第八章 腐敗貴族を実況したら、会議が十分で終わりました
レティシアがヴァルハイト帝国へ到着してから、十日が過ぎた。
古代魔道研究院での生活は、彼女にとって驚くほど快適だった。
専用研究室には、大きな窓と十分な採光がある。
壁一面の書棚。
魔力を遮断する実験台。
温度調整機能を備えた保管庫。
古代文字の拓本を広げても余裕のある机。
部屋の隅には、いつでも温かい紅茶を用意できる小型魔導炉まで設置されていた。
初日に室内を見たレティシアは、無意識のうちに十五分ほど設備を褒め続けた。
ルークはその全てを記録し、翌日には不足している器具を追加している。
唯一の問題は、研究環境が整いすぎていることだった。
何時間でも作業を続けられる。
そのため、レティシアは帝国到着から四日目に、昼食を忘れた。
六日目には夕食を忘れた。
八日目には、昼食と夕食を続けて忘れた。
九日目から、研究室の扉に食事時刻を知らせる魔導時計が設置されている。
正午になるとルークの声で、
『食事を取れ』
と命令する仕組みだった。
レティシアは初回の警告を無視した。
すると五分後、ジョンの声が研究院全体へ響いた。
『レティシア選手、昼食を無視して研究を続行!』
『空腹状態では集中力が低下します』
それ以来、彼女は時間通り食堂へ行くようになった。
帝国の頭脳と古代魔道具による、逃げ道のない健康管理だった。
そんな平穏な研究生活へ、最初の政治的な問題が持ち込まれたのは、十日目の朝である。
「帝国議会への出席要請でございますか?」
研究室を訪れた皇太子府の文官へ、レティシアは尋ねた。
「はい」
文官は一通の公文書を差し出す。
「レティシア様の特別顧問任命について、議会で正式な承認を得る必要がございます」
内容そのものは当然だった。
外国出身の貴族令嬢へ、帝国の研究施設と外交資料へ接触する権限を与える。
反対意見が出ない方がおかしい。
レティシアは書類を確認する。
「議会への出席は、本日の午後ですね」
「はい」
「こちらの要請書が作成されたのは、昨日の夜となっております」
「はい」
「昨日の夜に出席を求め、本日の午後までに準備せよ、と?」
文官は目を伏せた。
「ベルトラム侯爵からの要請です」
レティシアはその名を知っていた。
帝国財務副長官ベルトラム・フォン・エルガー侯爵。
古い名門貴族の出身で、議会内に大きな派閥を持つ。
レティシアの任命へ最も強く反対している人物でもあった。
「準備の時間を与えず、議会で私を試すおつもりなのでしょう」
「おそらくは」
「出席いたします」
文官は驚いたように顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「正式な要請ですもの」
レティシアは机上の双響鏡へ目を向ける。
「ただし、議事記録の補助として双響鏡の使用許可を申請いたします」
『ついに帝国議会デビュー戦です!』
ジョンが声を上げた。
『対戦相手の事前分析を推奨します』
「すでに始めております」
レティシアは別の資料を机へ広げた。
ベルトラム侯爵が過去五年間に提出した予算案。
公共事業への支出。
関連企業。
親族の事業記録。
文官の顔が引きつる。
「いつ、お調べになったのですか?」
「帝国へ到着した翌日からです」
「なぜ?」
「私の任命へ反対している方が、どのような理由をお持ちなのか確認するためです」
『所有者、入国翌日から敵対者の調査を開始!』
『危機管理として合理的です』
レティシアは穏やかに微笑んだ。
「何か問題でもございますか?」
帝国議会議事堂は、巨大な円形の建物だった。
中央の演壇を囲むように、議員たちの席が階段状に並んでいる。
天井には、発言者の声を全体へ届ける音響魔道具が設置されていた。
レティシアがルークとともに入場すると、数百人の視線が一斉に集まる。
