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変節の宰相:馮道:5章:石敬瑭時代①

〇馮道の独白 ~十六州の夜明け~


後唐こうとう滅亡めつぼう馮道ふう・どう選択せんたく


ひとくにてるときとは、どのようなおもいがむねにあるのでしょうか。


その、わたくし馮道ふう・どうは、洛陽らくよう城壁じょうへきち、とお北方ほっぽうしずあか夕日ゆうひつめておりました。とき天福てんぷく元年がんねん、すなわち後唐こうとう最後さいごとし――西暦せいれき九三六年きゅうひゃくさんじゅうろくねんのこと。


石敬瑭せき・けいとうが、ついにやったのです。


後唐こうとうは、ほろびました。


かれかかげた旗印はたじるしのもとに、契丹きったん騎馬きば中原ちゅうげんはいり、後唐こうとうぐんやぶり、李従珂り・じゅうか陛下へいか洛陽らくようきたにて、てんあおいで自刃じじんなされた――まこと、てんもまたなみだしたのでありましょう。


その直後ちょくご契丹きったん助力じょりょくて、石敬瑭せき・けいとうは「後晋ご・しん」をて、皇帝こうていくらいきました。


五十四歳ごじゅうよんさい。かつて明宗めいそう娘婿むすめむことして洛陽らくようつかえたおとこが、みずからのあらたな時代じだいひらいたのです。


…ですが、その代償だいしょうは、あまりにおおきうございました。


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燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう割譲かつじょうたみ悲嘆ひたん


石敬瑭せき・けいとうは、契丹きったんとの盟約めいやくにより「燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう」――すなわち幽州ゆうしゅう薊州けいしゅう恒州こうしゅうなど、河北かほく山西さんせい戦略要地せんりゃくようち北方ほっぽう異民族いみんぞく割譲かつじょういたしました。


これはたんなる土地とち移譲いじょうではございません。北方ほっぽう防衛線ぼうえいせんそのものを、異国いこくわたしたのです。


中華ちゅうかたみほこりが、みにじられました。


みやこ民衆みんしゅうは、口々(くちぐち)にかれを「売国皇帝ばいこくこうてい」とののしり、石敬瑭せき・けいとうけば、路傍ろぼういぬすらえるとまでわれました。


「どんなに帝位ていいしくとも、胡虜こりょりてはならぬ――」


老臣ろうしんたちの悲嘆ひたん儒者じゅしゃたちのいかり、軍人ぐんじんたちの困惑こんわく。まるでみやこじゅうに黒雲くろくもめたかのようでございました。


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馮道ふう・どう決断けつだん後晋こう・しんでの政務せいむ


では、わたくしはどうしたのか――。


ええ、わたくし馮道ふう・どうは、後晋こう・しんつかえました。


このはじはなかったかとわれれば、こたえにきゅうすることもございます。ですが、あの混乱こんらん只中ただなかにあって、朝廷ちょうていたもち、たみまもり、まつりごとととのえるものったのです。


石敬瑭せき・けいとうは、たしかに強引ごういんではありましたが、まつりごとかるんじる人物じんぶつではありませんでした。ぶんとうとび、学者がくしゃこのみ、儒者じゅしゃたちにも一定いってい敬意けいいはらっておりました。


わたくしは、そのなかにありて、科挙かきょ制度せいど整備せいび租税そぜい安定あんていはかり、流通りゅうつうただし、民政みんせいささえようとつとめたのでございます。


たみえず、いくさまれず、安寧あんねいること。それが、わたくしのつとめであるとしんじておりました。


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歴史れきし評価ひょうか馮道ふう・どう信念しんねん


後世こうせい史書ししょには、わたくしのを「二主にしゅつかえるをじず」としるものもございます。


けれど、この乱世らんせにあって、ひとつのあるじまもくことがはたして可能かのうでありましょうか?


