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変節の宰相:馮道:7章:耶律徳光時代①

〇「耶律徳光――遼の智将、動乱の狭間で」


耶律徳光(やりつとくこう)と後晋(ごしん)の滅亡(めつぼう)


九四五年(きゅうひゃくよんじゅうごねん)の北方(ほっぽう)、契丹(きったん)の大地(だいち)は冷(つめ)たい風(かぜ)が吹(ふ)き荒(あ)れていました。かつての遊牧民(ゆうぼくみん)国家(こっか)は「遼(りょう)」と名(な)を改(あらた)め、その勢力(せいりょく)は日増(ひま)しに強大(きょうだい)となっていました。その中(なか)で、実質的(じっしつてき)な指導者(しどうしゃ)として冷静(れいせい)かつ狡猾(こうかつ)に遼(りょう)の運命(うんめい)を左右(さゆう)する男(おとこ)がいました。耶律徳光(やりつとくこう)。彼(かれ)こそ、激動(げきどう)の時代(じだい)に遼(りょう)の舵(かじ)を取(と)る智将(ちしょう)でした。


耶律徳光(やりつとくこう)には忘(わす)れ難(がた)い家族(かぞく)の記憶(きおく)がありました。かつて兄(あに)は、契丹(きったん)の内紛(ないふん)の渦中(かちゅう)で遼(りょう)を離(はな)れ、亡命(ぼうめい)を余儀(よぎ)なくされました。政争(せいそう)の波(なみ)に呑(の)み込(こ)まれた兄(あに)の姿(すがた)は、幼(おさな)き日(ひ)の徳光(とくこう)に重(おも)くのしかかりました。


「兄上(あにうえ)の身(み)を案(あん)じつつも、私(わたくし)はこの遼(りょう)の未来(みらい)を背負(せお)わねばならぬ」


さらに、彼(かれ)の母(はは)は一族(いちぞく)の中(なか)でも異彩(いさい)を放(はな)つ女傑(じょけつ)でした。荒涼(こうりょう)たる草原(そうげん)の民(たみ)の中(なか)で、知略(ちりゃく)と胆力(たんりょく)に優(すぐ)れ、子(こ)らを厳(きび)しくも愛情深(あいじょうぶか)く育(そだ)て上(あ)げました。母(はは)の強(つよ)さが徳光(とくこう)の精神(せいしん)の根底(こんてい)を支(ささ)え、今日(きょう)の彼(かれ)を形成(けいせい)したと言(い)っても過言(かごん)ではありません。


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後晋(ごしん)の混乱(こんらん)と遼(りょう)の南下(なんか)


一方(いっぽう)、南(みなみ)の王朝(おうちょう)・後晋(ごしん)は、内政(ないせい)の混乱(こんらん)に喘(あえ)いでいました。石敬瑭(せきけいたん)が契丹(きったん)(遼)と結(むす)んだ不平等(ふびょうどう)な盟約(めいやく)は次第(しだい)に後晋(ごしん)内部(ないぶ)で反発(はんぱつ)を招(まね)き、皇帝(こうてい)の座(ざ)を継(つ)いだ石重貴(せきじゅうき)の治世(ちせい)は混迷(こんめい)を深(ふか)めていました。政治(せいじ)の舵取(かじと)りに迷(まよ)い、宮廷内(きゅうていない)の権力(けんりょく)闘争(とうそう)が激化(げきか)していく様(さま)は、遼(りょう)にとって見逃(みのが)せぬ機会(きかい)でした。


耶律徳光(やりつとくこう)は軍(ぐん)を率(ひき)い、契丹(きったん)の伝統的(でんとうてき)な遊牧民(ゆうぼくみん)の統治体制(とうちたいせい)と漢式(かんしき)の官僚(かんりょう)制度(せいど)を巧(たくみ)に操(あやつ)りながら、燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)を足(あし)がかりに後晋(ごしん)に圧力(あつりょく)をかけました。彼(かれ)の指揮(しき)の下(もと)、遼軍(りょうぐん)は確実(かくじつ)に南下(なんか)を進(すす)め、開封(かいほう)を目指(めざ)しました。


