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変節の宰相:馮道:5章:石敬瑭時代①

〇馮道の独白 ~十六州の夜明け~


後唐(こうとう)の滅亡(めつぼう)と馮道(ふう・どう)の選択(せんたく)


人(ひと)が国(くに)を捨(す)てる時(とき)とは、どのような思(おも)いが胸(むね)にあるのでしょうか。


その日(ひ)、わたくし馮道(ふう・どう)は、洛陽(らくよう)の城壁(じょうへき)に立(た)ち、遠(とお)く北方(ほっぽう)に沈(しず)む赤(あか)い夕日(ゆうひ)を見(み)つめておりました。時(とき)は天福(てんぷく)元年(がんねん)、すなわち後唐(こうとう)最後(さいご)の年(とし)――西暦(せいれき)九三六年(きゅうひゃくさんじゅうろくねん)のこと。


石敬瑭(せき・けいとう)が、ついにやったのです。


後唐(こうとう)は、滅(ほろ)びました。


彼(かれ)が掲(かか)げた旗印(はたじるし)のもとに、契丹(きったん)の騎馬(きば)が中原(ちゅうげん)に入(はい)り、後唐(こうとう)の軍(ぐん)を破(やぶ)り、李従珂(り・じゅうか)陛下(へいか)は洛陽(らくよう)の北(きた)にて、天(てん)を仰(あお)いで自刃(じじん)なされた――まこと、天(てん)もまた涙(なみだ)したのでありましょう。


その直後(ちょくご)、契丹(きったん)の助力(じょりょく)を得(え)て、石敬瑭(せき・けいとう)は「後晋(ご・しん)」を建(た)て、皇帝(こうてい)の位(くらい)に就(つ)きました。


五十四歳(ごじゅうよんさい)。かつて明宗(めいそう)の娘婿(むすめむこ)として洛陽(らくよう)に仕(つか)えた男(おとこ)が、自(みずか)らの手(て)で新(あら)たな時代(じだい)を切(き)り開(ひら)いたのです。


…ですが、その代償(だいしょう)は、あまりに大(おお)きうございました。


________________________________


燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)の割譲(かつじょう)と民(たみ)の悲嘆(ひたん)


石敬瑭(せき・けいとう)は、契丹(きったん)との盟約(めいやく)により「燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)」――すなわち幽州(ゆうしゅう)・薊州(けいしゅう)・恒州(こうしゅう)など、河北(かほく)・山西(さんせい)の戦略要地(せんりゃくようち)を北方(ほっぽう)の異民族(いみんぞく)に割譲(かつじょう)いたしました。


これは単(たん)なる土地(とち)の移譲(いじょう)ではございません。北方(ほっぽう)の防衛線(ぼうえいせん)そのものを、異国(いこく)の手(て)に渡(わた)したのです。


中華(ちゅうか)の民(たみ)の誇(ほこ)りが、踏(ふ)みにじられました。


都(みやこ)の民衆(みんしゅう)は、口々(くちぐち)に彼(かれ)を「売国皇帝(ばいこくこうてい)」と罵(ののし)り、石敬瑭(せき・けいとう)の名(な)を聞(き)けば、路傍(ろぼう)の犬(いぬ)すら吠(ほ)えるとまで言(い)われました。


「どんなに帝位(ていい)が欲(ほ)しくとも、胡虜(こりょ)の手(て)を借(か)りてはならぬ――」


老臣(ろうしん)たちの悲嘆(ひたん)、儒者(じゅしゃ)たちの怒(いか)り、軍人(ぐんじん)たちの困惑(こんわく)。まるで都(みやこ)じゅうに黒雲(くろくも)が垂(た)れ込(こ)めたかのようでございました。


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馮道(ふう・どう)の決断(けつだん)と後晋(こう・しん)での政務(せいむ)


では、わたくしはどうしたのか――。


ええ、わたくし馮道(ふう・どう)は、後晋(こう・しん)に仕(つか)えました。


この身(み)に恥(はじ)はなかったかと問(と)われれば、答(こた)えに窮(きゅう)することもございます。ですが、あの混乱(こんらん)の只中(ただなか)にあって、朝廷(ちょうてい)を保(たも)ち、民(たみ)を守(まも)り、政(まつりごと)を整(ととの)える者(もの)が要(い)ったのです。


