第六章 隣国皇太子は実況解説がお好き
卒業夜会を揺るがした公開婚約破棄から、一夜が明けた。
王都の朝は、通常より二時間ほど早く始まっている。
新聞社は号外を刷るため夜通し印刷機を動かし、パン屋は「金無しカボチャパン」なる新商品を店先へ並べ、酒場では徹夜で放送を見届けた客たちが、どの場面が最も面白かったかを熱心に論じていた。
中央広場に設置された巨大魔導鏡では、夜会の記録映像が早くも再放送されている。
特に人気が高いのは、マリアが階段の最後の二段だけ自力で下りる場面と、エドバードの個人資産がマイナス四千八百万ゴールドだと判明する瞬間だった。
「金無しカボチャ」という言葉は、たった一晩で王都中へ浸透している。
朝市では、値段だけ高く中身の乏しい野菜を指して使われた。
仕事をせずに威張る上司を陰で呼ぶときにも便利である。
本人の知らぬところで、エドバードは新たな慣用句を王国へ残しつつあった。
その歴史的偉業に、当の本人だけが気づいていない。
一方、ヴァンガード公爵邸の朝は、王都の喧騒から切り離されたように静かだった。
レティシアは夜明け前に帰宅し、湯浴みを済ませ、三時間ほど眠った。
それから普段と変わらぬ時刻に起床し、朝食を取った後、屋敷の書庫へ入っている。
彼女の前には、昨夜回収した双響鏡が置かれていた。
銀色の球体へ戻った双響鏡は、専用の台座に収まり、薄い光を帯びている。
大規模通信を行った影響で、内部の魔力は大きく減少していた。
それでも二つの疑似人格は、朝から元気である。
『昨日の総視聴者数、最終推定八十九万六千三百二十一名!』
ジョンの声が書庫へ響いた。
『王都史上最大級の同時視聴記録です!』
「音量を三割へ落としてくださいませ」
『昨日の興奮が抜けず、失礼いたしました!』
声は少し小さくなったが、熱量は変わっていない。
『なお、当機への接続要求は現在百二十八件です』
セネカが補足する。
『新聞社、劇場、商業組合、王立学園、及び複数の賭博業者から申請が届いています』
「全て却下してください」
『賭博業者からは高額な契約金が提示されています』
「却下です」
『王都中央劇場から、専属実況者としての雇用提案も届いています』
「司法補助装置を芸人へ転職させるつもりはございません」
『実況者です!』
「ジョン」
『失礼しました!』
レティシアは双響鏡の外殻へ手を触れ、内部回路の状態を確認した。
魔力伝導率は正常。
広域通信に伴う過熱も許容範囲内である。
現代の魔導通信網との接続については、予想以上に安定していた。
いくつかの調整を加えれば、王都だけでなく王国全土へ放送できる可能性もある。
そこまで考えたところで、レティシアは指を止めた。
あくまで司法と記録を目的とする道具である。
娯楽性を理由に濫用すれば、いずれ真実そのものが見世物となる。
道具は、使い方によって価値を変える。
優れた魔道具であるからこそ、運用者には慎重さが求められるのだ。
『所有者の興奮度が上昇しています』
セネカが指摘した。
「内部回路の研究は興味深いものですから」
『現在、朝食後の休憩時間です』
「調査と休憩は両立いたします」
『一般的には、それを休憩とは呼びません』
レティシアは答えず、机の上の工具へ手を伸ばした。
その瞬間、書庫の外から急ぎ足が聞こえてくる。
やがて扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様」
公爵家の執事だった。
「どうぞ」
扉が開く。
いつも沈着な老執事が、珍しく困惑した表情を浮かべている。
「ヴァルハイト帝国より、使者がお見えです」
レティシアは昨夜の通信を思い出した。
「皇太子殿下の正式な使節団ですか?」
「いえ」
執事は一度、言葉を切った。
「皇太子殿下ご本人でございます」
レティシアの手から工具が落ちた。
金属製の細い棒が、机の上で乾いた音を立てる。
『所有者、明確な動揺を示しました』
「セネカ」
『記録を秘匿します』
「昨夜、帝都にいらしたはずでは?」
レティシアが執事へ尋ねる。
「今朝、帝国の高速飛行艇で王都へ到着なさいました」
「帝都から王都まで、通常の飛行艇で三日は必要です」
「試作型の新型艇を使用なさったとのことです」
「正式な使節団は?」
「後から来る、と」
レティシアは数秒、沈黙した。
皇太子本人が、正式な使節団より先に国外へ飛び出している。
外交上、かなり大胆な行動だった。
エドバードとは異なる意味で、周囲の者が苦労している可能性がある。
「どちらにいらっしゃいますか?」
「応接室へご案内しております」
「すぐに参ります」
レティシアは立ち上がった。
双響鏡を携帯用の革製ケースへ収める。
『ついに隣国皇太子との直接対面です!』
ジョンが興奮した声を上げた。
『昨日の言動から推定し、通常の外交交渉とは異なる展開が予測されます』
「できるだけ通常の外交交渉へ戻してみせます」
