第七章 さようなら、私を便利な道具と呼んだ国
ヴァルハイト帝国への移住を決めたレティシアが、最初に着手したのは荷造りではなかった。
王宮、王立学園、財務局、外務省へ残されている自分名義の資料を整理し、公的な文書と私的な研究資料を分別することだった。
彼女は自室の机へ一覧表を広げ、返却先、管理責任者、機密区分を一つずつ確認していく。
帝国行きが正式に決まってから三日。
ヴァンガード公爵邸の廊下には、運搬用の木箱が整然と並んでいた。
大部分は古代史の書籍と研究資料である。
衣装や装飾品は、全体の二割にも満たない。
公爵令嬢の移住というより、研究院の書庫が丸ごと引っ越すような有り様だった。
「姉上」
箱を抱えて部屋へ入ってきたのは、レティシアの弟アレクシスである。
十六歳になったばかりで、姉と同じ銀色の髪を持つ。
彼は木箱を床へ下ろし、額の汗を拭った。
「『古代法体系・前期』は、どこへ置けばよいですか?」
「三番の箱へお願いいたします」
「三番は、もう入りません」
「では五番へ」
「五番には『古代法体系・中期』が入っています」
「……前期と中期だけ同じ箱へ入れれば荷ほどきで面倒かもしれませんね」
「そういうものですか?」
「……そうですね」
アレクシスは姉を見た。
レティシアも弟を見る。
短い沈黙の末、アレクシスが両手を上げた。
「新しい箱を用意します」
「お願いいたします」
「姉上は昔から、本の順番についてだけは譲りませんね」
「知識の配列は、思考の道筋そのものです」
「一冊ずれていても、帝国は滅びません」
「その一冊を探すために失われる時間を合計すれば、長期的には無視できません」
『所有者の主張には合理性があります』
机の上の双響鏡からセネカが口を挟む。
『弟君の意見にも、一般的な生活感覚に基づく妥当性があります』
「引き分けですか?」
『分類方法を維持し、新しい箱を追加する案を推奨します』
「結局、姉上の案ではありませんか」
アレクシスは苦笑し、空箱を取りに部屋を出ていった。
入れ替わるように、公爵家の侍女が手紙の束を運んでくる。
「お嬢様、王宮より追加の文書が届きました」
レティシアは手紙の厚みを見た。
「引き継ぎに関するものですか?」
「はい」
「そちらへ置いてくださいませ」
机の端には、すでに王宮からの依頼が山積みになっている。
第一王子の外遊計画。
近隣諸国への挨拶状。
王家主催の慈善晩餐会。
税制改革会議の議事進行案。
北方騎士団への予算再配分。
そのほとんどが、レティシアの正式な職務ではなかった。
彼女は王子の婚約者という立場で、助言を求められるたびに手を貸していた。
やがて周囲は、それを好意ではなく役割として扱うようになった。
レティシアが処理するのが当然。
困ったときは、彼女へ送ればよい。
そうして本来の責任者は、自分で考えることをやめていったのである。
レティシアは新たに届いた文書を開いた。
最初の一枚には、慈善晩餐会の開催計画を至急作成してほしいと記されている。
帝国へ出発するまで、あと四日。
それまでに完成させてほしいらしい。
「お嬢様」
侍女が心配そうにレティシアを見る。
「お引き受けになるのですか?」
「いいえ」
レティシアは文書を机へ戻した。
「担当部署へ返送してください」
「よろしいのですか?」
「開催計画の作成は、王宮儀典局の職務です」
「ですが、あちらはお嬢様にしか分からないと」
「私にしか分からないのであれば、引き継ぎ可能な制度を構築しなかった管理者の責任です」
レティシアは別の文書へ目を通す。
「私がいなければ回らない制度は、最初から欠陥品です」
『名言が出ましたぁ!』
ジョンの声が響いた。
『依存体制へ鮮やかな一撃!』
「通常音量でお願いします」
『失礼しました!』
侍女は少しだけ笑い、文書を抱えて退室した。
その笑みを見て、レティシアも肩の力を抜く。
以前ならば、全て引き受けていただろう。
自分が処理した方が早い。
断れば誰かが困る。
国のためには、感情より効率を優先すべきである。
そう考え、眠る時間を削っていた。
けれど、それは国を助けることではなかった。
他人が責任を学ぶ機会を奪い、自分を消耗させるだけの行為でもあったのだ。
その日の夕刻、公爵家の家族が小食堂へ集まった。
広い晩餐室ではない。