「後晋(ごしん)の混乱(こんらん)は、我々(われわれ)にとって天恵(てんけい)である。だが油断(ゆだん)は禁物(きんもつ)。政治(せいじ)の隙間(すきま)をつく術(すべ)を見極(みきわ)めねば」


彼(かれ)は馮道(ふうどう)ら後晋(ごしん)の老臣(ろうしん)たちの動向(どうこう)も注意深(ちゅういぶか)く観察(かんさつ)していました。馮道(ふうどう)の存在(そんざい)は、いまだ後晋(ごしん)の政治的(せいじてき)均衡(きんこう)を保(たも)つ鍵(かぎ)であり、遼(りょう)との対話(たいわ)の窓口(まどぐち)でもありました。


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後晋(こうしん)の終焉(しゅうえん)


だが、九四五年(きゅうひゃくよんじゅうごねん)の秋(あき)、遼軍(りょうぐん)はついに動(うご)き出(だ)します。軍事介入(ぐんじかいにゅう)の決断(けつだん)を下(くだ)し、激動(げきどう)の南下(なんか)が始(はじ)まりました。開封(かいほう)への包囲(ほうい)は迅速(じんそく)で容赦(ようしゃ)ありませんでした。


耶律徳光(やりつとくこう)の眼差(まなざ)しは冷静(れいせい)でした。戦(いくさ)の行(ゆ)く末(すえ)を見据(みす)え、彼(かれ)の心(こころ)には故郷(こきょう)の草原(そうげん)と母(はは)の言葉(ことば)が浮(う)かびます。


「強(つよ)き者(もの)は時(とき)に柔軟(じゅうなん)に、弱(よわ)き者(もの)は知恵(ちえ)を以(もっ)て耐(た)えるべし」


そして翌(よく)九四六年(きゅうひゃくよんじゅうろくねん)、遼軍(りょうぐん)は後晋(ごしん)の首都(しゅと)開封(かいほう)を制圧(せいやつ)。後晋(ごしん)は滅亡(めつぼう)の運命(うんめい)を辿(たど)りました。


混沌(こんとん)の中(なか)、耶律徳光(やりつとくこう)はその慧眼(けいがん)と策謀(さくぼう)で契丹(きったん)から遼(りょう)へと続(つづ)く一大(いちだい)帝国(ていこく)を築(きず)き上(あ)げました。しかし、彼(かれ)の胸中(きょうちゅう)には、亡命(ぼうめい)した兄(あに)の無念(むねん)と、女傑(じょけつ)であった母(はは)の強(つよ)さと愛情(あいじょう)が今(いま)も深(ふか)く根付(ねづ)いていました。


歴史(れきし)の波間(なみま)に生(い)きた一人(ひとり)の智将(ちしょう)の物語(ものがたり)は、まだ終(お)わりを告(つ)げてはいませんでした。




〇慈悲の諫言――耶律徳光と馮道の対話


馮道(ふう・どう)と耶律徳光(やりつ・とくこう)の対話(たいわ)


九四五年(きゅうひゃくよんじゅうごねん)の秋(あき)、戦乱(せんらん)の煙(けむり)が空(そら)を覆(おお)う中(なか)、遼(りょう)の強大(きょうだい)な軍勢(ぐんぜい)が後晋(こうしん)の国境(こっきょう)を越(こ)え、北方(ほっぽう)の大地(だいち)を駆(か)け抜(ぬ)けていました。遼(りょう)の実質的(じっしつてき)な指導者(しどうしゃ)、耶律徳光(やりつ・とくこう)はその指揮棒(しきぼう)を振(ふ)り、着々(ちゃくちゃく)と進軍(しんぐん)を進(すす)めていました。彼(かれ)の若(わか)き肩(かた)には重責(じゅうせき)がのしかかっていましたが、その目(め)には未来(みらい)を見据(みす)える冷静(れいせい)な光(ひかり)が宿(やど)っていました。


