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変節の宰相:馮道:6章:石重貴時代①

〇『老将の心中──馮道、出帝の即位を見守る』


石重貴せき・じゅうき即位そくい馮道ふう・どう役割やくわり


後晋ごしんみやこ開封かいほうはるは、例年れいねんよりもおもく、どこかしずんだ空気くうきつつまれていました。このとし九四二年きゅうひゃくよんじゅうにねん馮道ふう・どうよわい六十ろくじゅうかぞえていました。その風貌ふうぼうにはいのかげがちらつきつつも、官服かんぷくただし、なおも宮廷きゅうてい重臣じゅうしんとして政務せいむたずさわっていました。


同年どうねん石敬瑭せき・けいとう崩御ほうぎょし、その養子ようしである石重貴せき・じゅうき後晋こうしん第二代にだい皇帝こうていとして即位そくいしました。史書ししょにはかれのことを「出帝しゅつてい」としるし、わか柔和にゅうわ顔立かおだちとは裏腹うらはらに、うちめた決意けついかたいとつたわります。


馮道ふう・どうにとっても、この時代じだいはひとつの節目ふしめでした。


かれはかつて、石敬瑭せき・けいとうのもとで宰相さいしょうとして科挙かきょ制度せいど整備せいび儒教じゅきょう経典けいてん復興ふっこう尽力じんりょくし、文治ぶんちはしらきずいた人物じんぶつです。しかし、いまよわい六十ろくじゅう官職かんしょくにおいても体力たいりょく気力きりょくおとろえをかくせず、わか新皇帝しんこうていのもとで役割やくわりわりつつありました。


陛下へいか御代みよになっても、わしはなお役目やくめたまわった。これほどのおんはない」と馮道ふう・どう心中しんちゅうつぶやきました。


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政治せいじ混乱こんらん馮道ふう・どう決意けつい


しかし、宮廷きゅうてい空気くうきはかつての安定あんていとは程遠ほどとおく、政治せいじ混乱こんらんがちらほらとかおのぞかせはじめていました。りょうとの従属関係じゅうぞくかんけいたいする不満ふまんはますますおおきくなり、官僚かんりょう将軍しょうぐんあいだ不信ふしん緊張きんちょうはしります。


老臣ろうしん馮道ふう・どう見通みとおします。


「このままでは、後晋ごしんは易々(やすやす)とらぐだろう。ちていくが、この乱世らんせなかで、まだくすべきことがある」


そう決意けついしつつ、馮道ふう・どうは日々(ひび)の政務せいむかいつづけるのでした。


この時期じき後晋ごしんは、わかみかど英断えいだんわれ、老臣ろうしん知恵ちえためされる、激動げきどう入口いりぐちっていました。




〇燕雲十六州の影──後晋宮廷の激動


後晋こうしん動乱どうらん馮道ふう・どう苦悩くのう


九四三年きゅうひゃくよんじゅうさんねんはるあわ陽光ようこう開封かいほうまちにゆっくりとそそいでいました。石畳いしだたみ街路がいろは、すでにおおくの人々(ひとびと)でにぎわっています。商人しょうにんごえ子供こどもたちのわらごえとおくからひびうま蹄音ていおん——この活気かっきこそ、かつての動乱どうらんえた後晋ごしんみやこ姿すがたでした。しかし、そのはなやぎのうらには、ふかかげしのせていたのです。


石重貴せき・じゅうき、すなわち後晋こうしん第二代にだい皇帝こうていである出帝しゅっていは、まだわかく、統治とうち重責じゅうせき背負せおってもないころでした。かれ即位そくいちち石敬瑭せき・けいとう急逝きゅうせいによって急転直下きゅうてんちょっかまり、宮廷内きゅうていないはすでに不穏ふおん空気くうきつつまれていました。政治せいじ舞台裏ぶたいうらでは、皇帝こうてい後見役こうけんやくとなるべき老臣ろうしんたちのあいだでも、ひそかな対立たいりつ芽生めばえつつあったのです。