石敬瑭(せき・けいとう)は、確(たし)かに強引(ごういん)ではありましたが、政(まつりごと)を軽(かる)んじる人物(じんぶつ)ではありませんでした。文(ぶん)を尊(とうと)び、学者(がくしゃ)を好(この)み、儒者(じゅしゃ)たちにも一定(いってい)の敬意(けいい)を払(はら)っておりました。


わたくしは、その中(なか)にありて、科挙(かきょ)制度(せいど)の整備(せいび)や租税(そぜい)の安定(あんてい)を図(はか)り、流通(りゅうつう)を正(ただ)し、民政(みんせい)を支(ささ)えようと努(つと)めたのでございます。


民(たみ)が飢(う)えず、戦(いくさ)に巻(ま)き込(こ)まれず、安寧(あんねい)を得(え)ること。それが、わたくしの務(つと)めであると信(しん)じておりました。


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歴史(れきし)の評価(ひょうか)と馮道(ふう・どう)の信念(しんねん)


後世(こうせい)の史書(ししょ)には、わたくしの名(な)を「二主(にしゅ)に仕(つか)えるを恥(は)じず」と記(しる)す者(もの)もございます。


けれど、この乱世(らんせ)にあって、一(ひと)つの主(あるじ)を守(まも)り抜(ぬ)くことが果(はた)して可能(かのう)でありましょうか?


志(こころざし)を曲(ま)げぬ者(もの)は、美(うつく)しい。だが、曲(ま)げてでも守(まも)るべきものがあると信(しん)じる者(もの)もまた、道(みち)を違(たが)えたとは思(おも)わぬのです。


石敬瑭(せき・けいとう)の治世(ちせい)は短(みじか)くも、一定(いってい)の安定(あんてい)をもたらしました。そして、燕雲(えんうん)の喪失(そうしつ)という汚点(おてん)と引(ひ)き換(か)えに、五胡十六国(ごこじゅうろくこく)以来(いらい)の混沌(こんとん)から一歩(いっぽ)進(すす)んだ秩序(ちつじょ)が育(そだ)ちつつあったことも、また事実(じじつ)でございます。


あの夕暮(ゆうぐ)れの城壁(じょうへき)から見(み)た光景(こうけい)を、わたくしは今(いま)も忘(わす)れませぬ。


北方(ほっぽう)の空(そら)に浮(う)かぶ、契丹(きったん)の軍旗(ぐんき)。凍(こご)える風(かぜ)に吹(ふ)かれながら、それでも、洛陽(らくよう)の灯火(とうか)は一(ひと)つも消(き)えておりませなんだ。


民(たみ)は、暮(く)らしを営(いとな)み、子(こ)を産(う)み、老(お)いて、死(し)んでゆく。


わたくしの使命(しめい)とは、その暮(く)らしを繋(つな)ぐことでございます。


――わたくし馮道(ふう・どう)、この身(み)が果(は)てるまで、政(まつりごと)を離(はな)れませぬ。




〇馮道の独白 ―石敬瑭という男―


後晋(こう・しん)の皇帝(こうてい)、石敬瑭(せき・けいとう)


我(わ)が主(あるじ)、石敬瑭(せき・けいとう)――。


この名(な)を耳(みみ)にすれば、今(いま)の世(よ)には眉(まゆ)をひそめる者(もの)も多(おお)いかもしれませぬ。中原(ちゅうげん)を北狄(ほくてき)の馬蹄(ばてい)にゆだねた「売国(ばいこく)の帝(みかど)」、あるいは契丹(きったん)に膝(ひざ)を屈(くっ)した「偽(いつわ)りの皇帝(こうてい)」と。


しかしながら、わたくし馮道(ふう・どう)は、この男(おとこ)に帝(みかど)として仕(つか)えたひとりでございますゆえ、あえて申(もう)しましょう。石敬瑭(せき・けいとう)は、ただの卑屈(ひくつ)な簒奪者(さんだつしゃ)などではない。あの乱世(らんせ)において、一歩(いっぽ)踏(ふ)み誤(あやま)れば民(たみ)の命(いのち)が数万(すうまん)と失(うしな)われる、その渦中(かちゅう)にあって、あの人(ひと)なりの道(みち)を貫(つらぬ)いたのだと。


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沙陀族(さだぞく)の名将(めいしょう)


