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変節の宰相:馮道:5章:石敬瑭時代③

〇『北地にて国を継ぐ──馮道、遼の構えを語る』


りょう建国けんこく二重統治にじゅうとうち


ひとはつくづく、わりゆくものであるな――そうつぶやいて、わたくしふでいた。


とし天福てんぷく三年ねん。西暦:九三八年きゅうひゃくさんじゅうはちねん。このころ北方ほっぽう草原そうげんざすものたちが、ひとつのをもってその姿すがたあらわした。


りょう」――かの契丹きったん、ついに漢風かんぷう国号こくごうかかげ、これを天下てんかしめしたのである。


おもえば、契丹きったんとは、本来ほんらい文字もじをもたぬ遊牧ゆうぼくたみであった。だがとうすえ華北かほくみだれ、諸侯しょこう相争あいいそうなかで、かれらは南下なんかはじめ、やがて石敬瑭せき・けいとうむすび、後唐こうとうほろぼす手助てだすけをした。


そのこうによってあたえられたのが、燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう。これは現在げんざい北京ぺきんから山西さんせい河北かほくにかけての、もともとはわれ漢人かんじんらしていた地域ちいきである。


そこに、あらたなくにりょう」がきずかれた。


________________________________


契丹きったん統治とうち馮道ふう・どう所感しょかん


契丹きったんは、ただ武力ぶりょくけた草原そうげん騎馬きば民族みんぞくではない。むしろかれらは、をどうおさめるべきか、よく思案しあんしたのであろう。


かれらは、こうさだめた。


契丹きったんたみ契丹きったんのやりかたおさめ、漢人かんじん漢人かんじんほうおさめる」


すなわち――二重統治制度にじゅうとうちせいどという名の二元支配体制にげんしはいたいせいのはじまりである。


契丹人きったんじんには、従来じゅうらいどおりの遊牧ゆうぼくてき氏族制度しぞくせいど軍事ぐんじ指導層しどうそう支配しはいおこない、一方いっぽう漢地かんちには、中国ちゅうごく伝統でんとうのっとった官僚制度かんりょうせいどととのえ、太守たいしゅき、戸籍こせきけ、租税そぜい徴収ちょうしゅうした。


見事みごとなまでの分割統治ぶんかつとうちわたくしはこれをったとき、ひとつ、ためいきをもらした。


「……かしこしきことよ。まことに、あの草原そうげんたみあなどってはならぬ」


かつて、とう時代じだいわたくしわかかりしころは、辺境へんきょう胡族こぞくなど、いかにも粗野そや無知むちものとされていた。だがいまりょうのなした制度せいどは、あきらかにその誤解ごかいやぶるものである。


契丹きったんおう耶律阿保機やりつ・あぼききずいたみちを、いまやその子孫しそんたちが洗練せんれんさせつつあるのだ。


だが……われ漢人かんじんにとって、それはかならずしもこころよはなしではない。


燕雲えんうんは、中原ちゅうげん門戸もんこ。ここを外族がいぞくあずけるというのは、つねこころのしこりとなる。


洛陽らくよう文士ぶんしたちは、今日きょうもこうなげく。


石皇帝いしこうていは、ただ一朝いっちょう安寧あんねいもとめて、われらの山河さんがったか――」


そのこえが、わたくしみみにもとどかぬわけではない。


されどわたくしは、えてこうこたえよう。


うしなわれたものは、またきずけばよい。だが、野原のはらにしては、なにはじまらぬ」


契丹きったんととのえる制度せいど、それをることは、われらにとってもえきとなる。そのり、おのれくにかすことこそが、次代じだいをつなぐものつとめであろう。


夜更よふけ、すずりすみきかけている。


そとではつめたいかぜが、のきらす。


だがわたくしは、ふでをとるめず、そっと巻物まきものきなおした。


――きたまれたくにに、まなぶべきものあり。それをものが、いまこの乱世らんせにも必要ひつようなのだと、わたくししんじている。


かんとがともづく世界せかい。それは乱世らんせか、はたまたつぎ時代じだいのはじまりか。


歴史れきしがそれをこたえるには、まだいくらかの歳月さいげつるようである。




〇『朧なる玉座──後晋、石敬瑭の病と政争』


後晋こうしん危機ききらぐ帝位ていい次代じだいへの懸念けねん


こよみ天福てんぷく四年ねん。西暦:九三九年きゅうひゃくさんじゅうきゅうねんときかげす。


中原ちゅうげんおさめる王朝おうちょうは「後晋ごしん」。その皇帝こうてい石敬瑭せき・けいとうは、もとは後唐こうとう節度使せつどし。だが、反旗はんきひるがえし、きた契丹きったんたすけを帝位ていいいたおとこである。


その代償だいしょうとして、燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう割譲かつじょうし、みずからを契丹きったん皇帝こうていの「臣下しんか」と名乗なのった。


かつてはそれでも「安寧あんねいのため」とされていたが――即位そくいから五年余ごねんよかれ治世ちせいかげりをはじめる。


九三九年きゅうひゃくさんじゅうきゅうねん宮廷きゅうていにはざわめきがはしっていた。


異民族いみんぞくこうべれた皇帝こうていに、しん威厳いげんなどあるまい」 「契丹きったんとのよしみはもはや国辱こくじょく中原ちゅうげんおもこころうしなってはならぬ」