家族だけで食事をするときに使用する、温かみのある部屋である。
レティシアの父であるヴァンガード公爵は、王宮から戻ったばかりだった。
普段は揺るぎない威厳を持つ男だが、ここ数日は目元へ疲労がにじんでいる。
母である公爵夫人は、レティシアの向かいに座っていた。
アレクシスも席についている。
食事が一段落したところで、公爵が口を開いた。
「帝国との契約書を確認した」
「何か問題がございましたか?」
「いや」
公爵は首を横へ振った。
「驚くほど、こちらへ配慮された内容だ」
「ルーク殿下が一晩で原案を用意なさいました」
「一晩で?」
公爵の眉が動いた。
「使節団を置いてきた件といい、極端な男だな」
「決断と行動が早い方なのでしょう」
『興味のある対象に対してのみ、速度が通常の三倍以上へ上昇する傾向があります』
セネカが分析する。
「娘が、その対象になったということか」
公爵が双響鏡を見る。
『現時点では、レティシア嬢の能力と双響鏡への強い関心が確認されています』
『それ以外の関心も、順調に芽生えている気配があります!』
「ジョン」
レティシアが低い声で名を呼んだ。
『推定です!』
公爵夫人が、扇の陰で小さく笑った。
かつてエドバードの話題が出たとき、家族の食卓がこのように和らぐことはなかった。
公爵は咳払いをし、表情を改める。
「レティシア」
「はい」
「本当に帝国へ行きたいのだな」
レティシアはすぐに答えようとした。
しかし、父の目にあるものを見て、言葉を一度のみ込む。
公爵が求めているのは、合理的な説明ではない。
帝国で得られる研究環境や政治的利益を聞いているのでもなかった。
娘自身の望みを確かめようとしている。
それだけのことが、レティシアには難しかった。
「行きたいと、思っております」
ゆっくりと答える。
「帝国大書庫には、王国では失われた古代司法史料が残されています」
「北部遺跡の調査にも参加できます」
「外交政策補佐官としての仕事にも、興味がございます」
公爵は黙って聞いている。
レティシアは膝の上で指を重ねた。
「そして、グラディス王国を離れたいと思っております」
最後の言葉だけは、少し小さくなった。
公爵夫人の瞳が揺れる。
「レティシア」
「お母様」
「あなたに、王妃となるよう求めたのは私たちです」
夫人は扇を閉じた。
「幼いあなたへ、完璧であることを強いました」
「公爵家の娘として、必要な教育でした」
「いいえ」
夫人は静かに首を横へ振る。
「必要な教育と、逃げ場を奪うことは違います」
レティシアは何も言えなかった。
幼い頃から、泣く前に理由を考えるよう教えられた。
怒る前に、周囲への影響を計算するよう求められた。
未来の王妃は人前で取り乱してはならない。
未来の王妃は誰よりも優秀でなければならない。
未来の王妃は王子を支え、王国を導かなければならない。
そうして積み上げられた役割の内側で、自分の望みを口にする方法を忘れていた。
「申し訳ありません」
公爵夫人が頭を下げた。
「謝らないでくださいませ」
レティシアは反射的に答えた。
「私は、恵まれておりました」
「多くの教育を受け、望むだけ本を与えられました」
「公爵家の娘として、何不自由なく――」
「レティシア」
公爵が娘の言葉を遮った。
声は厳しくない。
「恵まれていたことと、傷つかなかったことは別だ」
レティシアの唇が止まる。
双響鏡も、今だけは何も言わなかった。
公爵は深く息を吐いた。
「お前は国へ十分に尽くした」
「私たちが求めた以上のことを果たした」
「これからは、自分のために生きなさい」
その言葉を理解するまで、少し時間がかかった。
自分のために生きる。
それは、古代文書を好きなだけ読むことだろうか。
誰かの失敗を埋めるためではなく、自分が興味を持った問題へ取り組むことだろうか。
疲れたときに休み、嫌なことを嫌だと言うことだろうか。
これまでのレティシアは、そうした選択をわがままと呼んできた。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
それだけを口にするのが精いっぱいだった。
アレクシスが身を乗り出す。
「姉上」
「はい」
「帝国へ行っても、手紙はください」
「もちろんです」
「研究の話だけで、便箋を十枚も使わないでください」