石敬瑭(せき・けいとう)は、後唐(こうとう)の名将(めいしょう)にして、異民族(いみんぞく)・沙陀(さだ)族(ぞく)の血(ち)を引(ひ)く者(もの)でございました。かの李克用(り・こくよう)の系譜(けいふ)につらなる名家(めいか)に生(う)まれ、華北(かほく)の地(ち)にあって、幼(おさな)き頃(ころ)より馬(うま)に跨(またが)り、弓(ゆみ)を引(ひ)くことを学(まな)び、戦(いくさ)の中(なか)で生(い)きる術(すべ)をその身(み)に刻(きざ)んでまいりました。


やがて後唐(こうとう)の明宗(めいそう)に見(み)いだされ、河東(かとう。今(いま)の山西省(さんせいしょう)北部(ほくぶ))の節度使(せつどし)という大任(たいにん)を任(まか)されるに至(いた)ります。この地(ち)こそ、彼(かれ)の軍(ぐん)の根幹(こんかん)が形作(かたちづく)られた場(ば)でありました。


河東(かとう)は険(けわ)しい山々(やまやま)に囲(かこ)まれ、厳(きび)しい風雪(ふうせつ)の吹(ふ)きすさぶ土地(とち)にございますが、それゆえに、武(ぶ)を重(おも)んじ、鍛(きた)えられた兵士(へいし)を多(おお)く輩出(はいしゅつ)する軍事(ぐんじ)の地(ち)でありました。そこに集(つど)ったのは、まさに猛虎(もうこ)のごとき将兵(しょうへい)たちでございました。


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石敬瑭(せき・けいとう)の精強(せいごう)なる軍(ぐん)


石敬瑭(せき・けいとう)の軍(ぐん)――それは精強(せいごう)なる騎兵(きへい)を中核(ちゅうかく)とした、実戦(じっせん)を重(かさ)ねた猛者(もさ)の集団(しゅうだん)でございました。


沙陀(さだ)の出(で)である石敬瑭(せき・けいとう)は、機動力(きどうりょく)に優(すぐ)れた騎兵(きへい)戦術(せんじゅつ)に秀(ひい)で、遊牧系(ゆうぼくけい)の伝統(でんとう)をふまえた戦(たたか)い方(かた)をよく心得(こころえ)ておりました。馬上(ばじょう)より射(い)る弓(ゆみ)、疾駆(しっく)する突撃(とつげき)、そしてその後の素早(すばや)い転進(てんしん)。兵(へい)たちはまさに風(かぜ)のごとく、雷(かみなり)のごとく、戦場(せんじょう)を駆(か)け抜(ぬ)けたものでございます。


さらには彼(かれ)自身(じしん)、後唐(こうとう)の内乱(ないらん)・外征(がいせい)にあたって幾度(いくど)も戦陣(せんじん)に立(た)ち、修羅(しゅら)の中(なか)で生(い)き残(のこ)ってきた百戦錬磨(ひゃくせんれんま)の将(しょう)でございました。ゆえに、彼(かれ)の軍(ぐん)に集(つど)った兵士(へいし)たちもまた、長年(ながねん)の戦(たたか)いを潜(くぐ)り抜(ぬ)けてきた、誇(ほこ)り高(たか)き歴戦(れきせん)の士(し)ばかりでございました。


そして、彼(かれ)の軍(ぐん)の特筆(とくひつ)すべきは、その多様性(たようせい)にございます。


漢人(かんじん)、沙陀族(さだぞく)、突厥(とっけつ)系(けい)、回鶻(かいこつ)系(けい)――さまざまな出自(しゅつじ)を持(も)つ者(もの)たちがともに戦旗(せんき)を掲(かか)げ、陣列(じんれつ)を成(な)しておりました。ときに言葉(ことば)は通(つう)じずとも、戦場(せんじょう)の心得(こころえ)においては一致(いっち)していたのです。


それぞれの民族(みんぞく)が持(も)つ特性(とくせい)――漢人(かんじん)の陣形(じんけい)、沙陀族(さだぞく)の突撃(とつげき)、契丹(きったん)の遊撃(ゆうげき)戦術(せんじゅつ)。それらを融合(ゆうごう)し、石敬瑭(せき・けいとう)は、ただ一人(ひとり)、諸民族(しょみんぞく)の力(ちから)を一つ(ひとつ)にまと(め)上(あ)げる稀代(きだい)の指導者(しどうしゃ)として君臨(くんりん)したのでございます。


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後唐(こうとう)の滅亡(めつぼう)と後晋(ご・しん)の建国(けんこく)