好奇心。
警戒。
敵意。
歓迎。
感情は様々だった。
夜会の放送は帝国にも届いている。
そのため、多くの議員がレティシア本人以上に、彼女が持つ銀色の球へ注目していた。
ルークは皇太子席へ座るなり、上着の内側から小さな手帳を取り出した。
レティシアは隣へ腰を下ろしながら尋ねる。
「殿下、なぜ筆記の準備を?」
「始まるのだろう?」
「何が、とは申しませんが、ええ」
ルークの金色の瞳が輝く。
「今日はどの順番で提示する?」
「始まる前から答えを聞いて、楽しいのですか?」
「確かに」
ルークは頷いた。
「展開を知らない方が美しい」
「議会を観劇と混同なさらないでくださいませ」
「議会も演出が重要だ」
「否定はいたしませんが」
『皇太子殿下、早くも期待に満ちております!』
『審議の公平性には影響しないものと推定されます』
やがて議長が開会を宣言した。
最初に立ち上がったのは、恰幅のよい中年の男である。
濃い赤の礼装。
胸元には複数の勲章。
整えられた口ひげ。
ベルトラム侯爵だった。
「本日の議題は、外国人であるレティシア・ヴァンガード嬢へ、帝国の重要職務を与える件についてです」
声は堂々としている。
「私は、彼女個人を非難するつもりはありません」
双響鏡の表面が明滅した。
レティシアはまだ起動させない。
「ですが、我が帝国の機密を、来たばかりの外国人へ預けることには強い懸念を抱いております」
議員席の一部から、賛同の声が上がる。
主張そのものには一定の正当性がある。
出身国だけを理由に排除するなら問題だが、安全保障上の確認は必要だ。
レティシアは反論せず、最後まで聞いた。
ベルトラムは彼女が黙っていることに気をよくしたらしい。
「さらに、真偽を判別するという魔道具も危険です」
「その道具を持つ者が、意図的に情報を操作しないという保証はありません」
「そもそも、古代の珍品が本当に正確であると、誰が証明できるのでしょうか」
議員たちの視線が双響鏡へ向く。
議長がレティシアへ発言を許可した。
彼女は立ち上がり、議場全体へ礼をする。
「ベルトラム侯爵のご懸念は、当然のものと存じます」
予想外の同意に、侯爵が目を瞬かせた。
「双響鏡は、強力な分析機能を持つ魔道具です」
「だからこそ、無制限に使用されるべきではございません」
「私は帝国議会に対し、双響鏡の運用を監督する独立委員会の設置を提案いたします」
議場がざわめく。
レティシアは続けた。
「分析の根拠となった資料を、可能な範囲で当事者へ開示すること」
「異議申し立ての権利を認めること」
「双響鏡の判断を、そのまま判決や処分としないこと」
「私的空間における無断使用を禁じること」
「所有者である私自身も、法の対象外とはいたしません」
反対派以外の議員たちが頷き始める。
ベルトラムは眉をひそめた。
彼の狙いは、レティシアが双響鏡の力を誇示することだった。
そうなれば、外国人が危険な道具を使って帝国を支配しようとしていると批判できる。
しかしレティシアは、自ら制限を求めた。
攻撃するための足場が、始まる前に消えている。
「立派な言葉ですな」
ベルトラムは口元だけで笑った。
「ですが、ご自分が本当に公正であることを、どのように証明なさいます?」
「言葉だけで信じていただこうとは思っておりません」
「では、その魔道具をここで使っていただきたい」
侯爵は勝ち誇ったように双響鏡を指した。
「議会は公の場です」
「我々は、帝国のために発言しております」
「暴かれて困るようなことは、何一つありません」
レティシアは扇を開いた。
「侯爵は、双響鏡の使用へ同意なさるのですね?」
「無論です」
「分析対象となる発言と、関連する公文書の照合にも?」
「構いません」
「一度同意した後、ご都合が悪くなったという理由で撤回なさいませんか?」