そのこえぬしは、武人ぶじんたちであり、文臣ぶんしんたちであった。


ことにわか将軍しょうぐんら――あらたに頭角とうかくあらわしたものたちは、契丹きったん使節しせつ洛陽らくようるたび、ひざくっすることをとした。


重臣じゅうしん馮道ふう・どうら、老成ろうせい文官ぶんかんはそれをなだめつつ、なおもまつりごと安定あんていはかったが、玉座ぎょくざあるじやまいたおれるとなれば、それもまた、風前ふうぜん灯火ともしびである。


________________________________


石重貴せき・じゅうき立太子りったいし不安ふあん


としあらたまり、天福てんぷく六年ねん。西暦:九四一年きゅうひゃくよんじゅういちねん――石敬瑭せき・けいとうやまいす。ひとたびとこくと、そのせ、御前ごぜんつかえるものたちがいきむほどであった。


しかも、かれには直系ちょっけい男子だんしがいない。そのため、養子ようし石重貴せき・じゅうきが、いそぎ「太子たいし」(皇太子こうたいし)にてられる。


この石重貴せき・じゅうき――もとは別家べっかまれであったが、石敬瑭せき・けいとう見込みこまれてやしなわれた。おだやかで学問がくもんつうじた人物じんぶつではあったが、将軍しょうぐんらからの信望しんぼうは、いまうすい。


その立太子りったいしめぐってもまた、さまざまなこえう。


契丹きったん御威光ごいこうてた後継こうけいなど、だれこころからしたがうものか」 「中原ちゅうげんふたたび、漢人かんじんもどものこそ、しん皇帝こうていよ」


あるよる洛陽らくよう宮殿きゅうでんにて。宰相さいしょう馮道ふう・どうは、燈火とうかなか黙然もくぜんふでをとっていた。


机上きじょうには、修訂中しゅうていちゅうの『五経正義ごきょうせいぎ』のまき人心じんしんみだれとは裏腹うらはらに、文教ぶんきょうは、なおえぬようともされていた。


「……ねがわくば、次代じだいにもこころざしあるものがあらんことを」


その独白どくはくは、よるしずけさにまれていく。


そして――玉座ぎょくざはじめた。


やまいみかど不安ふあんげにくにつめる文臣ぶんしんたち。けん武人ぶじんたち。


だれもが、こころおくに「つぎなるあらし」のかげかんじていた。


中原ちゅうげんに、ふたたびくもめようとしていた。




〇『曙光の終焉──石敬瑭の死と石重貴の即位』


石敬瑭せき・けいとう崩御ほうぎょ石重貴せき・じゅうき即位そくい


九四二年きゅうひゃくよんじゅうにねんはる洛陽らくよう宮廷きゅうていおごそかな沈黙ちんもくつつまれていた。後晋ごしん初代しょだい皇帝こうてい石敬瑭せき・けいとうがついにその生涯しょうがいじたのである。


かれ後唐こうとう末期まっき乱世らんせにあって一代いちだい英傑えいけつとしてせた人物じんぶつだ。しかし、その帝位ていいいしずえは、きた強大きょうだい異民族いみんぞく契丹きったん――のちりょうとの「臣従関係しんじゅうかんけい」によってささえられていた。


石敬瑭せき・けいとうは、たんなる個人こじんとどまらず、王朝おうちょう運命うんめいおおきくるがせた。


かれ直系ちょっけい血脈けつみゃくはなかった。そのため、養子ようしとしてそだてられた**石重貴せき・じゅうき**が、あとぐこととなった。


わか石重貴せき・じゅうきは、どこかおだやかで文弱ぶんじゃく印象いんしょうあたえたが、そのむねうちには、先代せんだいあまんじてきた契丹きったんへの従属じゅうぞくこばつよ意志いしめられていた。


かれ即位そくい宣言せんげんもって、明確めいかく宣言せんげんした。


「わが後晋こうしんは、もはやりょうくっせぬ。中原ちゅうげん威厳いげんもどときた」


この言葉ことばは、宮廷きゅうてい一部いちぶでは喝采かっさいをもってむかえられたが、同時どうじおもくらかげとした。


りょうは、契丹人きったんじんおこした強国きょうこくであり、かつて石敬瑭せき・けいとう割譲かつじょうした**燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう**の守護者しゅごしゃでもあった。


その対遼たいりょう政策せいさく転換てんかんは、いわばあぶらそそぐものであったのだ。


石重貴せき・じゅうき決意けついは、後晋ごしんるがす一大いちだい波乱はらん前触まえぶれにぎなかった。


もなく、りょう軍事介入ぐんじかいにゅうかまえをせ、やがてはげしい争乱そうらんこす。


それは、後晋ごしん滅亡めつぼうへとつながる布石ふせき


馮道ふう・どうをはじめとする文臣ぶんしんたちは、苛烈かれつ時代じだい奔流ほんりゅうあらがいながらも、次第しだい未来みらいへの不安ふあんつのらせていた。


かれらのおもいとは裏腹うらはらに、ふたたおおきくうごそうとしていたのだった。

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