こころざしげぬものは、うつくしい。だが、げてでもまもるべきものがあるとしんじるものもまた、みちたがえたとはおもわぬのです。


石敬瑭せき・けいとう治世ちせいみじかくも、一定いってい安定あんていをもたらしました。そして、燕雲えんうん喪失そうしつという汚点おてんえに、五胡十六国ごこじゅうろくこく以来いらい混沌こんとんから一歩いっぽすすんだ秩序ちつじょそだちつつあったことも、また事実じじつでございます。


あの夕暮ゆうぐれの城壁じょうへきから光景こうけいを、わたくしはいまわすれませぬ。


北方ほっぽうそらかぶ、契丹きったん軍旗ぐんきこごえるかぜかれながら、それでも、洛陽らくよう灯火とうかひとつもえておりませなんだ。


たみは、らしをいとなみ、み、いて、んでゆく。


わたくしの使命しめいとは、そのらしをつなぐことでございます。


――わたくし馮道ふう・どう、このてるまで、まつりごとはなれませぬ。




〇馮道の独白 ―石敬瑭という男―


後晋こう・しん皇帝こうてい石敬瑭せき・けいとう


あるじ石敬瑭せき・けいとう――。


このみみにすれば、いまにはまゆをひそめるものおおいかもしれませぬ。中原ちゅうげん北狄ほくてき馬蹄ばていにゆだねた「売国ばいこくみかど」、あるいは契丹きったんひざくっした「いつわりの皇帝こうてい」と。


しかしながら、わたくし馮道ふう・どうは、このおとこみかどとしてつかえたひとりでございますゆえ、あえてもうしましょう。石敬瑭せき・けいとうは、ただの卑屈ひくつ簒奪者さんだつしゃなどではない。あの乱世らんせにおいて、一歩いっぽあやまればたみいのち数万すうまんうしなわれる、その渦中かちゅうにあって、あのひとなりのみちつらぬいたのだと。


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沙陀族さだぞく名将めいしょう


石敬瑭せき・けいとうは、後唐こうとう名将めいしょうにして、異民族いみんぞく沙陀さだぞくものでございました。かの李克用り・こくよう系譜けいふにつらなる名家めいかまれ、華北かほくにあって、おさなころよりうままたがり、ゆみくことをまなび、いくさなかきるすべをそのきざんでまいりました。


やがて後唐こうとう明宗めいそういだされ、河東(かとう。いま山西省さんせいしょう北部ほくぶ)の節度使せつどしという大任たいにんまかされるにいたります。このこそ、かれぐん根幹こんかん形作かたちづくられたでありました。


河東かとうけわしい山々(やまやま)にかこまれ、きびしい風雪ふうせつきすさぶ土地とちにございますが、それゆえに、おもんじ、きたえられた兵士へいしおお輩出はいしゅつする軍事ぐんじでありました。そこにつどったのは、まさに猛虎もうこのごとき将兵しょうへいたちでございました。


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石敬瑭せき・けいとう精強せいごうなるぐん


石敬瑭せき・けいとうぐん――それは精強せいごうなる騎兵きへい中核ちゅうかくとした、実戦じっせんかさねた猛者もさ集団しゅうだんでございました。


沙陀さだである石敬瑭せき・けいとうは、機動力きどうりょくすぐれた騎兵きへい戦術せんじゅつひいで、遊牧系ゆうぼくけい伝統でんとうをふまえたたたかかたをよく心得こころえておりました。馬上ばじょうよりゆみ疾駆しっくする突撃とつげき、そしてその後の素早すばや転進てんしんへいたちはまさにかぜのごとく、かみなりのごとく、戦場せんじょうけたものでございます。


さらにはかれ自身じしん後唐こうとう内乱ないらん外征がいせいにあたって幾度いくど戦陣せんじんち、修羅しゅらなかのこってきた百戦錬磨ひゃくせんれんましょうでございました。ゆえに、かれぐんつどった兵士へいしたちもまた、長年ながねんたたかいをくぐけてきた、ほこたか歴戦れきせんばかりでございました。


そして、かれぐん特筆とくひつすべきは、その多様性たようせいにございます。


漢人かんじん沙陀族さだぞく突厥とっけつけい回鶻かいこつけい――さまざまな出自しゅつじものたちがともに戦旗せんきかかげ、陣列じんれつしておりました。ときに言葉ことばつうじずとも、戦場せんじょう心得こころえにおいては一致いっちしていたのです。


それぞれの民族みんぞく特性とくせい――漢人かんじん陣形じんけい沙陀族さだぞく突撃とつげき契丹きったん遊撃ゆうげき戦術せんじゅつ。それらを融合ゆうごうし、石敬瑭せき・けいとうは、ただ一人ひとり諸民族しょみんぞくちからを一つ(ひとつ)にまと(め)げる稀代きだい指導者しどうしゃとして君臨くんりんしたのでございます。