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馮道ふう・どう尽力じんりょく宮廷きゅうてい混乱こんらん


その老臣ろうしん筆頭ひっとう馮道ふう・どうです。馮道ふう・どうはかつて石敬瑭せき・けいとうのもとで宰相さいしょうとして科挙かきょ制度せいど整備せいび儒教じゅきょう経典けいてん復興ふっこう心血しんけつそそいできました。かれはすでに六十歳ろくじゅうさいえ、歳月さいげつおもみがその眉間びけんきざまれていますが、なおも知恵ちえしぼり、国政こくせい混乱こんらんめようとしていました。


しかし、その努力どりょくむなしく、出帝しゅっていわかさと未熟みじゅくさを利用りようするものたちがあらわれ、宮廷内きゅていない派閥はばつ抗争こうそううずまれていきます。権力けんりょくむらがる将軍しょうぐん官僚かんりょうたちは、それぞれの利権りけん拡大かくだいすべくきをかえし、馮道ふう・どう言葉ことばうもれてしまいます。いにしえおしえと儒学じゅがく理想りそうが、現実げんじつ政争せいそうなかかすんでいくのを、かれ痛感つうかんせずにはいられませんでした。


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りょうとの関係かんけい後晋ごしん未来みらい


さらに、後晋ごしん外患がいかん深刻化しんこくかしていました。かつて石敬瑭せき・けいとう契丹きったんゆずわたした燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅうは、りょうえた契丹きったん強大きょうだい勢力下せいりょくかにありました。りょうは、漢風かんぷう官僚制度かんりょうせいど導入どうにゅうしつつも、みずからの遊牧ゆうぼくてき支配しはい構造こうぞうたくみ保持ほじする「二重統治制度にじゅうとうちせいど」をきずげていました。漢人かんじん契丹人きったんじんふたつの文化ぶんか政治体制せいじたいせい共存きょうそんし、北方ほっぽう覇者はしゃとして急速きゅうそく勢力せいりょくばしていたのです。


後晋こうしんりょう臣下しんかとして名目めいもくてきふくしてはいたものの、その従属関係じゅうぞくかんけいたいして将軍しょうぐん官僚かんりょうたちのあいだ不満ふまん反発はんぱつ渦巻うずまいていました。なによりも燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう割譲かつじょう国土こくどおおきな損失そんしつであり、それをゆるした石敬瑭せき・けいとう決断けつだんは、国内こくない賛否両論さんぴりょうろんこしていました。出帝しゅっていはその複雑ふくざつ状況じょうきょう翻弄ほんろうされ、いかにりょうとの関係かんけい処理しょりするか、こたえをいだせぬまま日々(ひび)をすごしていました。


馮道ふう・どうは、しずかに座敷ざしき障子しょうじしにはる陽射ひざしをつめながら、ふかくためいきをつきました。「うつろい、帝王ていおういのちかぎられている。しかし、このくに未来みらいはまだ、われらのにあるはずだ……」


そのは、かつてのかがやきをうしなわずに、未来みらい不確ふたしかさを見据みすえていました。動乱どうらん渦中かちゅうにある後晋ごしん。しかし、その混乱こんらんなかにも、なにあたしいみち模索もさくするわか皇帝こうてい姿すがたがあったのです。


やがて、しずかなみやこ空気くうきくように、またひと波乱はらん時代じだいまくけようとしていました。




〇「動乱の果てに――後晋滅亡の序曲」


後晋ごしん滅亡めつぼう短命たんめい王朝おうちょう終焉しゅうえん


九四五年きゅうひゃくよんじゅうごねんはる開封かいほうまち一見いっけん平穏へいおんよそおっていました。しかしその空気くうきはどこかめています。城壁じょうへきいし太陽たいようらされてかがやなか城内じょうないむ人々(ひとびと)のこころ波立なみだっていました。後晋ごしんみやこであるこのは、かつてない内憂外患ないゆうがいかん危機きき直面ちょくめんしていたのです。


馮道ふう・どう書斎しょさい薄暗うすぐらあかりのもと、書棚しょだなにずらりとならんだ古典こてん史書ししょつめていました。かれはすでに六十歳ろくじゅうさいえ、かつては後晋ごしん初代しょだい皇帝こうてい石敬瑭せき・けいとうのもとで宰相さいしょうとして国政こくせいつかさどった老臣ろうしんです。


