第九章 嘘がつけない外交会談
セルディア共和国は、ヴァルハイト帝国の南西に位置する海洋国家である。
温暖な気候と複数の良港を持ち、香辛料、果実、染料などを周辺国へ輸出していた。
一方、鉱石と木材の多くを国外へ依存している。
なかでもヴァルハイト帝国との交易は、共和国の産業にとって欠かせないものだった。
にもかかわらず、共和国は帝国へ大幅な関税引き下げを要求している。
要求が認められなければ、昨年発見された新航路を利用し、東方諸国との交易へ切り替えるという。
帝国側の商人たちは、共和国の離反を恐れていた。
交渉が決裂すれば、南方の港を失う。
帝国製品の輸出量が減少し、複数の工房が打撃を受ける可能性もあった。
もっとも、共和国側の主張には不自然な点がある。
新航路が本当に安定しているのなら、なぜ帝国へ執拗な値下げを求めるのか。
帝国との交易を打ち切れるのであれば、交渉の席へ着く必要すらないはずである。
レティシアは外務省から提供された資料を、研究室の机いっぱいに広げていた。
海図。
気候記録。
各港の入出港記録。
共和国議会の公開資料。
東方諸国の市場価格。
造船所の稼働状況。
それらを一枚ずつ確認し、関連する情報へ色つきの糸を結ぶ。
「見つかりましたか?」
ルークが尋ねた。
彼は机の向かいに座り、共和国側の関税制度を調べている。
交渉開始まで、あと一日。
皇太子と特別顧問が同じ部屋で資料へ向かい、必要な情報を互いに渡す。
二人の作業には、長年組んできたかのような自然さがあった。
「新航路そのものは実在します」
レティシアは北方海域の海図を指した。
「ただし、年間を通して利用できる航路ではございません」
「冬季の凍結か」
「ええ」
「共和国側は、大型砕氷船を導入したと発表している」
「その船が問題です」
レティシアは造船所の記録を差し出す。
「予定されていた三隻のうち、完成したのは一隻のみ」
「しかも進水式の二日後、推進機関の不具合で港へ戻っております」
ルークが記録へ目を走らせた。
「残る二隻の完成予定は、来年以降か」
「公表されている予定では」
「実際には?」
「主要部品を製造していた工房が、先月倒産しております」
ルークの金色の瞳へ、鋭い光が宿る。
「新しい発注先も決まっていない」
「少なくとも、公開資料にはございません」
「つまり、新航路を継続的に使用できない」
「可能性は高いかと」
『共和国側のブラフである確率、七十八パーセントです』
セネカが分析した。
『虚勢を張っての大幅値下げ要求!』
ジョンの声が研究室へ響く。
『しかし、帝国側は相手の手札を着々と読み解いています!』
「双響鏡の使用を、相手側が認めるでしょうか」
レティシアは銀球を見る。
「難しいだろう」
ルークが答えた。
「こちらの発言も分析されるとはいえ、彼らにとって不利益が大きい」
「無理に使用すれば、交渉そのものを拒否する口実を与えます」
「使わないのか?」
「限定的に使用いたします」
レティシアは双響鏡の外殻へ指を触れた。
「発言者の心理分析と虚偽率表示を停止」
「公開資料及び双方が提出した公文書の照合に限定します」
「相手の内心ではなく、用意した根拠を検証するわけだな」
「ええ」
「それで十分か?」
レティシアは微笑んだ。
「嘘を直接見破る必要はございません」
「嘘を支えられない事実を並べればよいのです」
ルークは数秒、彼女を見つめた。
それから手帳へ手を伸ばしかけ、途中で止める。
「感想を述べても?」
「会談前ですので、簡潔にお願いいたします」
「素晴らしい」
「本当に簡潔ですこと」
『皇太子殿下、許可制を遵守しています』
『健全な改善です!』
ルークは満足そうに資料へ戻った。
翌日、帝国外務省の大会議室で交渉が始まった。
共和国代表団を率いるのは、オルフェン外務代表である。
五十代半ばの痩身の男で、柔らかな物腰の奥に抜け目のなさを隠していた。
彼は会議室へ入ると、最初に双響鏡を見た。
「例の魔道具ですな」
「はい」
レティシアは礼をする。
「双方の発言を記録し、公開資料との照合を行うため、使用を提案いたします」
「嘘を暴く道具だと聞いております」
オルフェンの口元には笑みがある。
だが目は笑っていない。
「共和国代表団の心を、勝手に読み取られては困りますな」
「心理分析機能は停止いたします」
「証明できますか?」
「設定内容を、貴国の魔道技師に確認していただいて構いません」
レティシアは双響鏡の機能一覧を提示する。
共和国の技師が進み出て、内部回路を調べた。
完全な解析は不可能でも、心理分析と魔力変動の読み取りが停止されていることは確認できる。
技師が頷くと、オルフェンは椅子へ腰を下ろした。
「よろしいでしょう」
「公文書の照合のみなら、拒む理由はありません」
