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変節の宰相:馮道:5章:石敬瑭時代②

〇【静かなる筆、国を立つ――馮道、五経に心を寄せて】


馮道(ふう・どう)と『五経正義(ごきょうせいぎ)』の編纂(へんさん)


夜明(よあ)けの光(ひかり)が、帳(とばり)の隙間(すきま)から静(しず)かに差(さ)し込(こ)んでくる。


冬(ふゆ)の気配(けはい)が空気(くうき)に混(ま)じる頃(ころ)、私(わたくし)は都(みやこ)の東隅(とうぐう)に構(かま)えられた簡素(かんそ)な書院(しょいん)に、日々(ひび)足(あし)を運(はこ)んでいた。年(とし)はすでに天福(てんぷく)二年(ねん)(九三七年(きゅうひゃくさんじゅうななねん))、私(わたくし)は齢(よわい)五十五(ごじゅうご)となっていたが、筆(ふで)を握(にぎ)る手(て)は未(いま)だ衰(おとろ)えぬ。むしろ、今(いま)こそが人生(じんせい)の正念場(しょうねんば)であろうという心持(こころもち)であった。


私(わたくし)の名(な)は馮道(ふう・どう)。唐(とう)の滅亡(めつぼう)より続(つづ)く五代十国(ごだいじゅっこく)の動乱(どうらん)を、文臣(ぶんしん)として渡(わた)り歩(ある)いてきた老臣(ろうしん)である。梁(りょう)・唐(とう)・晋(しん)と三朝(さんちょう)に仕(つか)え、世(よ)の多(おお)くを見(み)、声(こえ)を殺(ころ)して幾度(いくど)も流血(りゅうけつ)を避(さ)けた。


世(よ)の変遷(へんせん)を知(し)る者(もの)として、今(いま)、私(わたくし)が最(もっと)も力(ちから)を注(そそ)いでいるのは、「学(がく)」であった。


________________________________


学(まな)びへの信念(しんねん)と『五経正義(ごきょうせいぎ)』の編纂(へんさん)


人(ひと)は、剣(けん)によって国(くに)を奪(うば)う。だが、筆(ふで)によって国(くに)は治(おさ)まる――。


それは若(わか)き日(ひ)のある日(ひ)、朽(く)ちかけた書巻(しょかん)を繙(ひもと)いていたとき、ふと心(こころ)に浮(う)かんだ言葉(ことば)だった。戦(いくさ)に明(あ)け暮(く)れるこの世(よ)で、儒(じゅ)の教(おし)えは遠(とお)ざけられていたが、私(わたくし)はそれを忘(わす)れなかった。学(まな)びは、人(ひと)の心(こころ)を照(て)らす灯火(ともしび)であると信(しん)じていた。


この頃(ころ)、後晋(ご・しん)の開国(かいこく)が成(な)り、石敬瑭(せき・けいとう)殿(どの)が皇帝(こうてい)となった。彼(かれ)は武(ぶ)に秀(ひい)でた人(ひと)であったが、文(ぶん)の道(みち)に通(つう)じた者(もの)ではなかった。そのため、私(わたくし)は進言(しんげん)したのだ――この国(くに)に真(しん)の治世(ちせい)をもたらすには、法(ほう)と秩序(ちつじょ)だけでは足(た)りぬ。人(ひと)の心(こころ)を正(ただ)す学問(がくもん)、つまり教育(きょういく)の整備(せいび)こそ急務(きゅうむ)であると。


その進言(しんげん)を受(う)けて、ようやく陽(ひ)の目(め)を見(み)たのが『五経正義(ごきょうせいぎ)』の編纂(へんさん)であった。


『五経(ごきょう)』とは、儒教(じゅきょう)の根幹(こんかん)をなす五(いつ)つの経書(けいしょ)――『詩経(しきょう)』『書経(しょきょう)』『礼記(らいき)』『易経(えききょう)』『春秋(しゅんじゅう)』を指(さ)す。そして『正義(せいぎ)』とは、それらを解釈(かいしゃく)し、体系立(たいけいだて)て、後(のち)の世(よ)に正(ただ)しく伝(つた)えるための注釈書(ちゅうしゃくしょ)である。


私(わたくし)はかねてより、これらが世(よ)にばらばらの解釈(かいしゃく)で伝(つた)えられていることを憂(うれ)いていた。諸子百家(しょしひゃっか)が跋扈(ばっこ)する戦国(せんごく)のような混沌(こんとん)では、真(しん)の学(がく)は根(ね)づかぬ。だからこそ、五経(ごきょう)を国家(こっか)の根本(こんぽん)とし、共通(きょうつう)の教義(きょうぎ)として定(さだ)めなければならぬと考(かんが)えたのだ。