その極致(きょくち)が、契丹(きったん)と結(むす)んでの「後唐(こうとう)討伐(とうばつ)」でございました。


天福(てんぷく)元年(がんねん)(九三六年(きゅうひゃくさんじゅうろくねん))、石敬瑭(せき・けいとう)は義父(ぎふ)である後唐(こうとう)皇帝(こうてい)・李嗣源(り・しげん)の子(こ)、李従珂(り・じゅうか)と対立(たいりつ)し、遂(つい)には契丹(きったん)の太宗(たいそう)・耶律徳光(やりつ・とくこう)に援軍(えんぐん)を乞(こ)いました。契丹(きったん)騎兵(きへい)の洪水(こうずい)のごとき進軍(しんぐん)が中原(ちゅうげん)を襲(おそ)い、洛陽(らくよう)を包囲(ほうい)、李従珂(り・じゅうか)は炎(ほのお)に包(つつ)まれた玄武門(げんぶもん)にて自(みずか)ら命(いのち)を絶(た)ったと申(もう)します。


石敬瑭(せき・けいとう)はその後(ご)、「後晋(こう・しん)」を興(おこ)し、皇帝(こうてい)として即位(そくい)いたしました。


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燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)の割譲(かつじょう)と馮道(ふう・どう)の信念(しんねん)


しかし、この代償(だいしょう)はあまりにも大(おお)きうございました。


石敬瑭(せき・けいとう)は契丹(きったん)との約束(やくそく)のもと、「燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)」――すなわち、幽州(ゆうしゅう)・薊州(けいしゅう)・恒州(こうしゅう)など、長城(ちょうじょう)以南(いなん)の軍事(ぐんじ)要衝(ようしょう)を契丹(きったん)に割譲(かつじょう)したのでございます。


このことが、中原(ちゅうげん)の士大夫(したいふ)や民衆(みんしゅう)から激(はげ)しい怒(いか)りを買(か)いました。「国土(こくど)を敵(てき)に売(う)った」「異民族(いみんぞく)に跪(ひざまず)いた」と。都(みやこ)では石敬瑭(せき・けいとう)をなじる詩(し)が出回(でまわ)り、彼(かれ)の即位(そくい)を祝(いわ)う声(こえ)はかき消(け)されてしまったほどでございます。


けれども、どうかご理解(りかい)いただきとうございます。


あのとき、石敬瑭(せき・けいとう)が立(た)たねば、中原(ちゅうげん)はもっと長(なが)く血(ち)に塗(まみ)れ、飢(う)えと混乱(こんらん)に苦(くる)しみ続(つづ)けていたのです。


異民族(いみんぞく)との協調(きょうちょう)か、内戦(ないせん)の継続(けいぞく)か――彼(かれ)が選(えら)んだのは、命(いのち)を繋(つな)ぐ道(みち)でございました。


わたくし馮道(ふう・どう)は、その後(ご)も後晋(ご・しん)の宰相(さいしょう)として仕(つか)え、文治(ぶんち)の整備(せいび)に努(つと)めてまいりました。


どれほど主(あるじ)が変(か)われど、政(まつりごと)を安(やす)んじ、民(たみ)を守(まも)ることこそ、我(わ)が志(こころざし)にございます。


石敬瑭(せき・けいとう)は、常(つね)に政務(せいむ)を怠(おこた)らず、言(ことば)を受(う)け、意見(いけん)を取(と)り入(い)れる器量(きりょう)を持(も)っておられました。粗野(そや)な沙陀(さだ)の将(しょう)と(思う)なかれ、漢族(かんぞく)の礼(れい)を学(まな)び、儒(じゅ)を敬(うやま)い、文(ぶん)に通(つう)じた賢帝(けんてい)でございました。


たとえ後世(こうせい)に罵(ののし)られようとも――わたくしは、あの方(かた)に仕(つか)えたことを、悔(く)いてはおりませぬ。


歴史(れきし)とは、時(とき)にあまりにも非情(ひじょう)でございます。されど、あの冬(ふゆ)の河東(かとう)で、馬上(ばじょう)に立(た)つ石敬瑭(せき・けいとう)の背(せ)に、わたくしは確(たし)かにこの国(くに)の未来(みらい)を見(み)たのです。




〇【風が鳴く時、北地を思う——馮道独語】


契丹(きったん)と遼(りょう):異民族(いみんぞく)王朝(おうちょう)の勃興(ぼっこう)