一方(いっぽう)、後晋(ごしん)の老臣(ろうしん)・馮道(ふうどう)は、長年(ながねん)の政治(せいじ)経験(けいけん)を胸(むね)に、激動(げきどう)の時代(じだい)にあっても変(か)わらぬ志(こころざし)を持(も)っていました。混乱(こんらん)する政局(せいきょく)の中(なか)で、彼(かれ)は遼軍(りょうぐん)の行動(こうどう)をじっと見(み)つめ、その歩(あゆ)みがもたらす惨状(さんじょう)を案(あん)じていました。


遼(りょう)の将兵(しょうへい)たちは、戦(いくさ)の勝利(しょうり)のためには手段(しゅだん)を選(えら)ばぬ強硬策(きょうこうさく)を主張(しゅちょう)し、漢人(かんじん)の民(たみ)を皆殺(みなごろ)しにせよと声(こえ)を上(あ)げ始(はじ)めていました。その暴虐(ぼうぎゃく)の声(こえ)は荒(あ)れ狂(くる)う風(かぜ)のように高(たか)まり、民衆(みんしゅう)の未来(みらい)を一層(いっそう)暗(くら)く覆(おお)おうとしていました。


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馮道(ふう・どう)の諫言(かんげん)


そんな時(とき)、馮道(ふうどう)は耶律徳光(やりつ・とくこう)のもとを訪(おとず)れました。険(けわ)しい戦場(せんじょう)の風景(ふうけい)とは対照的(たいしょうてき)に、馮道(ふうどう)の表情(ひょうじょう)は落(お)ち着(つ)きに満(み)ちていました。彼(かれ)は静(しず)かに言葉(ことば)を紡(つむ)ぎました。


「耶律徳光(やりつ・とくこう)さま、この世(よ)は混乱(こんとん)に満(み)ち、民(たみ)は苦(くる)しみの中(なか)にあります。たとえ天(てん)から仏(ほとけ)が降(お)りて、この民(たみ)を救(すく)おうとされても、この乱(みだ)れた世(よ)が正(ただ)されぬ限(かぎ)り、その苦(くる)しみは癒(い)えぬでしょう。」


馮道(ふうどう)の声(こえ)は重(おも)みを帯(お)び、耶律徳光(やりつ・とくこう)の心(こころ)に静(しず)かに届(とど)きました。


「しかしながら、あなた様(さま)――耶律徳光(やりつ・とくこう)さまが手(て)を差(さ)し伸(の)べ、正(ただ)しく治(おさ)められるならば、初(はじ)めて人々(ひとびと)は救(すく)われ、世(よ)は安(やすら)ぎを得(え)ることができます。だからこそ、暴力(ぼうりょく)ではなく、慈悲(じひ)と公正(こうせい)をもって政治(せいじ)をお治(おさ)めください。」


その言葉(ことば)には、乱世(らんせ)において真(しん)の救(すく)いは武力(ぶりょく)ではなく、指導者(しどうしゃ)の覚悟(かくご)と正義(せいぎ)にあるという強(つよ)い信念(しんねん)が込(こ)められていました。耶律徳光(やりつ・とくこう)は馮道(ふうどう)の言葉(ことば)を深(ふか)く噛(か)み締(し)めました。


「馮道(ふうどう)よ、そなたの言葉(ことば)は我(わ)が心(こころ)に光(ひかり)をもたらす。民(たみ)は我(わ)が守(まも)るべき赤子(あかご)に他(ほか)ならぬ。彼(かれ)らを暴力(ぼうりょく)で押(お)さえつけるのではなく、慈悲(じひ)の心(こころ)をもって導(みちび)くことこそが、我(わ)が為(な)すべき道(みち)であると感(かん)じる。」