編纂(へんさん)にあたり、私(わたくし)は当代(とうだい)きっての学者(がくしゃ)たちを招(まね)いた。中(なか)でも若(わか)き儒者(じゅしゃ)・許寧(きょ・ねい)は、驚(おどろ)くべき記憶力(きおくりょく)と洞察力(どうさつりょく)を持(も)ち、古典(こてん)を語(かた)らせれば風(かぜ)のごとく淀(よど)みがなかった。彼(かれ)らと日々(ひび)議論(ぎろん)を交(か)わし、書(しょ)を繙(ひもと)き、幾百(いくひゃく)の夜(よる)を重(かさ)ねる中(なか)で、『五経正義(ごきょうせいぎ)』は次第(しだい)にその輪郭(りんかく)をあらわしていった。


そして、私(わたくし)はそれと並行(へいこう)して、学(がく)を選(えら)ぶ制度(せいど)――すなわち科挙(かきょ)の整備(せいび)にも手(て)を伸(の)ばした。


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科挙(かきょ)の整備(せいび)と馮道(ふう・どう)の志(こころざし)


かつての唐(とう)においても科挙(かきょ)は存在(そんざい)したが、五代(ごだい)の乱世(らんせ)でその制度(せいど)は形骸化(けいがいか)していた。貴族(きぞく)の推薦(すいせん)や軍功(ぐんこう)ばかりが重視(じゅうし)され、真(しん)に才(さい)ある者(もの)が陽(ひ)の目(め)を見(み)ぬ現状(げんじょう)を、私(わたくし)は何(なに)よりも惜(お)しんだ。


そこで私(わたくし)は提案(ていあん)した。儒学(じゅがく)の素養(そよう)をもって官(かん)に就(つ)くべきであると。


すなわち、書(しょ)に親(した)しみ、礼(れい)を弁(わきま)え、論(ろん)を立(た)てて人心(じんしん)を導(みちび)く者(もの)――そうした人材(じんざい)を科挙(かきょ)によって選(えら)び抜(ぬ)く仕組(しく)みを、今一度(いまいちど)蘇(よみがえ)らせるべきだと。


これには反対(はんたい)も多(おお)かった。武臣(ぶしん)は、筆(ふで)を持(も)つ者(もの)を軽(かろ)んじる。だが、私(わたくし)は譲(ゆず)らなかった。時(とき)に低(ひく)く、時(とき)に穏(おだ)やかな声(こえ)で、ただ一(ひと)つ――「学(がく)の道(みち)こそ、乱世(らんせ)を終(お)える鍵(かぎ)である」と繰(く)り返(かえ)した。


やがて、皇帝(こうてい)の勅許(ちょっきょ)を得(え)て、新(あら)たな科挙制度(かきょせいど)が整(ととの)えられた。儒学(じゅがく)の知識(ちしき)を問(と)う筆試(ひっし)が重視(じゅうし)され、門地(もんち)に関(かか)わらず試験(しけん)を受(う)けられるようになったのだ。


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筆(ふで)に込(こ)めた祈(いの)り


朝(あさ)が来(く)る。書院(しょいん)の窓(まど)から、淡(あわ)く白(しろ)む空(そら)を眺(なが)めながら、私(わたくし)は筆(ふで)を置(お)く。


この国(くに)の行(ゆ)く末(すえ)を、今(いま)の私(わたくし)に語(かた)ることはできぬ。石敬瑭(せき・けいとう)殿(どの)が遼(りょう)に差(さ)し出(だ)した燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)――あの選択(せんたく)が、この国(くに)にいかなる未来(みらい)をもたらすか、それは私(わたくし)の手(て)の届(とど)かぬところにある。


だが、こうして書(しょ)を編(あ)み、学(がく)を広(ひろ)め、後(のち)の世(よ)に知(ち)を繋(つな)ぐことならば、今(いま)の私(わたくし)にもできる。


乱世(らんせ)のただなかにあっても、人(ひと)は学(まな)ぶ。学(まな)ぶことで己(おのれ)を律(りっ)し、他(ほか)を知(し)り、世(よ)を治(おさ)める。


私(わたくし)が望(のぞ)むのは、ただそれだけだ。剣(けん)ではなく、筆(ふで)によって国(くに)が形作(かたちづく)られる時代(じだい)が、いつか再(ふたた)び訪(おとず)れることを――。