『相互合意を確認しました』
セネカの声が響く。
ジョンも話し始めようとしたが、レティシアが指先で出力を下げた。
外交会談に実況は不要である。
少なくとも、開始直後は。
「では、帝国側から現在の条件をご説明します」
ルークが口を開いた。
帝国の提案は、共和国産の香辛料にかかる関税を三パーセント引き下げる代わりに、帝国製の農業魔道具へ同等の優遇措置を求めるものだった。
互いの輸出品を増やす、均衡の取れた案である。
オルフェンは資料を確認し、ゆっくり首を横へ振った。
「不十分ですな」
「我が国は、香辛料と果実にかかる関税を、最低でも十パーセント引き下げるよう求めます」
「十パーセントでは、帝国側の生産者が影響を受ける」
「帝国が拒否なさるなら、我々は新航路を利用するだけです」
オルフェンは余裕を見せるように椅子へ背を預けた。
「すでに東方諸国とは、具体的な協議へ入っております」
「帝国との交易が終わっても、共和国は何一つ困りません」
ルークは反論しなかった。
代わりに、レティシアへ視線を向ける。
彼女は卓上の資料を一枚取り上げた。
「確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「新航路とは、北方海を通り、アレイナ諸島を経由する航路でございますね?」
「その通りです」
「年間を通して利用できる、と?」
「無論です」
「では、こちらの資料をご覧くださいませ」
双響鏡が海図を投影する。
『北方海の過去三十年間における結氷状況を表示します』
セネカの声とともに、海域が月ごとに色分けされた。
冬季の大部分が、航行困難を示す白へ染まっている。
オルフェンは表情を変えない。
「だからこそ、我が国は砕氷船を導入しました」
「三隻のうち、一隻が完成したと伺っております」
「残る二隻も、間もなく完成します」
『セルディア共和国造船局の公開工程表と照合します』
空中へ工程表が現れる。
予定から半年遅れている。
さらに、主要部品の製造工房が倒産した記録も表示された。
「こちらの資料は古い」
オルフェンが即座に切り返す。
「すでに新しい製造元が決まっております」
「そのような重要契約が、共和国議会の承認を経ずに締結されたのでしょうか?」
「緊急案件です」
「契約金額は?」
「機密です」
「完成予定日は?」
「それも機密です」
「製造元の国籍は?」
「答える必要を認めません」
オルフェンの返答が次第に短くなる。
共和国側の随員たちも、落ち着かなげに資料を見始めた。
レティシアは追及を急がない。
相手が答えられない項目を、一つずつ確認していく。
「新航路の中継地点となる港についても伺います」
「アレイナ諸島の北港です」
「北港は昨年の嵐で損傷し、大型船の入港が制限されていますね」
「修復は進んでいます」
「完了予定は?」
「来月です」
『北港管理局の公開記録では、完了予定は来年春です』
セネカが訂正した。
オルフェンの眉がわずかに動く。
「工程を短縮したのです」
「追加予算が必要になりますね」
「すでに確保しています」
『共和国議会の予算記録には、該当する支出がありません』
「地方自治体の予算だ!」
『北港自治体の予算額では、修復費用の一割にも届きません』
『ここで共和国側、資金の壁に衝突しました!』
抑えられていたジョンの声が、ついに漏れた。
オルフェンが双響鏡を睨む。
「実況機能は停止したはずでは?」
「心理分析を停止すると申し上げました」
レティシアは微笑んだ。
「実況機能については、停止をお約束しておりません」
『必要に応じて参加します!』
『現在の音量は二十パーセントです』
「二十パーセントでこれか」
オルフェンは深いため息をついた。
「百パーセントでなくて何よりですわ」
「同感です」
交渉の場に、わずかな笑いが生まれる。
張り詰めていた共和国側の随員まで、口元を緩めていた。
レティシアは相手を追い詰めながら、屈辱だけを与えない。
逃げ道ではなく、着地点を残すためである。
「現状の設備と気候を考慮した場合、新航路の年間稼働日数を算出してくださいませ」
『承知しました』
海流、海氷、港湾状況、砕氷船の稼働能力。
複数の条件が光幕へ並び、計算が始まる。
『推定年間稼働日数は、四十七日です』
『短い!』
ジョンが反射的に叫ぶ。
『夏季休暇より短い交易路だぁ!』
『比較対象は教育機関によって異なります』
オルフェンは目を閉じた。
新航路が帝国との交易を完全に代替できないことは、もはや明白だった。
ルークが口を開く。
「共和国が帝国との交易を打ち切っても困らない、という主張は維持するか?」
オルフェンはしばらく答えなかった。
やがて姿勢を正し、虚勢を捨てた目でルークを見る。
「撤回しましょう」