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後唐こうとう滅亡めつぼう後晋ご・しん建国けんこく


その極致きょくちが、契丹きったんむすんでの「後唐こうとう討伐とうばつ」でございました。


天福てんぷく元年がんねん九三六年きゅうひゃくさんじゅうろくねん)、石敬瑭せき・けいとう義父ぎふである後唐こうとう皇帝こうてい李嗣源り・しげん李従珂り・じゅうか対立たいりつし、ついには契丹きったん太宗たいそう耶律徳光やりつ・とくこう援軍えんぐんいました。契丹きったん騎兵きへい洪水こうずいのごとき進軍しんぐん中原ちゅうげんおそい、洛陽らくよう包囲ほうい李従珂り・じゅうかほのおつつまれた玄武門げんぶもんにてみずかいのちったともうします。


石敬瑭せき・けいとうはその、「後晋こう・しん」をおこし、皇帝こうていとして即位そくいいたしました。


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燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう割譲かつじょう馮道ふう・どう信念しんねん


しかし、この代償だいしょうはあまりにもおおきうございました。


石敬瑭せき・けいとう契丹きったんとの約束やくそくのもと、「燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう」――すなわち、幽州ゆうしゅう薊州けいしゅう恒州こうしゅうなど、長城ちょうじょう以南いなん軍事ぐんじ要衝ようしょう契丹きったん割譲かつじょうしたのでございます。


このことが、中原ちゅうげん士大夫したいふ民衆みんしゅうからはげしいいかりをいました。「国土こくどてきった」「異民族いみんぞくひざまずいた」と。みやこでは石敬瑭せき・けいとうをなじる出回でまわり、かれ即位そくいいわこえはかきされてしまったほどでございます。


けれども、どうかご理解りかいいただきとうございます。


あのとき、石敬瑭せき・けいとうたねば、中原ちゅうげんはもっとながまみれ、えと混乱こんらんくるしみつづけていたのです。


異民族いみんぞくとの協調きょうちょうか、内戦ないせん継続けいぞくか――かれえらんだのは、いのちつなみちでございました。


わたくし馮道ふう・どうは、その後晋ご・しん宰相さいしょうとしてつかえ、文治ぶんち整備せいびつとめてまいりました。


どれほどあるじわれど、まつりごとやすんじ、たみまもることこそ、こころざしにございます。


石敬瑭せき・けいとうは、つね政務せいむおこたらず、ことばけ、意見いけんれる器量きりょうっておられました。粗野そや沙陀さだしょうと(思う)なかれ、漢族かんぞくれいまなび、じゅうやまい、ぶんつうじた賢帝けんていでございました。


たとえ後世こうせいののしられようとも――わたくしは、あのかたつかえたことを、いてはおりませぬ。


歴史れきしとは、ときにあまりにも非情ひじょうでございます。されど、あのふゆ河東かとうで、馬上ばじょう石敬瑭せき・けいとうに、わたくしはたしかにこのくに未来みらいたのです。




〇【風が鳴く時、北地を思う——馮道独語】


契丹きったんりょう異民族いみんぞく王朝おうちょう勃興ぼっこう


……夜半やはん静寂しじまに、かすかなかぜのうねりがある。とばりおくとも燈火とうかがゆれ、筆先ふでさきかみうえはしるたび、かすれたおとわたくしみみでる。こうしておのれ半生はんせいかえるのも、いがふかまったあかしかもしれぬな。


わたくし馮道ふう・どう、かつて唐末とうまつ乱世らんせき、いくたびも王朝おうちょう盛衰せいすい見届みとどけてきた。とうほろびより五代ごだいわたり、じゅうくに割拠かっきょするその渦中かちゅうに、わたくししんとして、またとき筆誅ひっちゅうをもってきた。


このいたわたくしかたりが、いずれだれかのなぐさめとなるならば、契丹きったんというくにについて、すこかたってみるとしようか。


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契丹きったん興隆こうりゅう


契丹きったんは、華夏かか北方ほっぽうにてながらく遊牧生活ゆうぼくせいかついとなんでいた民族みんぞくであった。その始祖しそ八部はちぶばれる部族連合ぶぞくれんごうからこり、草原そうげんにてうまともき、弓矢ゆみやにておおかみり、ひとあらそいもまた遊戯ゆげとするものたちであった。