彼(かれ)はしばしの間(あいだ)、静(しず)かに空(そら)を見上(みあ)げました。風(かぜ)が揺(ゆ)らす木々(きぎ)の葉音(はおと)が、まるで未来(みらい)への希望(きぼう)のささやきのように耳(みみ)に届(とど)きました。


その日以来(いらい)、耶律徳光(やりつ・とくこう)は単(たん)なる武将(ぶしょう)から、真(しん)の指導者(しどうしゃ)へと歩(あゆ)みを進(すす)めました。彼(かれ)の決断(けつだん)により、遼軍(りょうぐん)は無用(むよう)な殺戮(さつりく)を避(さ)け、民衆(みんしゅう)を守(まも)りつつ進軍(しんぐん)を続(つづ)けたのです。


馮道(ふうどう)の勇気(ゆうき)ある諫言(かんげん)は、戦乱(せんらん)の世(よ)にあっても指導者(しどうしゃ)の心(こころ)に慈悲(じひ)の灯(ひ)をともす一筋(ひとすじ)の光(ひかり)となりました。この対話(たいわ)は、今(いま)もなお、世(よ)を治(おさ)める者(もの)が忘(わす)れてはならぬ教訓(きょうくん)として語(かた)り継(つ)がれています。




〇耶律徳光と馮道――二つの才が交わる時


耶律徳光(やりつ・とくこう)と馮道(ふう・どう)の出会(であ)い


九四五年(きゅうひゃくよんじゅうごねん)の秋(あき)、戦乱(せんらん)の煙(けむり)が空(そら)を覆(おお)う中(なか)、遼(りょう)の強大(きょうだい)な軍勢(ぐんぜい)が後晋(こうしん)の国境(こっきょう)を越(こ)え、北方(ほっぽう)の大地(だいち)を駆(か)け抜(ぬ)けていました。遼(りょう)の実質的(じっしつてき)な指導者(しどうしゃ)である耶律徳光(やりつ・とくこう)は、若(わか)き将軍(しょうぐん)にして政治家(せいじか)。彼(かれ)の目(め)には、混乱(こんらん)に陥(おちい)った後晋(こうしん)の都(みやこ)・開封(かいほう)が戦乱(せんらん)の火(ひ)の海(うみ)と化(か)しつつある様子(ようす)が映(うつ)っていました。


その一方(いっぽう)で、後晋(こうしん)には老練(ろうれん)の重臣(じゅうしん)、馮道(ふうどう)がいました。馮道(ふうどう)は、長(なが)きにわたり複雑(ふくざつ)な宮廷(きゅうてい)政治(せいじ)の荒波(あらなみ)を乗(の)り越(こ)えてきた智将(ちしょう)です。政治(せいじ)の駆(か)け引(ひ)きに熟知(じゅくち)し、時(とき)には穏(おだ)やかな説得(せっとく)で、時(とき)には厳(きび)しい忠言(ちゅうげん)で宮廷(きゅうてい)の混乱(こんらん)を抑(おさ)えようと尽力(じんりょく)してきました。


遼軍(りょうぐん)が開封(かいほう)を占領(せんりょう)し、後晋(こうしん)の政権(せいけん)が崩壊寸前(ほうかいすんぜん)となる中(なか)、耶律徳光(やりつ・とくこう)は馮道(ふうどう)の名声(めいせい)を耳(みみ)にし、その人柄(ひとがら)と才気(さいき)に興味(きょうみ)を抱(いだ)きました。彼(かれ)は馮道(ふうどう)に会(あ)い、対話(たいわ)を交(か)わすことで、新(あら)たな道(みち)を探(さが)ろうと考(かんが)えたのです。


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耶律徳光(やりつ・とくこう)の招請(しょうせい)と馮道(ふうどう)の答(こた)え