「善処いたします」
「それは、守られない返事ですね」
「新しい古代遺物を発見した場合は、十枚で収まらない可能性があります」
アレクシスは肩を落とした。
「せめて要約を最初につけてください」
「承知いたしました」
『姉弟間の通信規則が成立しました!』
家族の間に、小さな笑いが生まれた。
レティシアも微笑む。
今度の笑みは、社交のためのものではなかった。
一方、王宮の官僚庁舎は、かつてない混乱に見舞われていた。
「この条約案の最終確認は誰が行う!」
「これまではレティシア様が!」
「王家主催晩餐会の席順表はどこだ!」
「レティシア様の私室です!」
「それは公文書を私室へ持ち込ませていたという意味か!」
「殿下が前日に変更なさるので、王宮へ置くより早かったのです!」
各部署から怒号が飛び交う。
未処理の書類は、机の上だけでは足りず、床にまで積み上げられていた。
第一王子の外遊費が二重計上されている。
他国から届いた外交書簡へ返答していない。
税制改革案は、レティシアの解説がなければ誰も内容を理解できない。
エドバードの王位継承を前提に進めていた式典も、全て見直す必要がある。
国王は執務室で、山のような書類を前に立ち尽くしていた。
「これを、あの娘が処理していたのか」
財務大臣が疲れた顔で答える。
「全てではありません」
「そうか」
「これで半分ほどです」
国王は椅子へ崩れ落ちた。
「戻ってもらうことはできぬか」
王妃が冷たい目を夫へ向ける。
「戻って、また同じことをさせるのですか?」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味でしょう」
国王は答えられなかった。
王妃は机上の書類を一枚取る。
「これは、レティシア嬢が作成した業務手順書です」
「手順書?」
「誰でも業務を引き継げるよう、三年前から整備していたようです」
国王は顔を上げた。
「ならば、それを使えばよいではないか」
「使う者が、読むことを面倒がっております」
国王の顔に怒りが浮かぶ。
だが、その怒りが自分自身へも向けられていることを、今度ばかりは理解していた。
「全員を集めよ」
「何をなさるおつもりですか?」
「手順書を読ませる」
「拒む者がいれば?」
「読み終えるまで帰すな」
王妃は少しだけ目を細めた。
遅すぎる。
けれど、何もしないよりはよい。
グラディス王国は今ようやく、一人の公爵令嬢へ寄りかかって歩いてきた事実と向き合おうとしていた。
出国の日、王都中央駅には帝国行きの迎賓列車が停車していた。
深い黒と銀色の車体には、ヴァルハイト帝国の紋章が刻まれている。
通常の列車よりも強力な魔導機関を搭載し、二日で帝都へ到着する予定だった。
見送りには、公爵家の家族と使用人たちが集まっている。
レティシアの荷物は、列車後方の貨物車両を二両占有していた。
その大半が書籍だと知り、帝国側の職員は何度も積載重量を計算し直している。
「本当に、衣装はこれだけですか?」
公爵夫人が尋ねた。
「必要になれば、帝国で用意いたします」
「本よりドレスの方が軽いでしょう」
「本は代替品がございません」
「そう言うと思いました」
夫人は娘を抱き締めた。
人前で感情を表すことを避けてきた母の、珍しい行動だった。
レティシアの身体が一瞬だけ硬くなる。
やがて、彼女も母の背へ腕を回した。
「行ってまいります」
「ええ」
「幸せになりなさい」
公爵とは、言葉少なに抱擁を交わした。
アレクシスからは、旅の途中で読むようにと一冊の本を渡される。
題名は『働きすぎる姉を休ませる百の方法』だった。
「このような本が出版されているのですか?」
「僕が書きました」
「いつの間に?」
「昨夜です」
「一晩で書かれた本の内容は、信頼性に欠けます」
「まずは三頁目の『文句を言う前に眠る』を実践してください」
レティシアは本を閉じた。
弟の成長が少し心配になった。
発車時刻が近づく。
レティシアは列車へ乗る前に、王都を振り返った。
生まれ育った街。
多くを学び、多くを背負い、多くを諦めた場所。
憎んではいない。
ここには家族も友人もいる。
守りたいと思った人々も、確かに存在する。
けれど、戻るつもりはなかった。
「さようなら、グラディス王国」
小さな声だった。
双響鏡だけが、その言葉を聞いている。
