〇馮道の独白 ~十六州の夜明け~
後唐の滅亡と馮道の選択
人が国を捨てる時とは、どのような思いが胸にあるのでしょうか。
その日、わたくし馮道は、洛陽の城壁に立ち、遠く北方に沈む赤い夕日を見つめておりました。時は天福元年、すなわち後唐最後の年――西暦九三六年のこと。
石敬瑭が、ついにやったのです。
後唐は、滅びました。
彼が掲げた旗印のもとに、契丹の騎馬が中原に入り、後唐の軍を破り、李従珂陛下は洛陽の北にて、天を仰いで自刃なされた――まこと、天もまた涙したのでありましょう。
その直後、契丹の助力を得て、石敬瑭は「後晋」を建て、皇帝の位に就きました。
五十四歳。かつて明宗の娘婿として洛陽に仕えた男が、自らの手で新たな時代を切り開いたのです。
…ですが、その代償は、あまりに大きうございました。
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燕雲十六州の割譲と民の悲嘆
石敬瑭は、契丹との盟約により「燕雲十六州」――すなわち幽州・薊州・恒州など、河北・山西の戦略要地を北方の異民族に割譲いたしました。
これは単なる土地の移譲ではございません。北方の防衛線そのものを、異国の手に渡したのです。
中華の民の誇りが、踏みにじられました。
都の民衆は、口々(くちぐち)に彼を「売国皇帝」と罵り、石敬瑭の名を聞けば、路傍の犬すら吠えるとまで言われました。
「どんなに帝位が欲しくとも、胡虜の手を借りてはならぬ――」
老臣たちの悲嘆、儒者たちの怒り、軍人たちの困惑。まるで都じゅうに黒雲が垂れ込めたかのようでございました。
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馮道の決断と後晋での政務
では、わたくしはどうしたのか――。
ええ、わたくし馮道は、後晋に仕えました。
この身に恥はなかったかと問われれば、答えに窮することもございます。ですが、あの混乱の只中にあって、朝廷を保ち、民を守り、政を整える者が要ったのです。
石敬瑭は、確かに強引ではありましたが、政を軽んじる人物ではありませんでした。文を尊び、学者を好み、儒者たちにも一定の敬意を払っておりました。
わたくしは、その中にありて、科挙制度の整備や租税の安定を図り、流通を正し、民政を支えようと努めたのでございます。
民が飢えず、戦に巻き込まれず、安寧を得ること。それが、わたくしの務めであると信じておりました。
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歴史の評価と馮道の信念
後世の史書には、わたくしの名を「二主に仕えるを恥じず」と記す者もございます。
けれど、この乱世にあって、一つの主を守り抜くことが果して可能でありましょうか?
志を曲げぬ者は、美しい。だが、曲げてでも守るべきものがあると信じる者もまた、道を違えたとは思わぬのです。
石敬瑭の治世は短くも、一定の安定をもたらしました。そして、燕雲の喪失という汚点と引き換えに、五胡十六国以来の混沌から一歩進んだ秩序が育ちつつあったことも、また事実でございます。
あの夕暮れの城壁から見た光景を、わたくしは今も忘れませぬ。
北方の空に浮かぶ、契丹の軍旗。凍える風に吹かれながら、それでも、洛陽の灯火は一つも消えておりませなんだ。
民は、暮らしを営み、子を産み、老いて、死んでゆく。
わたくしの使命とは、その暮らしを繋ぐことでございます。
――わたくし馮道、この身が果てるまで、政を離れませぬ。
〇馮道の独白 ―石敬瑭という男―
後晋の皇帝、石敬瑭
我が主、石敬瑭――。
この名を耳にすれば、今の世には眉をひそめる者も多いかもしれませぬ。中原を北狄の馬蹄にゆだねた「売国の帝」、あるいは契丹に膝を屈した「偽りの皇帝」と。
しかしながら、わたくし馮道は、この男に帝として仕えたひとりでございますゆえ、あえて申しましょう。石敬瑭は、ただの卑屈な簒奪者などではない。あの乱世において、一歩踏み誤れば民の命が数万と失われる、その渦中にあって、あの人なりの道を貫いたのだと。