耶律徳光(やりつ・とくこう)の陣営(じんえい)は、草木(くさき)の匂(にお)い漂(ただよ)う遼(りょう)の北方(ほっぽう)の地(ち)にありました。そこは軍営(ぐんえい)としての厳(きび)しさと、指導者(しどうしゃ)としての風格(ふうかく)を感(かん)じさせる場所(ばしょ)でした。長(なが)く伸(の)びた宴席(えんせき)の周囲(しゅうい)には、彼(かれ)の側近(そっきん)たちが静(しず)かに見守(みまも)る中(なか)、耶律徳光(やりつ・とくこう)は馮道(ふうどう)を招(まね)き入(い)れました。


「馮道殿(ふうどうどの)、よくぞお越(こ)しくだされた」と、耶律徳光(やりつ・とくこう)は穏(おだ)やかに挨拶(あいさつ)を交(か)わすと、その目(め)はまっすぐに馮道(ふうどう)を捉(とら)えました。


馮道(ふうどう)は時折(ときおり)薄(うす)く皺(しわ)のよった顔(かお)に穏(おだ)やかな微笑(びしょう)みを浮(う)かべながらも、緊張(きんちょう)を隠(かく)せませんでした。彼(かれ)は長(なが)い公務(こうむ)の中(なか)で培(つちか)われた慎重(しんちょう)さで、耶律徳光(やりつ・とくこう)の言葉(ことば)を待(ま)ちました。


耶律徳光(やりつ・とくこう)は静(しず)かに口(くち)を開(ひら)きました。


「馮道殿(ふうどうどの)、そなたの知恵(ちえ)と誠実(せいじつ)さはすでに遠(とお)くに伝(つた)わっておる。この乱世(らんせ)にあって、そなたのような人物(じんぶつ)こそ我(わ)が国(くに)の礎(いしずえ)となるべきであろうと感(かん)じておる。いずれは我(わ)が国(くに)にて、その才覚(さいかく)を存分(ぞんぶん)に発揮(はっき)していただきたいのだが……」


馮道(ふうどう)は深(ふか)く息(いき)を吸(す)い、落(お)ち着(つ)いて答(こた)えました。


「耶律徳光(やりつ・とくこう)様(さま)のお言葉(ことば)、身(み)に余(あま)る光栄(こうえい)にございます。しかし私(わたくし)は今(いま)なお、後晋(こうしん)のために尽(つ)くすことを誓(ちか)っております。故郷(こきょう)の民(たみ)が安寧(あんねい)を取(と)り戻(もど)す日まで、私(わたくし)はこの地(ち)を離(はな)れるわけにはまいりません。」


耶律徳光(やりつ・とくこう)はその誠実(せいじつ)な返答(へんとう)に感銘(かんめい)を受(う)けました。彼(かれ)は一瞬(いっしゅん)、遠(とお)くの山並(やまな)みを見(み)つめながら言葉(ことば)を継(つ)ぎました。


「いつの日(ひ)か、そなたの志(こころざし)が我(わ)が国(くに)に向(む)かう時(とき)が来(く)るかもしれぬ。その日(ひ)まで、私(わたくし)はそなたを尊敬(そんけい)し続(つづ)けよう。」


その言葉(ことば)に、馮道(ふうどう)の胸中(きょうちゅう)にも新(あら)たな決意(けつい)が芽生(めば)えました。二人(ふたり)の間(あいだ)には言葉(ことば)以上(いじょう)の信頼(しんらい)が静(しず)かに生(う)まれ、その場(ば)の空気(くうき)は穏(おだ)やかに、しかし確実(かくじつ)に変(か)わっていったのです。


灯火(とうか)が揺(ゆ)れる広間(ひろま)の中(なか)、歴史(れきし)のうねりを感じさせるこの出会(であ)いは、後(のち)の時代(じだい)に静(しず)かに刻(きざ)まれることとなるのでした。

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