侯爵の顔へ苛立ちが浮かぶ。
「くどいですな」
「明確な同意が必要ですので」
「同意する!」
レティシアは扇を閉じた。
澄んだ音が議場へ響く。
双響鏡が浮上し、赤金色と青銀色の光輪を展開した。
『さあ始まりましたぁぁ!』
議員たちの肩が一斉に跳ねる。
『ヴァルハイト帝国議会、特別顧問任命審議!』
『実況は私、ジョン!』
『解説はセネカです』
『本日は議事記録補助モードにて運用します』
ベルトラムは音量に顔をしかめた。
「うるさい魔道具だ」
『ご意見として記録します!』
「そこまで大声で記録せずともよい!」
『音量を八十パーセントへ調整します』
「まだ大きい!」
レティシアの指先がわずかに動く。
音量が適切な水準まで下がった。
ルークは手帳へ何かを書き込んでいる。
「音量で先に平静を崩した」
彼が小さく呟く。
「実に効率的だ」
「殿下、聞こえております」
「意図的ではないのか?」
「半分ほどは」
ルークのペンが速く動き始めた。
議長に促され、ベルトラムは演説を再開する。
「私は、ただ帝国の未来を案じているのです」
双響鏡の中央に数字が浮かんだ。
《虚偽率八十八パーセント》
議場が静まり返る。
ジョンの光輪が激しく回転した。
『いきなり高得点が出ましたぁ!』
『競技ではありません』
ベルトラムの顔が赤くなる。
「でたらめだ!」
『分析根拠を表示します』
セネカの声とともに、公文書が展開される。
ベルトラムは直近半年間、国境道路の整備予算を大幅に増額するよう求めていた。
予算案だけを見れば、物流と国防のためである。
しかし工事を受注する予定の五社のうち、三社は侯爵の親族が経営している。
残り二社も、実質的な所有者は侯爵本人だった。
「企業の経営者が親族だからといって、不正とは限らない!」
ベルトラムが叫ぶ。
「おっしゃる通りです」
レティシアはあっさり同意した。
侯爵が一瞬、拍子抜けした顔になる。
「ですので、利益率を確認いたしましょう」
『通常の公共事業における平均利益率は、八パーセントです』
セネカが数字を表示する。
『ベルトラム侯爵の関連企業が提出した見積もりでは、利益率四十一パーセントとなっています』
『五倍以上だぁ!』
「山岳地帯の工事には危険が伴う!」
『現場は平地です』
「地盤が弱いのだ!」
『地質調査では、安定した岩盤が確認されています』
「資材の輸送費が――」
『輸送予定の石材は、現場から二キロ地点で採掘されます』
「労働者の待遇改善だ!」
『賃金は帝国平均を十四パーセント下回っています』
『逃げ道を選ぶたびに、新たな壁が現れるぅ!』
ルークが手帳へ猛烈な勢いで書き込んでいる。
「反論を予測して資料を並べたのではない」
彼は小声で感嘆した。
「侯爵自身に反論を選ばせ、その答えに対応する資料を出している」
「どの道を選んでも終点が同じだ」
「美しい」
「殿下」
レティシアは前を向いたまま囁いた。
「感想は、会議後にお願いいたします」
「分かった」
返事をした直後、ルークは「逃げ道の自発的選択」と手帳へ書き込んだ。
ベルトラムの額から汗が流れる。
彼は懐から布を取り出し、顔を拭った。
「たとえ見積もりが高額でも、帝国のために必要な事業だ!」
『当該発言を照合します』
新たな資料が映る。
侯爵は裏の会合で、
『道路が完成するかどうかは重要ではない』
『予算さえ通れば、三割は私の手元へ戻る』
と発言していた。
同席した商人が、取引の証拠として記録用魔道具を作動させていたのである。
ベルトラムの顔から血の気が消えた。
「違う」
『本人の音声と一致します』
「罠だ!」
『商人側が自衛のために記録していたものです』
「私は、そんなことを言っていない!」
『虚偽率九十九パーセントです』
『本日最高記録を更新しましたぁ!』
議場の各所から、怒りの声が上がる。
