〇『北地にて国を継ぐ──馮道、遼の構えを語る』
遼の建国と二重統治
人の世はつくづく、変わりゆくものであるな――そうつぶやいて、私は筆を置いた。
年は天福三年。西暦:九三八年。この頃、北方の草原に根ざす者たちが、一つの名をもってその姿を世に顕した。
「遼」――かの契丹、ついに漢風の国号を掲げ、これを天下に示したのである。
思えば、契丹とは、本来は文字をもたぬ遊牧の民であった。だが唐の末、華北が乱れ、諸侯が相争うなかで、彼らは南下を始め、やがて石敬瑭と手を結び、後唐を滅ぼす手助けをした。
その功によって与えられたのが、燕雲十六州。これは現在の北京から山西・河北にかけての地、もともとは我ら漢人の暮らしていた地域である。
そこに、新たな国「遼」が築かれた。
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契丹の統治と馮道の所感
契丹は、ただ武力に長けた草原の騎馬民族ではない。むしろ彼らは、得た地をどう治めるべきか、よく思案したのであろう。
彼らは、こう定めた。
「契丹の民は契丹のやり方で治め、漢人は漢人の法で治める」
すなわち――二重統治制度という名の二元支配体制のはじまりである。
契丹人には、従来どおりの遊牧的な氏族制度と軍事指導層が支配を行い、一方、漢地には、中国の伝統に則った官僚制度を整え、太守を置き、戸籍を付け、租税を徴収した。
見事なまでの分割統治。私はこれを知ったとき、ひとつ、ため息をもらした。
「……賢しきことよ。誠に、あの草原の民を侮ってはならぬ」
かつて、唐の時代、私が若かりし頃は、辺境の胡族など、いかにも粗野で無知な者とされていた。だが今、遼のなした制度は、明らかにその誤解を打ち破るものである。
契丹の王、耶律阿保機が築いた道を、今やその子孫たちが洗練させつつあるのだ。
だが……我ら漢人にとって、それは必ずしも快い話ではない。
燕雲は、中原の門戸。ここを外族に預けるというのは、常に心のしこりとなる。
洛陽の文士たちは、今日もこう嘆く。
「石皇帝は、ただ一朝の安寧を求めて、我らの山河を売ったか――」
その声が、私の耳にも届かぬわけではない。
されど私は、敢えてこう答えよう。
「失われたものは、また築けばよい。だが、焼け野原にしては、何も始まらぬ」
契丹が整える制度、それを知ることは、我らにとっても益となる。その知を知り、己が国に活かすことこそが、次代をつなぐ者の務めであろう。
夜更け、硯の墨が尽きかけている。
外では冷たい風が、簷を揺らす。
だが私は、筆をとる手を止めず、そっと巻物を巻きなおした。
――北に生まれた国に、学ぶべきものあり。それを知る者が、今この乱世にも必要なのだと、私は信じている。
漢と胡とが共に息づく世界。それは乱世か、はたまた次の時代のはじまりか。
歴史がそれを答えるには、まだいくらかの歳月が要るようである。
〇『朧なる玉座──後晋、石敬瑭の病と政争』
後晋の危機:揺らぐ帝位と次代への懸念
暦は天福四年。西暦:九三九年、時に陰が射す。
中原を治める王朝は「後晋」。その皇帝、石敬瑭は、もとは後唐の節度使。だが、反旗を翻し、北の契丹の助けを得て帝位に就いた男である。
その代償として、燕雲十六州を割譲し、自らを契丹皇帝の「臣下」と名乗った。
かつてはそれでも「安寧のため」とされていたが――即位から五年余、彼の治世も翳りを見せ始める。
九三九年、宮廷にはざわめきが走っていた。
「異民族に頭を垂れた皇帝に、真の威厳などあるまい」 「契丹との誼みはもはや国辱。中原を思う心を失ってはならぬ」
その声の主は、武人たちであり、文臣たちであった。
ことに若き将軍ら――新たに頭角を現した者たちは、契丹の使節が洛陽に入るたび、膝を屈することを恥とした。
重臣の馮道ら、老成の文官はそれをなだめつつ、なおも政の安定を図ったが、玉座の主が病に倒れるとなれば、それもまた、風前の灯火である。
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石重貴の立太子と不安
年が改まり、天福六年。西暦:九四一年――石敬瑭、病に臥す。ひとたび床に就くと、その身は日に日に痩せ、御前に仕える者たちが息を呑むほどであった。
しかも、彼には直系の男子がいない。そのため、養子の石重貴が、急ぎ「太子」(皇太子)に立てられる。
この石重貴――もとは別家の生まれであったが、石敬瑭に見込まれて養われた。穏やかで学問に通じた人物ではあったが、将軍らからの信望は、未だ薄い。
その立太子を巡ってもまた、さまざまな声が飛び交う。
「契丹の御威光で立てた後継など、誰が心から従うものか」 「中原を再び、漢人の手に取り戻す者こそ、真の皇帝よ」
ある夜、洛陽の宮殿にて。宰相の馮道は、燈火の中で黙然と筆をとっていた。
机上には、修訂中の『五経正義』の巻。人心の乱れとは裏腹に、文教の火は、なお消えぬよう灯されていた。
「……願わくば、次代にも志ある者があらんことを」
その独白は、夜の静けさに吸い込まれていく。
そして――玉座は揺れ始めた。
病に伏す帝。不安げに国を見つめる文臣たち。剣を研ぐ武人たち。
誰もが、心の奥に「次なる嵐」の影を感じていた。
中原に、ふたたび雲が立ち込めようとしていた。
〇『曙光の終焉──石敬瑭の死と石重貴の即位』
石敬瑭の崩御と石重貴の即位
九四二年の春、洛陽の宮廷は厳かな沈黙に包まれていた。後晋の初代皇帝、石敬瑭がついにその生涯を閉じたのである。
彼は後唐の末期、乱世にあって一代の英傑として名を馳せた人物だ。しかし、その帝位の礎は、北の強大な異民族、契丹――後の遼との「臣従関係」によって支えられていた。
石敬瑭の死は、単なる個人の死に留まらず、王朝の運命を大きく揺るがせた。
彼に直系の血脈はなかった。そのため、養子として育てられた**石重貴**が、後を継ぐこととなった。
若き石重貴は、どこか穏やかで文弱な印象を与えたが、その胸の内には、先代が甘んじてきた契丹への従属を拒む強い意志が秘められていた。
彼は即位の宣言を以て、明確に宣言した。
「わが後晋は、もはや遼に屈せぬ。中原の威厳を取り戻す時が来た」
この言葉は、宮廷の一部では喝采をもって迎えられたが、同時に重く暗い影も落とした。
遼は、契丹人が興した強国であり、かつて石敬瑭が割譲した**燕雲十六州**の守護者でもあった。
その対遼政策の転換は、いわば火に油を注ぐものであったのだ。
石重貴の決意は、後晋を揺るがす一大波乱の前触れに過ぎなかった。
間もなく、遼は軍事介入の構えを見せ、やがて激しい争乱を引き起こす。
それは、後晋の滅亡へと繋がる布石。
馮道をはじめとする文臣たちは、苛烈な時代の奔流に抗いながらも、次第に未来への不安を募らせていた。
彼らの思いとは裏腹に、世は再び大きく動き出そうとしていたのだった。