ごうたん、しかしなさけ容赦ようしゃのないおとこ戦場せんじょうにおいてはてき容赦ようしゃなくほふり、部下ぶかにはてつ規律きりつをもってのぞんだ。 「忠義ちゅうぎ」とはばかりで、かれつかえたとう朝廷ちょうていすら、もはやかれあやつ人形にんぎょうにすぎなかった。


ついには、とう最後さいご皇帝こうてい哀帝あいていはいし、みずから「りょうみかど」をしょうした。 このとき、とうはついにほろんだ。 天祐てんゆう四年(907年)のこと。わたし二十余歳にじゅうよさいであったときの、わすれがたき出来事できごとである。


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あらたな王朝おうちょうは「後梁こうりょう」。 みやこは汴州(べんしゅう、いまの開封かいほう)にかれ、中原ちゅうげん中心ちゅうしん一定いってい支配しはい確立かくりつした。 だが、そのまつりごととうのそれとはちがう。制度せいどよりも武力ぶりょくほうよりも威圧いあつ朱全忠しゅ・ぜんちゅうは、かつての儒者じゅしゃたちのげんかえりみることなく、功績こうせきあるものには土地とち官職かんしょくを、さからうものにはあたえた。


わたしはこのりょうのもとで仕官しかんし、文職ぶんしょくまかされていたが、内心ないしんにはつねにあるいがあった。


「この王朝おうちょうに、未来みらいはあるのか」


朱全忠しゅ・ぜんちゅうつよく、そしてすみやかにくにをまとめた。 だがその足元あしもとには、怨嗟えんさ野心やしんと、いくつもの火種ひだねころがっていた。


歴史れきしとは、つねまえみつけですすむものだ。 だが、そのあとのこる人々(ひとびと)のこえを、わたしは聞きききつづけたい。 だからこそ、わたしふでるのだ。




〇【風の通い路 ― 馮道、梁の戦に想う】


みやこ汴州べんしゅうなつえ、あきしのころとなりました。 西にし庭先にわさき風鈴ふうりんり、かわいたおとがどこかとおくへひびいてゆくのを、わたし文案ぶんあん合間あいまに、ふとみみにいたしました。


馮道ふう・どうもうします。 ときに、とうほろんで五年ごねんはすでに「りょう」とえております。


わたしがこのりょうつかえるようになったのは、とう崩壊ほうかい前後ぜんごしてのこと。もとよりしょこのみ、ふでをもってとうとねがったでございます。 けれど、いかにふで潔白けっぱくかたろうとも、戦乱せんらんにおいては、けん兵馬へいばまつりごと支配しはいいたします。


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後梁こうりょう。それは、朱全忠しゅ・ぜんちゅうという一人ひとり武人ぶじんが、とうくだいててたあらたなる王朝おうちょうかれはかつてとうつかえ、節度使せつどしとして権勢けんせいをふるい、やがてとき昭宣帝しょうせんてい強引ごういん禅譲ぜんじょうへとみちびきました。 とうほろんだのは、天祐てんゆう元年(907年)のこと。 朱全忠しゅ・ぜんちゅうは、国号こくごうを「りょう」とさだめ、みずからは「太祖たいそ」としょうしました。


けれど、その玉座ぎょくざしたには、なおつづける残火ざんかがございました。 それが「しん」、すなわちのち後唐こうとうとなる存在そんざいです。


晋王しんおう名乗なのっていた李存勗り・そんぎょく── かれちち李克用り・こくようとう忠臣ちゅうしんであり、異民族いみんぞく沙陀さたぞくゆうとしてせた名将めいしょうでございました。 ちちけて、李存勗り・そんぎょく北方ほっぽうり、とう復興ふっこう旗印はたじるしかかげてしんひきい、りょうとの宿命的しゅくめいてきたたかいにのぞむのでございます。


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このりょうしん、いずれも「中原ちゅうげんあるじ」を目指めざしてあらそっていたのは、ただ領土りょうどのためではありません。 りょう簒奪さんだつし、しん奪還だっかん目論もくろむ。 まこと、天下てんかあらそ両雄りょうゆうでございました。


りょうにおいては、太祖たいそ朱全忠しゅ・ぜんちゅうがあまりにもつよく、また冷徹れいてつでございましたゆえ、朝廷ちょうていはそのかげおびえ、清廉せいれんくちをつぐむ日々(ひび)がつづいておりました。 そのうえ、疑心深ぎしんぶかさから幾人いくにんもの忠臣ちゅうしん処断しょだんし、やがて、まつりごと屋台骨やたいぼねそこなってまいりました。


わたしども文官ぶんかんせられたのは、もっぱら体裁ていさいととのった奏文そうぶんみ、みやこ内情ないじょう平穏へいおんせかけること。 けれど、そとてんじれば、国境こっきょうではすでに幾度いくどとなく晋軍しんぐんとの衝突しょうとつきていたのです。