老(お)いた心(こころ)の奥(おく)に、静(しず)かな祈(いの)りを抱(いだ)きながら、私(わたくし)はまた巻物(まきもの)の余白(よはく)に筆(ふで)を走(はし)らせた。


それが、私(わたくし)の務(つと)めであった。


――馮道(ふう・どう)、天福(てんぷく)の冬(ふゆ)、筆録(ひつろく)す。




〇『風の記すもの──馮道、五十代半ばの独白』


五代十国(ごだいじゅっこく)の動乱(どうらん)と馮道(ふう・どう)の思索(しさく)


夜気(やき)は、涼(すず)しさに一抹(いちまつ)の鋭(するど)さを宿(やど)す。 馮道(ふう・どう)は、燈(ひ)を薄(うす)くした書斎(しょさい)の隅(すみ)に身(み)を寄(よ)せ、机上(きじょう)の地図(ちず)を見(み)つめていた。


年(とし)は天福(てんぷく)二年(ねん)──すなわち、紀元(きげん)九三七年(きゅうひゃくさんじゅうななねん)。 五十有五(ごじゅうゆうご)の齢(よわい)を重(かさ)ねたこの宰相(さいしょう)は、静(しず)かに、しかし確(たし)かに、胸(むね)の内(うち)を反芻(はんすう)していた。


「……人(ひと)の世(よ)というものは、理(ことわり)では割(わ)り切(き)れぬものですな。」


独(ひと)り言(ごと)のように、彼(かれ)はつぶやく。時代(じだい)はまさに五代十国(ごだいじゅっこく)の嵐(あらし)の中(なか)にあった。


後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、そして今(いま)は後晋(こうしん)。短命(たんめい)の王朝(おうちょう)が北中国(ほくちゅうごく)を巡(めぐ)り、次々(つぎつぎ)と玉座(ぎょくざ)を奪(うば)い合(あ)う。一方(いっぽう)、南方(なんぽう)には呉(ご)、楚(そ)、閩(びん)、南唐(なんとう)など、割拠(かっきょ)する地方政権(ちほうせいけん)が十(じゅう)あまり──。かつての唐(とう)の威容(いよう)は、すでに遠(とお)き蜃気楼(しんきろう)であった。


「我(わ)が主(あるじ)──石敬瑭(せき・けいとう)殿(どの)が即位(そくい)し、後晋(こうしん)が立国(りっこく)したのは、つい先日(せんじつ)のことのように思(おも)えるが……」


馮道(ふう・どう)の視線(しせん)は、地図(ちず)の西北(せいほく)に広(ひろ)がる草原(そうげん)へと移(うつ)る。そこには漢字(かんじ)で「契丹(きったん)」と記(しる)されていた。


「だが、代償(だいしょう)は大(おお)きかった。燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)──これを契丹(きったん)に割譲(かつじょう)したことが、後世(こうせい)にどれほどの重(おも)しとなるか……」


契丹(きったん)とは、北方(ほっぽう)の遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)である。その君主(くんしゅ)・耶律阿保機(やりつ・あぼき)が基(もと)を開(ひら)き、今(いま)はその子(こ)、耶律徳光(やりつ・とくこう)が実権(じっけん)を握(にぎ)っていた。彼(かれ)らは漢風(かんぷう)の制度(せいど)を取(と)り入(い)れ、すでに「遼(りょう)」の国号(こくごう)を用(もち)い始(はじ)めている。


「遼(りょう)なる国(くに)は、いずれ中原(ちゅうげん)と伍(ご)する強国(きょうこく)となるやもしれぬ……されど、今(いま)はその力(ちから)を借(か)りてこの国(くに)を立(た)てねばならなかった。世(よ)の理(ことわり)よ。」


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南方(なんぽう)諸国(しょこく)の動向(どうこう)


馮道(ふう・どう)は筆(ふで)を執(と)り、紙(かみ)に南方(なんぽう)の情勢(じょうせい)を書(か)き付(つ)けてゆく。


「南唐(なんとう)は、徐知誥(じょ・ちこう)が立(た)てた。かの者(もの)、智謀(ちぼう)に富(と)む。やがて呉(ご)を併呑(へいどん)するであろう。」


「楚(そ)は、馬殷(ば・いん)の子(こ)らが継(つ)いでいるが、内訌(ないこう)の兆(きざ)しあり。政(まつりごと)は粗(あら)く、長(なが)くは保(たも)てまい。」


「閩(びん)は王(おう)氏(し)の国(くに)にて、今(いま)の主(あるじ)は王延羲(おう・えんぎ)。だが、内政(ないせい)は混迷(こんめい)し、民(たみ)の声(こえ)は届(とど)かぬ。」