『新たな記録を開始します』
セネカの声が、静かに応じた。
列車の汽笛が鳴る。
迎賓列車はゆっくりと動き始め、やがて王都を後にした。
二日後、列車が帝都中央駅へ到着した。
窓の外に広がる帝都は、グラディス王都とは全く異なる姿をしている。
石造りの古い建物と、最新の魔導技術を用いた高層建築が、違和感なく並んでいた。
街路には小型魔導車が走り、建物の壁面には時刻や天候を知らせる表示板が輝いている。
駅のホームへ降りたレティシアを待っていたのは、意外なほど小規模な一団だった。
先頭にはルークがいる。
その隣に白髪の研究院長と、数名の護衛。
大勢の貴族や楽団の姿はなかった。
「帝国へようこそ、レティシア」
ルークが彼女を迎える。
「皇太子殿下自らお出迎えくださり、恐縮でございます」
「長旅で疲れているだろう」
「歓迎式典は明日以降へ延期した」
「必要ならば、全て省略しても構わない」
レティシアは少し驚いた。
王族を迎える場では、本人の疲労より儀礼が優先される。
それが当然だと思っていた。
「私が、華やかな式典を好まないとご存じなのですか?」
「昨夜の記録を見た」
ルークは答えた。
「大勢に囲まれているときより、双響鏡の内部回路を見ているときの方が、君の表情は明るかった」
「そこまで記録なさっていたのですか?」
「重要な観察だ」
『皇太子殿下、所有者の好みを正確に分析!』
『ただし、観察の詳細さには若干の執着傾向が見られます』
「有用な情報収集だ」
「物は言いようですこと」
レティシアは小さく笑った。
ルークの隣に立つ研究院長が、興味深そうに双響鏡を見ている。
「早速で恐縮ですが、研究院をご覧になりますか?」
研究院長が尋ねた。
「お疲れでしたら、明日でも構いませんが」
レティシアは答えようとした。
その前に、弟から渡された本が脳裏へ浮かぶ。
文句を言う前に眠る。
長旅の後は休む。
研究対象を前にしても、健康を優先する。
「明日に――」
「地下保管庫には、未解読の古代遺物が二百点ほどあります」
「今から参ります」
返答に迷いはなかった。
ルークの口元に笑みが浮かぶ。
『所有者、休息を放棄しました!』
『弟君の助言は、帝国到着から三分で破られました』
「見学だけです」
『研究者の言う見学だけは、一般的な意味と異なる可能性があります』
帝国古代魔道研究院の地下保管庫は、レティシアの想像を超えていた。
巨大な扉が開く。
温度と湿度を一定に保たれた空間に、無数の棚が並んでいる。
石板。
金属製の箱。
用途不明の杖。
半分だけ残った魔導機関。
古代文字が刻まれた仮面。
どれも厳重な結界の中に収められていた。
最奥の壁には、まだ分類すら終わっていない遺物が並んでいる。
レティシアの完璧な微笑みが、ついに崩れた。
彼女は目を見開き、息をのむ。
「これらに、触れてもよろしいのですか?」
「手続きを踏めば、好きなだけ」
ルークが答えた。
レティシアは最も近い石板へ歩み寄った。
刻まれた古代文字を見た瞬間、彼女の唇から早口の解説があふれ始める。
「これは古代王国中期の地方行政印です」
「ですが、通常の行政印にはない波形が刻まれております」
「裁判所ではなく、競技施設に併設された仲裁所で使用された可能性がございます」
「もし双響鏡と同じ施設から出土したのであれば、疑似人格の形成過程を解明できるかもしれません」
研究院長が驚いて目を見張る。
「そこまで一目で?」
「側面の欠損部分をご覧ください」
「ここには音声を記録するための共鳴式回路が――」
レティシアは振り返った。
ルークが彼女を見つめている。
「殿下?」
「いや」
ルークは静かに答える。
「帝国へ来てもらえてよかったと思っていた」
『所有者、かつてないほど興奮しております!』
ジョンが保管庫へ声を響かせる。
「ジョン、静かになさい」
叱る声にも、普段の冷たさはない。
ルークはそんな彼女を見て、確信を深めていた。
欲しかったのは、優秀な補佐官だけではない。
証拠を並べて敵を追い詰める策士だけでもない。
古代の文字一つに目を輝かせる、この女性自身をもっと知りたい。
その感情を何と呼ぶべきか、帝国の頭脳はまだ正確に定義できていなかった。
ただし、一つだけは明白である。
できる限り長く、彼女を自分の隣へ置きたい。