……夜半(やはん)の静寂(しじま)に、かすかな風(かぜ)のうねりがある。帳(とばり)の奥(おく)に灯(とも)す燈火(とうか)がゆれ、筆先(ふでさき)が紙(かみ)の上(うえ)を走(はし)るたび、かすれた音(おと)が私(わたくし)の耳(みみ)を撫(な)でる。こうして己(おのれ)が半生(はんせい)を振(ふ)り返(かえ)るのも、老(お)いが深(ふか)まった証(あかし)かもしれぬな。


私(わたくし)は馮道(ふう・どう)、かつて唐末(とうまつ)の乱世(らんせ)を生(い)き抜(ぬ)き、幾(いく)たびも王朝(おうちょう)の盛衰(せいすい)を見届(みとど)けてきた。唐(とう)の滅(ほろ)びより五代(ごだい)に渡(わた)り、十(じゅう)の国(くに)が割拠(かっきょ)するその渦中(かちゅう)に、私(わたくし)は臣(しん)として、また時(とき)に筆誅(ひっちゅう)をもって生(い)きた。


この老(お)いた私(わたくし)の語(かた)りが、いずれ誰(だれ)かの慰(なぐさ)めとなるならば、契丹(きったん)という名(な)の国(くに)について、少(すこ)し語(かた)ってみるとしようか。


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契丹(きったん)の興隆(こうりゅう)


契丹(きったん)は、我(わ)が華夏(かか)の北方(ほっぽう)にて長(なが)らく遊牧生活(ゆうぼくせいかつ)を営(いとな)んでいた民族(みんぞく)であった。その始祖(しそ)は八部(はちぶ)と呼(よ)ばれる部族連合(ぶぞくれんごう)から起(お)こり、草原(そうげん)にて馬(うま)と共(とも)に生(い)き、弓矢(ゆみや)にて狼(おおかみ)を狩(か)り、人(ひと)の世(よ)の争(あらそ)いもまた遊戯(ゆげ)とする者(もの)たちであった。


その契丹(きったん)が「国(くに)」として名(な)を持(も)ったのは、太祖(たいそ)・耶律阿保機(やりつ・あぼき)の登場(とうじょう)に始(はじ)まる。時(とき)に唐(とう)の天祐(てんゆう)元年(がんねん)、西暦(せいれき)で申(もう)せば九〇七年(きゅうひゃくななねん)——まさに唐(とう)が滅(ほろ)び、華北(かほく)が戦火(せんか)に包(つつ)まれたあの年(とし)である。


耶律阿保機(やりつ・あぼき)は、ただの部族長(ぶぞくちょう)にあらず。彼(かれ)は見識(けんしき)の高(たか)い戦略家(せんりゃくか)であり、諸部族(しょぶぞく)を巧(たくみ)に統合(とうごう)し、新(あら)たに「契丹国(きったんこく)」を興(おこ)した。彼(かれ)の治(おさ)める政(まつりごと)は、草原(そうげん)の風(かぜ)のようにしなやかに、時(とき)に雷(かみなり)のように苛烈(かれつ)であった。重(かさ)なる戦功(せんこう)によって周辺(しゅうへん)の部族(ぶぞく)を次々と服属(ふくぞく)させ、遼河(りょうが)から大興安嶺(だいこうあんれい)に至(いた)る広大(こうだい)な地(ち)を掌中(しょうちゅう)に収(おさ)めたのである。


その勢(いきお)いを借(か)りて、耶律阿保機(やりつ・あぼき)は中国(ちゅうごく)の王朝(おうちょう)制度(せいど)を部分的(ぶぶんてき)に取(と)り入(い)れ、南(みなみ)と北(きた)で異(こと)なる法(ほう)と統治(とうち)を用(もち)いた。南(みなみ)の農耕民(のうこうみん)には漢制(かんせい)を、北(きた)の遊牧民(ゆうぼくみん)には旧来(きゅうらい)の部族制(ぶぞくせい)を。これが後(のち)の「南北面官制(なんぼくめんかんせい)」である。柔(やわ)らかくも確(たし)かな支配(しはい)——この制度(せいど)により、契丹(きったん)は多民族国家(たみんぞくこっか)としての地盤(じばん)を固(かた)めていく。