「南漢(なんかん)は嶺南(れいなん)の小国(しょうこく)に過(す)ぎぬ。劉(りゅう)氏(し)が家(いえ)を継(つ)ぐが、我(われ)らにとって脅威(きょうい)とはならぬ。」


「さらに西(にし)の前蜀(ぜんしょく)はすでに後唐(こうとう)に滅(ほろ)ぼされ、その地(ち)は後蜀(こうしょく)が新(あら)たに興(おこ)る。」


彼(かれ)は筆(ふで)を置(お)いた。眼前(がんぜん)の燈(ひ)が、かすかに揺(ゆ)れる。


「こうしてみれば、中原(ちゅうげん)の地(ち)に国(くに)はひとつなれど、天下(てんか)は未(いま)だ安(やす)からず。」


言外(げんがい)に、思(おも)いは重(おも)く滲(にじ)む。馮道(ふう・どう)自身(じしん)、この乱世(らんせ)の中(なか)で、すでに五(いつ)つの王朝(おうちょう)に仕(つか)えてきた。後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)──そのすべての王朝(おうちょう)で、宰相(さいしょう)を務(つと)めてきた男(おとこ)。裏切(うらぎ)りと見(みな)す者(もの)もあろう。だが、彼(かれ)の胸(むね)には、一(ひと)つの信念(しんねん)がある。


「我(われ)は、天下(てんか)のために仕(つか)える。人(ひと)のために筆(ふで)を執(と)る。君(きみ)が誰(だれ)であれ、民(たみ)の安寧(あんねい)を図(はか)ること、それこそが文臣(ぶんしん)の本分(ほんぶん)。」


外(そと)では、虫(むし)の音(ね)がひとしきり高(たか)まっていた。


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老文臣(ろうぶんしん)の矜持(きょうじ)


その響(ひび)きを受(う)けながら、馮道(ふう・どう)はそっと紙(かみ)を巻(ま)き上(あ)げた。次(つぎ)の朝(あさ)には、朝議(ちょうぎ)が待(ま)っている。乱世(らんせ)にあって、学(がく)を以(もっ)て国(くに)を繕(つくろ)うこと──それがこの老文臣(ろうぶんしん)の矜持(きょうじ)であった。


そしてまた、この夜(よる)もまた、彼(かれ)は静(しず)かに歴史(れきし)のひと頁(ページ)を綴(つづ)っていたのである。




〇『燈下の墨守(ぼくしゅ)──後晋の文治を支えて』


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後晋(こうしん)の建国(けんこく)と馮道(ふう・どう)の治世(ちせい)


年(とし)は天福(てんぷく)二年(ねん)、すなわち西暦(せいれき)九三七年(きゅうひゃくさんじゅうななねん)。季節(きせつ)はすでに晩秋(ばんしゅう)を迎(むか)え、洛陽(らくよう)の風(かぜ)も日(ひ)に日(ひ)に冷(つめ)たさを増(ま)していた。


この年(とし)──石敬瑭(せき・けいとう)、ついに皇帝(こうてい)として即位(そくい)。後唐(こうとう)を滅(ほろ)ぼし、契丹(きったん)の援助(えんじょ)を受(う)けて、新(あら)たに「後晋(こうしん)」の国(くに)を興(おこ)したのである。


だが、この国(くに)は、建国(けんこく)と同時(どうじ)に、ひとつの重(おも)たい影(かげ)を背負(せお)っていた。


「北(きた)に頭(こうべ)を垂(た)れた皇帝(こうてい)など、我(わ)が中華(ちゅうか)にはありえぬ……」


そんな囁(ささや)きが、街角(まちかど)や学舎(がくしゃ)のあちこちで燻(くすぶ)っていた。


後晋(こうしん)が成立(せいりつ)する見返(みかえ)りに、石敬瑭(せき・けいとう)は契丹(きったん)へ燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)を割譲(かつじょう)した。さらに彼(かれ)は、名目上(めいもくじょう)、遼(りょう)の皇帝(こうてい)を「父皇(ふこう)」と呼(よ)び、自(みずか)らを「臣下(しんか)」と称(しょう)する文書(ぶんしょ)を送(おく)っている。


これが、士人(しじん)たちの心(こころ)に火(ひ)を点(とも)けぬはずがなかった。


だが、宮中(きゅうちゅう)の一隅(いちぐう)──その批判(ひはん)と憤慨(ふんがい)の波(なみ)に、ただ一人(ひとり)、静(しず)かに抗(こう)する男(おとこ)がいた。名(な)は馮道(ふう・どう)。文臣(ぶんしん)としてすでに五朝(ごちょう)に仕(つか)え、今(いま)もなお、政(まつりごと)の中枢(ちゅうすう)に身(み)を置(お)く男(おとこ)である。