後晋ごしん命運めいうんは、すでに限界げんかいむかえておりました…」と馮道ふう・どうしずかにつぶやきました。内心ないしんおもさは、言葉ことばおもみとなって書斎しょさいにこだましました。


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後晋ごしん建国けんこく代償だいしょう


後晋ごしんというくには、五代十国ごだいじゅっこく乱世らんせまれた短命たんめい王朝おうちょうです。かつて石敬瑭せき・けいとう契丹きったん、つまりりょう名乗なの北方ほっぽう遊牧ゆうぼく国家こっか燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう割譲かつじょうし、臣従しんじゅう約束やくそくむすんだことで成立せいりつしました。


これは、石敬瑭せき・けいとうにとっては軍事ぐんじてき支援しえんけるための苦渋くじゅう選択せんたくでした。燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅうふるくから中原ちゅうげん北方ほっぽうむす要衝ようしょうであり、その割譲かつじょう後晋ごしん国土こくど民心みんしんおおきくきずつけました。国内こくない士大夫したいふ軍人ぐんじんたちはこれをはじとし、やがて不満ふまんたねとなってくすぶつづけたのです。


契丹きったんとの関係かんけいは、名目上めいもくじょう臣下しんか立場たちばでありましたが、その実態じったい屈辱的くつじょくてきなものでございました。みなみ中原ちゅうげんの人々(ひとびと)のほこりをみにじるものであり、わたくしもまた、そのいたみをふかかんじておりました。」


馮道ふう・どう書簡しょかんげ、しずかにページをめくります。九四五年きゅうひゃくよんじゅうごねん記録きろくは、後晋ごしん内政ないせい急速きゅうそくみだれ、宮廷内きゅうていない権力けんりょくあらそいが激化げきかしたことをしめしていました。皇帝こうてい石重貴せき・じゅうき――石敬瑭せき・けいとう養子ようしにして後継者こうけいしゃ――は即位そくいしてもなく、政治せいじ舵取かじとりに苦心くしんしていました。


老臣ろうしんたちのちからおとろえ、後晋ごしん政権せいけん次第しだい弱体化じゃくたいかしていったのです。権力けんりょく闘争とうそうれる宮廷きゅうていは、くに安泰あんたいねがものこえとどかぬ場所ばしょとなりました。」


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りょう介入かいにゅう後晋こうしん終焉しゅうえん


そのとききた草原そうげんでは、契丹きったん大軍たいぐんがじわりじわりと南下なんかはじめていました。かれらはこの混乱こんらん好機こうきて、後晋ごしん支配しはいるがすべく準備じゅんびととのえていたのです。


馮道ふう・どう眼差まなざしはきびしく、とお北方ほっぽう風景ふうけいおもかべるようでした。


九四五年きゅうひゃくよんじゅうごねん契丹きったんはついに軍事介入ぐんじかいにゅうりました。かれらの軍勢ぐんぜい圧倒的あっとうてきちからで、混迷こんめいきわめる後晋ごしんおそいかかり、九四六年きゅうひゃくよんじゅうろくねんにはついに開封かいほう城壁じょうへき陥落かんらくさせてしまったのです。」


まち戦火せんかつつまれ、おおくのたみ避難ひなんし、さけごえ喪失感そうしつかんじりいました。かつての繁栄はんえい一瞬いっしゅんくずったのです。


後晋こうしんは、その誕生たんじょうからわずか十年足じゅうねんたらずでまくじることとなりました。わたくしはその最後さいご見届みとどけることしかできませんでした…。」


馮道ふう・どうふかいきをつき、かつての同僚どうりょうたちやわか理想りそうおもかえします。時代じだい無情むじょうかんじながらも、かれつよむねきざみました。


歴史れきしは、ちから均衡きんこう民心みんしん安定あんていもとめます。たとえどんなに偉大いだいこころざしっていても、それを裏切うらぎればほろびのみちあゆむのだと、後晋ごしん運命うんめいおしえているのです。」


なが乱世らんせなかで、後晋ごしんみじかひかりはなちましたが、そのひかりかぜかれてえました。馮道ふう・どう独白どくはくは、しずかにいま時代じだいえてひびいています。

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