議長は何度も木槌を打ち、静粛を求めた。
帝国のために外国人を警戒していたはずの男が、帝国の公共事業を利用して私腹を肥やそうとしていた。
これ以上、皮肉な結末もない。
「レティシア嬢!」
ベルトラムは最後の望みをかけるように彼女を睨んだ。
「貴様は、最初から私を陥れるために!」
「私は、質問へお答えしただけでございます」
「資料を用意していたではないか!」
「侯爵が私の任命へ反対なさる理由を、調査した結果ですわ」
「卑怯者め!」
「事実を述べることのどこが悪逆なのでしょう?」
レティシアは満面の笑みを浮かべる。
グラディス王国の夜会で、エドバードへ向けたものと同じ笑みだった。
ベルトラムは何も言えなくなった。
議長が、財務副長官としての職務停止と調査委員会の設置を宣言する。
議会開始から、わずか十分後のことだった。
『ベルトラム侯爵、職務停止!』
『試合終了です!』
『審議は継続します』
「もう終わったのではないのか!」
連行されるベルトラムが叫ぶ。
『レティシア嬢の任命承認が残っています』
『侯爵選手だけが、先に終了だぁ!』
議場から笑いが上がった。
ベルトラムは肩を落とし、衛兵に伴われて退場していく。
その後の採決では、レティシアの特別顧問就任が圧倒的多数で承認された。
同時に、双響鏡の使用を監督する独立委員会の設置も決定する。
会議を終えたレティシアは、議事堂の廊下へ出た。
ルークがすぐ後をついてくる。
「素晴らしかった」
「ありがとうございます」
「特に、最初に侯爵の主張へ同意した点がいい」
「彼の懸念自体は妥当でしたもの」
「全てを否定すれば、君が権力を求める危険人物に見える」
ルークは手帳を開いた。
「妥当な懸念を認め、自ら規制を提案することで、中立派の支持を得た」
「その後で、侯爵本人の不正を切り離して提示した」
「論点が混同されていない」
「実に美しい」
「殿下」
レティシアは足を止めた。
「何だ」
「私の行動を全て鑑賞物として分析なさるのは、おやめくださいませ」
ルークの表情が、ほんの少し曇る。
「不快だったか?」
即座に問い返す声には、誤魔化しがなかった。
レティシアは一瞬、返答に迷う。
「不快というより、慣れません」
「承知した」
ルークは手帳を閉じた。
「今後は、許可を得てから感想を伝える」
あまりに素直に引き下がったため、レティシアの方が戸惑った。
「完全におやめになるのでは?」
「それは難しい」
ルークは真剣な顔で答える。
「君の論理構築を見て何も感じないふりをするのは、私には不可能だ」
『重症です』
セネカが診断した。
『しかし、本人に治療の意思はありません!』
「治す必要を感じない」
ルークは堂々と言い切った。
レティシアは困ったように眉を下げ、それから小さく笑った。
「では、会議後に限り許可いたします」
「交渉成立だな」
ルークの表情が明るくなる。
その変化を見て、レティシアは気づく。
帝国の頭脳と呼ばれる彼も、感情を持たないわけではない。
ただ、それを表に出す相手が少なかっただけなのだろう。
「それから」
ルークが続ける。
「帝国外務省から、君へ新たな依頼がある」
「どのような内容ですか?」
「セルディア共和国との関税交渉だ」
ルークの声から、先ほどまでの浮ついた熱が消える。
皇太子の顔に戻っていた。
「相手は、新交易路を確保したため帝国との交渉を打ち切っても構わないと主張している」
「事実ですか?」
「それを確かめたい」
レティシアは窓の外へ目を向けた。
帝国の空には、夕暮れの光が差し始めている。
議会での戦いは終わった。
次に待つのは、帝国の利益と他国の生活が交差する、本物の外交交渉である。
双響鏡の青銀色の輪が、静かに光った。
『予備分析を開始します』
『相手代表団は、かなり焦っている可能性があります』