そして阿保機(あぼき)の死後(しご)、その子(こ)・耶律徳光(やりつ・とくこう)が遺志(いし)を継(つ)ぎ、ついに「遼(りょう)」の国号(こくごう)を掲(かか)げるに至(いた)った。これこそが、契丹(きったん)から遼(りょう)への変遷(へんせん)である。新(あら)たな時代(じだい)の胎動(たいどう)に、草原(そうげん)の覇者(はしゃ)が華夏(かか)の版図(はんと)に深(ふか)く食(くい)込(こ)んでゆく――その前触(まえぶ)れでもあった。


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燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)の割譲(かつじょう)


では、なぜ我(わ)が主(あるじ)であった石敬瑭(せき・けいとう)は、そんな遼(りょう)に膝(ひざ)を屈(くっ)し、土地(とち)を割譲(かつじょう)したのか。


……口惜(くちお)しきことだが、それは私(わたくし)の目(め)の前(まえ)で起(お)きた事実(じじつ)である。後唐(こうとう)にて節度使(せつどし)を務(つと)めていた石敬瑭(せき・けいとう)は、宮廷内(きゅうていない)の権力闘争(けんりょくとうそう)により冷遇(れいぐう)され、自(みずか)らの命脈(めいみゃく)が尽(つ)きかけているのを知(し)っていた。


そこで彼(かれ)は、旧知(きゅうち)であり義兄弟(ぎきょうだい)の契(ちぎ)りを交(か)わしていた遼(りょう)の皇帝(こうてい)・耶律徳光(やりつ・とくこう)に助(たす)けを請(こ)うたのだ。遼(りょう)は快(こころよ)くそれにに応(おう)じ、精鋭(せいえい)なる騎兵(きへい)を以(もっ)て華北(かほく)へと侵攻(しんこう)。後唐(こうとう)を滅(ほろ)ぼし、代(か)わって後晋(ご・しん)の建国(けんこく)を助(たす)けた。


だが、その代償(だいしょう)はあまりにも大(おお)きかった。石敬瑭(せき・けいとう)は、燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)と呼(よ)ばれる防衛(ぼうえい)の要地(ようち)を、遼(りょう)に差(さ)し出(だ)してしまったのだ。今(いま)にして思(おも)えば、それは「国(くに)」を譲(ゆず)るにも等(ひと)しい愚挙(ぐきょ)だったかもしれぬ。


だが、その時(とき)の石敬瑭(せき・けいとう)にとって、国家(こっか)の安危(あんき)よりも目(め)の前(まえ)の命(いのち)が先(さき)であった。自(みずか)らの安寧(あんねい)と玉座(ぎょくざ)のためには、燕雲(えんうん)の山河(さんが)すら惜(お)しまなかったのであろう。その姿(すがた)を見(み)て、私(わたくし)は心中(しんちゅう)に言葉(ことば)にできぬ澱(おり)を感(かん)じた。


されど、彼(かれ)が悪人(あくにん)かと問(と)われれば、否(いな)と申(もう)すしかない。時代(じだい)が彼(かれ)をそうさせたのだ。乱世(らんせ)とは、時(とき)に最も(もっとも)愚(おろ)かしき選択(せんたく)すら正義(せいぎ)とされる場(ば)である。それを是(ぜ)とするか否(いな)とするかは、後(のち)の者(もの)が裁(さば)くことであろう。


________________________________


馮道(ふう・どう)の信念(しんねん)


さて、この老骨(ろうこつ)も語(かた)り疲(つか)れた。筆(ふで)を置(お)き、外(そと)の風(かぜ)の音(おと)に耳(みみ)を澄(す)ます。


——草原(そうげん)の風(かぜ)は、今(いま)も北方(ほっぽう)から吹(ふ)いてくる。遥(はる)か彼方(かなた)、燕雲(えんうん)の地(ち)より。


燕山(えんざん)の峰(みね)には、未(いま)だに遼(りょう)の騎馬(きば)の影(かげ)が走(はし)っておるのかもしれぬな。そう思(おも)うとき、私(わたくし)は己(おのれ)の筆(ふで)が、ただ風(かぜ)に吹(ふ)かれる紙片(しへん)のように思(おも)えるのだ。


けれども、それでも書(か)かねばなるまい。風(かぜ)の中(なか)に、歴史(れきし)の真実(しんじつ)が舞(ま)うならば、それを筆(ふで)に移(うつ)すのが私(わたくし)の務(つと)めだと、老(お)いの身(み)は信(しん)じているのだから。


——馮道(ふう・どう)、筆(ふで)を止(や)む。

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