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沙陀族の名将
石敬瑭は、後唐の名将にして、異民族・沙陀族の血を引く者でございました。かの李克用の系譜につらなる名家に生まれ、華北の地にあって、幼き頃より馬に跨り、弓を引くことを学び、戦の中で生きる術をその身に刻んでまいりました。
やがて後唐の明宗に見いだされ、河東(かとう。今の山西省北部)の節度使という大任を任されるに至ります。この地こそ、彼の軍の根幹が形作られた場でありました。
河東は険しい山々(やまやま)に囲まれ、厳しい風雪の吹きすさぶ土地にございますが、それゆえに、武を重んじ、鍛えられた兵士を多く輩出する軍事の地でありました。そこに集ったのは、まさに猛虎のごとき将兵たちでございました。
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石敬瑭の精強なる軍
石敬瑭の軍――それは精強なる騎兵を中核とした、実戦を重ねた猛者の集団でございました。
沙陀の出である石敬瑭は、機動力に優れた騎兵戦術に秀で、遊牧系の伝統をふまえた戦い方をよく心得ておりました。馬上より射る弓、疾駆する突撃、そしてその後の素早い転進。兵たちはまさに風のごとく、雷のごとく、戦場を駆け抜けたものでございます。
さらには彼自身、後唐の内乱・外征にあたって幾度も戦陣に立ち、修羅の中で生き残ってきた百戦錬磨の将でございました。ゆえに、彼の軍に集った兵士たちもまた、長年の戦いを潜り抜けてきた、誇り高き歴戦の士ばかりでございました。
そして、彼の軍の特筆すべきは、その多様性にございます。
漢人、沙陀族、突厥系、回鶻系――さまざまな出自を持つ者たちがともに戦旗を掲げ、陣列を成しておりました。ときに言葉は通じずとも、戦場の心得においては一致していたのです。
それぞれの民族が持つ特性――漢人の陣形、沙陀族の突撃、契丹の遊撃戦術。それらを融合し、石敬瑭は、ただ一人、諸民族の力を一つ(ひとつ)にまと(め)上げる稀代の指導者として君臨したのでございます。
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後唐の滅亡と後晋の建国
その極致が、契丹と結んでの「後唐討伐」でございました。
天福元年(九三六年)、石敬瑭は義父である後唐皇帝・李嗣源の子、李従珂と対立し、遂には契丹の太宗・耶律徳光に援軍を乞いました。契丹騎兵の洪水のごとき進軍が中原を襲い、洛陽を包囲、李従珂は炎に包まれた玄武門にて自ら命を絶ったと申します。
石敬瑭はその後、「後晋」を興し、皇帝として即位いたしました。
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燕雲十六州の割譲と馮道の信念
しかし、この代償はあまりにも大きうございました。
石敬瑭は契丹との約束のもと、「燕雲十六州」――すなわち、幽州・薊州・恒州など、長城以南の軍事要衝を契丹に割譲したのでございます。
このことが、中原の士大夫や民衆から激しい怒りを買いました。「国土を敵に売った」「異民族に跪いた」と。都では石敬瑭をなじる詩が出回り、彼の即位を祝う声はかき消されてしまったほどでございます。
けれども、どうかご理解いただきとうございます。
あのとき、石敬瑭が立たねば、中原はもっと長く血に塗れ、飢えと混乱に苦しみ続けていたのです。
異民族との協調か、内戦の継続か――彼が選んだのは、命を繋ぐ道でございました。
わたくし馮道は、その後も後晋の宰相として仕え、文治の整備に努めてまいりました。
どれほど主が変われど、政を安んじ、民を守ることこそ、我が志にございます。
石敬瑭は、常に政務を怠らず、言を受け、意見を取り入れる器量を持っておられました。粗野な沙陀の将と(思う)なかれ、漢族の礼を学び、儒を敬い、文に通じた賢帝でございました。
たとえ後世に罵られようとも――わたくしは、あの方に仕えたことを、悔いてはおりませぬ。
歴史とは、時にあまりにも非情でございます。されど、あの冬の河東で、馬上に立つ石敬瑭の背に、わたくしは確かにこの国の未来を見たのです。