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しん将軍しょうぐんたちはみな驍勇ぎょうゆうでございました。 そのなかでも、李嗣源り・しげんなる人物じんぶつ手腕しゅわんくものでした。かれのち李存勗り・そんぎょく義兄弟ぎきょうだいとして、さらなる運命うんめい辿たどることになりますが、それはまたべつときはなしにいたしましょう。


907ねんから911ねんにかけて、りょうしん幾度いくどいくさまじえました。 太原たいげん拠点きょてんとする晋軍しんぐんは、山西さんせい一帯いったいかため、しばしば河東かとうから黄河こうがえて侵攻しんこうしてまいりました。 りょうしょうたちも奮戦ふんせんいたしましたが、国内こくない不安ふあん次第しだいにその足元あしもとるがせておりました。




〇【沈黙の灯 ― 馮道、梁の政変を生きる】


月明つきあかかりというものは、不思議ふしぎなものだとおもいます。 ひるひかりが、万物ばんぶつをあからさまにらしすのだとすれば、よるつきは、すべてをぼかし、曖昧あいまいつつんでくれる。 そして、その曖昧あいまいなかにこそ、ひと本音ほんねかくし、しん姿すがたしずめるのかもしれません。


天祐てんゆう九年ねん──西暦せいれきもうせば、九一二年ねんなつわたしみやこ汴州べんしゅうにて、政庁せいちょう片隅かたすみせきておりました。 馮道ふう・どうもうします。よわい三十さんじゅう。もとは遼西りょうせい寒村かんそんまれ、しょをもってたんとこころざした一介いっかい文官ぶんかんぎません。


あのよる── 朱友珪しゅ・ゆうけい殿どのが、じつちちである皇帝こうてい朱全忠しゅ・ぜんちゅうを、そのにかけたというしらせがみやこはしったのは、なつあめがったあとのしたよるのことでございました。


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朱全忠しゅ・ぜんちゅう──りょう太祖たいそにして、とうほろぼし、みずから帝位ていいについた英雄えいゆうです。 その剛腕ごうわん冷徹れいてつさは、ときおそれと称賛しょうさんをもってかたられました。 けれど、ひととしかさねればいます。 猜疑さいぎし、重臣じゅうしんとおざけ、信頼しんらい次第しだい身内みうちかたよってゆく。 そのてに、おのれ息子むすこいのちうばわれるとは──歴史れきしとは、かくも皮肉ひにくなものです。


朱友珪しゅ・ゆうけいは、ちちいかりをおそれておりました。 あまりに冷酷れいこくちちが、やがて自分じぶんくことをさっしたのか、あるいは、すでに破滅はめつ気配けはいかんじていたのか。 真相しんそうは、友珪ゆうけい自身じしんのみがることでしょう。 しかし、ことはすでにこったのです。 太祖たいそは、寝所しんじょにてどくられ、あっけなくほうじました。


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宮中きゅうちゅう震撼しんかんしました。 それも当然とうぜんでございます。 主君しゅくんほうじた。しかも、だれによってか、みなっていた──けれど、誰一人だれひとりとして、それをくちにするものはいなかったのです。


わたしもまた、その一人ひとりでございました。 ふでをとるふるえたのを、いまでもおぼえております。 しかしわたしは、なにかたりませんでした。


なぜかともうしますと、それが「びる」ということだったからでございます。


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朱友珪しゅ・ゆうけい帝位ていいきました。 年若としわかみかどは、まつりごとさいも、ぐんも、ちちおよぶべくもありませんでしたが、それでも玉座ぎょくざすわれば「聖明せいめいなる主君しゅくん」でございます。


重臣じゅうしんたちは、おそおそひざり、祝辞しゅくじささげました。 宮中きゅうちゅう女官にょかんたちは、何事なにごともなかったかのようによそおいました。 そしてわたしは、いつものとおり朝早あさはやくにき、政庁せいちょうつくえかい、めいぜられるままにみことのりくさしました。


──言葉ことばは、やいばにも、たてにもなる。 この真理しんりでございます。 ならば、いまわたしにできることはただひとつ。 「沈黙ちんもく」でございます。


だれめず、だれさばかず。 そのかわりに、いのちをつなぎ、つぎ見届みとどけること。


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おもえば、わたしはじめて朝廷ちょうていはいったのは、まだとう末期まっきでございました。 乱世らんせのうねりにまれながら、みかどわり、まつりごとてんじるさまを何度なんどとなくてまいりました。 けれど、わらぬものもあるのです。


それは、よるけ、またのぼるということ。 そして、ひときていれば、まだなにかをせるということ。


朱友珪しゅ・ゆうけい治世ちせいは、みじかいものでございました。 わずか一年いちねんあまりののち、異母弟いぼてい朱友貞しゅ・ゆうていたれ、みやこにふたたび剣戟けんげきおとひびくこととなります。


──けれど、そのはなしはまた、べつおりにいたしましょう。


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つきは、しずかにっております。 なにしんで、なにいつわりか──そんなことは、つきらぬことでしょう。 ただ、わたしはこうしてふでり、きて、しるすことができております。


それで、いま十分じゅうぶんでございます。

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