「中原(ちゅうげん)は今(いま)、荒(あ)れ果(は)てております。これ以上(いじょう)の戦火(せんか)を避(さ)けるためならば、外面(がいめん)の屈辱(くつじょく)も受(う)け入(い)れるべき時(とき)もありましょう。」


そう語(かた)ったとき、彼(かれ)の声音(こわね)に怒(いか)りはなかった。あるのはただ、深(ふか)い疲(つか)れと、未来(みらい)を見据(みす)える理(ことわり)の眼(まなこ)だけである。


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文(ぶん)の力(ちから)による国(くに)の繕(つくろ)い


後晋(こうしん)の宮廷(きゅうてい)は今(いま)、馮道(ふう・どう)ら文官(ぶんかん)の手(て)で、再(ふたた)び「文(ぶん)の力(ちから)」を取(と)り戻(もど)そうとしていた。


まず、かねてより乱(みだ)れていた科挙(かきょ)制度(せいど)を見直(みなお)し、秀才(しゅうさい)や進士(しんし)の登用(とうよう)を公正(こうせい)に行(おこな)えるよう整備(せいび)が進(すす)められた。試験(しけん)には、より一層(いっそう)の儒学(じゅがく)的(てき)知識(ちしき)が求(もと)められ、とりわけ注目(ちゅうもく)されたのが──


『五経正義(ごきょうせいぎ)』である。


これは、かつて唐(とう)の太宗(たいそう)が命(めい)じて編集(へんしゅう)させた、儒教(じゅきょう)の五経(ごきょう)に対(たい)する正統(せいとう)な注釈書(ちゅうしゃくしょ)。乱世(らんせ)の中(なか)で忘(わす)れ去(さ)られていたこの古典(こてん)を、馮道(ふう・どう)はもう一度(いちど)、学者(がくしゃ)たちに読(よ)み解(と)かせ、学問(がくもん)の柱(はしら)に据(す)えようとしていた。


「国(くに)のかたちは、ただ剣(けん)で築(きず)かれるものにあらず。筆(ふで)の力(ちから)、すなわち人(ひと)を育(そだ)てる力(ちから)こそ、万世(ばんせい)の礎(いしずえ)なり。」


そう信(しん)じる馮道(ふう・どう)にとって、書物(しょもつ)を整(ととの)え、試験(しけん)を公平(こうへい)に戻(もど)し、士大夫(したいふ)たちに再(ふたた)び学問(がくもん)と徳(とく)の道(みち)を歩(あゆ)ませることこそ、己(おのれ)が務(つと)めであった。


だが一方(いっぽう)で、街中(まちなか)に流(なが)れる噂(うわさ)は止(や)む気配(けはい)を見(み)せぬ。


「我(わ)らが皇帝(こうてい)は、北狄(ほくてき)の手先(てさき)となったか――」


「遼(りょう)の皇帝(こうてい)を父(ちち)と呼(よ)ぶとは、これ中華(ちゅうか)の恥(はじ)なり!」


馮道(ふう・どう)はそれらの声(こえ)を、真っ向(まっこう)から否定(ひてい)することはしなかった。否(いな)――できなかったのだ。


________________________________


馮道(ふう・どう)の矜持(きょうじ)


その夜(よる)、書斎(しょさい)の燈火(とうか)の下(もと)。彼(かれ)は『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』の一節(いっせつ)をめくりながら、独(ひと)り言(ごと)のように呟(つぶや)いた。


「時(とき)に抗(あらが)うことは、英雄(えいゆう)の務(つと)めかもしれぬ。だが、時(とき)を繕(つくろ)うこともまた、臣(しん)の道(みち)ではなかろうか。」


その言葉(ことば)に、答(こた)える者(もの)はない。


ただ硯(すずり)の墨(すみ)が、ゆるりと濃(こ)さを深(ふか)めていった。


文(ぶん)を以(もっ)て国(くに)を立(た)てる。筆(ふで)を以(もっ)て世(よ)を支(ささ)える。それが馮道(ふう・どう)の矜持(きょうじ)であった。


たとえそれが、誰(だれ)に誤解(ごかい)されようとも、彼(かれ)は今(いま)、書(しょ)をひもとき、国(くに)を繕(つくろ)う。


それが、戦(いくさ)のない政(まつりごと)の世(よ)を夢見(ゆめみ)る者(もの)の、静(しず)かな抵抗(ていこう)であった。

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