〇【風が鳴く時、北地を思う——馮道独語】
契丹と遼:異民族王朝の勃興
……夜半の静寂に、かすかな風のうねりがある。帳の奥に灯す燈火がゆれ、筆先が紙の上を走るたび、かすれた音が私の耳を撫でる。こうして己が半生を振り返るのも、老いが深まった証かもしれぬな。
私は馮道、かつて唐末の乱世を生き抜き、幾たびも王朝の盛衰を見届けてきた。唐の滅びより五代に渡り、十の国が割拠するその渦中に、私は臣として、また時に筆誅をもって生きた。
この老いた私の語りが、いずれ誰かの慰めとなるならば、契丹という名の国について、少し語ってみるとしようか。
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契丹の興隆
契丹は、我が華夏の北方にて長らく遊牧生活を営んでいた民族であった。その始祖は八部と呼ばれる部族連合から起こり、草原にて馬と共に生き、弓矢にて狼を狩り、人の世の争いもまた遊戯とする者たちであった。
その契丹が「国」として名を持ったのは、太祖・耶律阿保機の登場に始まる。時に唐の天祐元年、西暦で申せば九〇七年——まさに唐が滅び、華北が戦火に包まれたあの年である。
耶律阿保機は、ただの部族長にあらず。彼は見識の高い戦略家であり、諸部族を巧に統合し、新たに「契丹国」を興した。彼の治める政は、草原の風のようにしなやかに、時に雷のように苛烈であった。重なる戦功によって周辺の部族を次々と服属させ、遼河から大興安嶺に至る広大な地を掌中に収めたのである。
その勢いを借りて、耶律阿保機は中国の王朝制度を部分的に取り入れ、南と北で異なる法と統治を用いた。南の農耕民には漢制を、北の遊牧民には旧来の部族制を。これが後の「南北面官制」である。柔らかくも確かな支配——この制度により、契丹は多民族国家としての地盤を固めていく。
そして阿保機の死後、その子・耶律徳光が遺志を継ぎ、ついに「遼」の国号を掲げるに至った。これこそが、契丹から遼への変遷である。新たな時代の胎動に、草原の覇者が華夏の版図に深く食込んでゆく――その前触れでもあった。
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燕雲十六州の割譲
では、なぜ我が主であった石敬瑭は、そんな遼に膝を屈し、土地を割譲したのか。
……口惜しきことだが、それは私の目の前で起きた事実である。後唐にて節度使を務めていた石敬瑭は、宮廷内の権力闘争により冷遇され、自らの命脈が尽きかけているのを知っていた。
そこで彼は、旧知であり義兄弟の契りを交わしていた遼の皇帝・耶律徳光に助けを請うたのだ。遼は快くそれにに応じ、精鋭なる騎兵を以て華北へと侵攻。後唐を滅ぼし、代わって後晋の建国を助けた。
だが、その代償はあまりにも大きかった。石敬瑭は、燕雲十六州と呼ばれる防衛の要地を、遼に差し出してしまったのだ。今にして思えば、それは「国」を譲るにも等しい愚挙だったかもしれぬ。
だが、その時の石敬瑭にとって、国家の安危よりも目の前の命が先であった。自らの安寧と玉座のためには、燕雲の山河すら惜しまなかったのであろう。その姿を見て、私は心中に言葉にできぬ澱を感じた。
されど、彼が悪人かと問われれば、否と申すしかない。時代が彼をそうさせたのだ。乱世とは、時に最も(もっとも)愚かしき選択すら正義とされる場である。それを是とするか否とするかは、後の者が裁くことであろう。
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馮道の信念
さて、この老骨も語り疲れた。筆を置き、外の風の音に耳を澄ます。
——草原の風は、今も北方から吹いてくる。遥か彼方、燕雲の地より。
燕山の峰には、未だに遼の騎馬の影が走っておるのかもしれぬな。そう思うとき、私は己の筆が、ただ風に吹かれる紙片のように思えるのだ。
けれども、それでも書かねばなるまい。風の中に、歴史の真実が舞うならば、それを筆に移すのが私の務めだと、老いの身は信じているのだから。
——馮道、筆を止む。