その契丹きったんが「くに」としてったのは、太祖たいそ耶律阿保機やりつ・あぼき登場とうじょうはじまる。ときとう天祐てんゆう元年がんねん西暦せいれきもうせば九〇七年きゅうひゃくななねん——まさにとうほろび、華北かほく戦火せんかつつまれたあのとしである。


耶律阿保機やりつ・あぼきは、ただの部族長ぶぞくちょうにあらず。かれ見識けんしきたか戦略家せんりゃくかであり、諸部族しょぶぞくたくみ統合とうごうし、あらたに「契丹国きったんこく」をおこした。かれおさめるまつりごとは、草原そうげんかぜのようにしなやかに、ときかみなりのように苛烈かれつであった。かさなる戦功せんこうによって周辺しゅうへん部族ぶぞくを次々と服属ふくぞくさせ、遼河りょうがから大興安嶺だいこうあんれいいた広大こうだい掌中しょうちゅうおさめたのである。


そのいきおいをりて、耶律阿保機やりつ・あぼき中国ちゅうごく王朝おうちょう制度せいど部分的ぶぶんてきれ、みなみきたことなるほう統治とうちもちいた。みなみ農耕民のうこうみんには漢制かんせいを、きた遊牧民ゆうぼくみんには旧来きゅうらい部族制ぶぞくせいを。これがのちの「南北面官制なんぼくめんかんせい」である。やわらかくもたしかな支配しはい——この制度せいどにより、契丹きったん多民族国家たみんぞくこっかとしての地盤じばんかためていく。


そして阿保機あぼき死後しご、その耶律徳光やりつ・とくこう遺志いしぎ、ついに「りょう」の国号こくごうかかげるにいたった。これこそが、契丹きったんからりょうへの変遷へんせんである。あらたな時代じだい胎動たいどうに、草原そうげん覇者はしゃ華夏かか版図はんとふかくいんでゆく――その前触まえぶれでもあった。


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燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう割譲かつじょう


では、なぜあるじであった石敬瑭せき・けいとうは、そんなりょうひざくっし、土地とち割譲かつじょうしたのか。


……口惜くちおしきことだが、それはわたくしまえきた事実じじつである。後唐こうとうにて節度使せつどしつとめていた石敬瑭せき・けいとうは、宮廷内きゅうていない権力闘争けんりょくとうそうにより冷遇れいぐうされ、みずからの命脈めいみゃくきかけているのをっていた。


そこでかれは、旧知きゅうちであり義兄弟ぎきょうだいちぎりをわしていたりょう皇帝こうてい耶律徳光やりつ・とくこうたすけをうたのだ。りょうこころよくそれににおうじ、精鋭せいえいなる騎兵きへいもっ華北かほくへと侵攻しんこう後唐こうとうほろぼし、わって後晋ご・しん建国けんこくたすけた。


だが、その代償だいしょうはあまりにもおおきかった。石敬瑭せき・けいとうは、燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅうばれる防衛ぼうえい要地ようちを、りょうしてしまったのだ。いまにしておもえば、それは「くに」をゆずるにもひとしい愚挙ぐきょだったかもしれぬ。


だが、そのとき石敬瑭せき・けいとうにとって、国家こっか安危あんきよりもまえいのちさきであった。みずからの安寧あんねい玉座ぎょくざのためには、燕雲えんうん山河さんがすらしまなかったのであろう。その姿すがたて、わたくし心中しんちゅう言葉ことばにできぬおりかんじた。


されど、かれ悪人あくにんかとわれれば、いなもうすしかない。時代じだいかれをそうさせたのだ。乱世らんせとは、ときに最も(もっとも)おろかしき選択せんたくすら正義せいぎとされるである。それをとするかいなとするかは、のちものさばくことであろう。


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馮道ふう・どう信念しんねん


さて、この老骨ろうこつかたつかれた。ふでき、そとかぜおとみみます。


——草原そうげんかぜは、いま北方ほっぽうからいてくる。はる彼方かなた燕雲えんうんより。


燕山えんざんみねには、いまだにりょう騎馬きばかげはしっておるのかもしれぬな。そうおもうとき、わたくしおのれふでが、ただかぜかれる紙片しへんのようにおもえるのだ。


けれども、それでもかねばなるまい。かぜなかに、歴史れきし真実しんじつうならば、それをふでうつすのがわたくしつとめだと、いのしんじているのだから。


——馮道ふう・どうふでむ。

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