共和国側の随員たちが息をのむ。
「新航路は、まだ実用段階にありません」
「我が国は帝国との交易を必要としています」
率直な言葉だった。
ルークも勝ち誇らない。
「帝国も、共和国の港と産物を必要としている」
「だからこそ、双方が継続できる条件を探したい」
レティシアは新しい提案書を取り出す。
帝国は、共和国の香辛料と果実にかかる関税を五パーセント引き下げる。
代わりに共和国は、帝国製農業魔道具と木材の関税を同率で下げる。
さらに帝国は、北港の修復へ技術者を派遣。
砕氷船の部品製造についても、帝国の工房が協力する。
共和国は新航路を完成させられる。
帝国にとって将来的な競争相手を助けることになるが、同時に北方海への新しい輸出経路を得られる。
「我が国を完全に屈服させるおつもりではないのですか?」
オルフェンが尋ねた。
「必要ございません」
レティシアは答えた。
「今日の勝利のために、十年後の敵を作るべきではないでしょう」
「貴国が安定してこそ、帝国との交易も続きます」
オルフェンは提案書を読み込んだ。
共和国側の随員たちと、小声で相談する。
やがて彼は顔を上げた。
「この条件で、詳細を詰めましょう」
『双方の合意形成を確認しました』
セネカが静かに告げる。
『難航していた関税交渉、ついに前進です!』
ジョンの声にも、先ほどまでの煽る響きはなかった。
『両者、相手を叩き潰すのではなく、未来の利益を選びました!』
会談が終わった後、帝国外務省は祝宴を開こうとした。
レティシアは丁重に辞退する。
大勢の前で称賛されるより、静かな場所で紅茶を飲みたかった。
それを聞いたルークは、研究院の小部屋へ茶器を用意させた。
窓から夕暮れの帝都が見える。
机上には、焼き菓子と軽食。
祝いの酒ではなく、レティシアが好む北方産の紅茶がある。
「よく、この茶葉をご存じでしたね」
レティシアが尋ねた。
「卒業夜会で、最初に飲んでいた茶と同じ産地だ」
「映像だけでお分かりに?」
「茶葉の形が一瞬映った」
レティシアはカップを持ったまま、彼を見る。
「殿下」
「何だ」
「観察眼が鋭いという範囲を、少し越えている気がいたします」
「君に関する情報だからだろう」
ルークは平然と答えた。
その言葉に、レティシアの指が止まる。
彼は自分が何を言ったのか、数秒遅れて理解したらしい。
カップを置く動きが、わずかに不自然になった。
『皇太子殿下、無自覚な接近に成功しました!』
ジョンが小声で実況する。
『現在は休憩時間です』
セネカが制止した。
『しかし、恋愛展開の気配がします!』
『だからこそ、静粛にすべきです』
双響鏡の音量が下がる。
レティシアは紅茶を一口飲んだ。
「今日の交渉で、私は少し驚きました」
「何に?」
「殿下が、共和国側へ譲歩する案を迷わず受け入れられたことです」
「私を、相手を屈服させなければ気が済まない人間だと思っていたのか?」
「冷徹無比と伺っておりましたので」
「必要な場面では冷徹になる」
ルークは窓の外を見る。
「だが、外交で相手の国を破綻させれば、難民と混乱が帝国へ流れ込む」
「相手を救うためだけではない」
「帝国の利益にもなる」
「それでよいのではございませんか?」
レティシアは微笑む。
「善意だけで国家は運営できません」
「互いの利益が重なる場所を探すことが、長い平和につながります」
ルークは彼女へ視線を戻した。
「君なら、そう言うと思っていた」
「では、質問なさる必要はなかったのでは?」
「君の口から聞きたかった」
レティシアは少し困った顔になる。
ルークは有能であり、論理的である。
その一方で、ときおり効率では説明できない行動を取る。
彼女の言葉を聞くためだけに、答えの分かっている質問をする。
好きな茶葉を調べる。
大勢の祝宴を断り、二人で静かに過ごせる場所を用意する。
どれも国家的な利益にはつながらない。
だからこそ、レティシアにはどう受け取ればよいか分からなかった。
「レティシア」
「はい」
ルークが彼女の顔へ手を伸ばした。
レティシアの身体が一瞬だけ強張る。
指先が、頬へ触れた。
軽く撫でるように動き、すぐに離れる。
ルークの指には、青いインクがついていた。
「頬についていた」
「まあ」
レティシアは自分の頬を押さえる。
資料へ印を書き込んでいる間に、指についたインクを触れてしまったらしい。
「失礼いたしました」
「謝る必要はない」
二人の視線が重なる。
どちらも言葉を続けない。
夕暮れの光が、室内を金色に染めていた。
机の端では、双響鏡の赤金色の輪が激しく点滅している。
ジョンが何かを叫びたがっているらしい。
しかしセネカが音声出力を完全に止めていた。
沈黙の中、ルークの指だけが、残ったインクの感触を確かめるようにゆっくり閉じられる。