『困難な試合になりそうです!』
ヴァンガード公爵邸の応接室には、ルーク・ヴァルハイト皇太子が一人で座っていた。
正確には、部屋の隅に公爵家の侍従が二人いる。
帝国側の人間は見当たらない。
黒を基調とした礼装に身を包み、姿勢よく座る姿からは、一晩で国境を越えてきた者の疲労を感じさせなかった。
机の上には、昨夜と同じ分厚い分析ノートが置かれている。
レティシアが室内へ入ると、ルークは立ち上がった。
「急な訪問を謝罪する」
「ヴァルハイト皇太子殿下をお迎えできましたこと、光栄に存じます」
レティシアは礼をした。
「ですが、昨夜の今朝でございます」
「そうだな」
「殿下は昨夜、帝都にいらしたはずです」
「いた」
「正式な使節団は?」
「後から来る」
予想通りの答えだった。
レティシアはルークの背後を確認する。
やはり護衛の姿がない。
「護衛の方々は、どちらに?」
「途中まで一緒だった」
「途中まで?」
「飛行艇から降りた後、馬車の速度が遅かったので先に来た」
『皇太子選手、護衛を振り切っての単独入国!』
革製ケースの中から、ジョンの声が漏れた。
レティシアは止めなかった。
本人へも事実を聞かせるべきだと考えたからである。
ルークはケースへ興味深そうな視線を向ける。
「ジョンか」
『お名前を覚えていただき、光栄です!』
「昨日の実況は見事だった」
『皇太子殿下に褒められましたぁ!』
「調子に乗らないでくださいませ」
『音量を維持します!』
ルークはレティシアへ視線を戻した。
「護衛なら、間もなく追いつく」
「護衛を振り切った時点で、その説明は安心材料になりません」
「確かに」
ルークは素直に認めた。
エドバードならば、責任を護衛の足の遅さへ押しつけていただろう。
指摘された誤りをその場で認めるという、ごく普通でありながらレティシアには新鮮な反応だった。
「こちらを」
ルークは机の上に置いていた書類を差し出した。
帝国の正式な紋章が入った任用条件書である。
昨夜口頭で提示された内容が、さらに具体的に記されていた。
帝国古代魔道研究院特別顧問。
皇太子府外交政策補佐官。
両方の職務を兼任するが、研究を本務とし、外交任務は本人の同意を得た上で要請する。
報酬は帝国上級官僚と同等。
住居として皇宮近くの邸宅を用意。
研究院内に専用研究室を設置。
古代遺跡への優先調査権。
帝国大書庫への終日入館許可。
レティシアの視線が、最後の項目で止まった。
帝国大書庫は、現存する古代文献の所蔵数で大陸最大を誇る。
未解読資料だけでも、グラディス王立図書館の総蔵書数に匹敵するという。
しかも終日入館許可。
通常ならば閉館する深夜や早朝にも利用できる。
レティシアの心臓が、わずかに速く鼓動した。
「待遇について、不足があれば追加しよう」
「研究院の特別顧問へ、ここまでの権限を与えるのですか?」
「君の能力には、その価値がある」
「一度の実況をご覧になっただけでしょう」
「実況は結果だ」
ルークは分析ノートを開いた。
「私が評価しているのは、その結果へ至る過程だ」
ノートには、夜会で起きた出来事が分刻みで記録されていた。
最初に手続きの不備を指摘し、エドバードの主導権を奪う。
次に階段事件を映像検証し、告発全体の信用を下げる。
その直後に細かな嫌がらせの虚偽をまとめて暴き、王子とマリアの判断力へ疑問を抱かせる。
二人が劣勢に陥ったところで、「真実の愛」という逃げ道を選ばせる。
そして相手自身の口から贈答品の話題を出させ、会計情報へ移行する。
公金流用を提示する前に総額を見せたのは、エドバードの虚栄心を最大まで膨らませるため。
王子が自分の愛を金額で誇った直後に、その金が他人のものだと明らかにすることで、言い逃れを困難にしている。
「王子へ資産の返還を提案したのも計算だろう」
ルークが指で記録を示した。
「彼は自分が裕福だと信じている」
「当然、返せると答える」
「そこで資産額を提示すれば、彼の自尊心だけでなく、マリア嬢の期待も同時に破壊できる」
ルークの声には、芸術作品を語る研究者のような熱があった。
「二人を外側から引き離すのではなく、利害関係を露出させることで内側から崩壊させた」
「実に美しい」
「殿下」
レティシアは少し困ったように彼を見た。
「人の婚約解消を、美しいと評するものではございません」
「婚約解消ではない」
ルークは真顔で答えた。
「証拠提示の順番を評している」
「そちらであればよい、という話でもないように思います」
『皇太子殿下は、高度な罠構築へ美的価値を見いだす傾向があります』
セネカが分析した。
「理解が早いな」
『ありがとうございます』
「セネカまで喜ばないでくださいませ」
ルークはさらに数枚の書類を差し出した。
「双響鏡の法的な運用規則案も用意した」
レティシアは書類を受け取り、内容へ目を通す。
所有者であるレティシアの許可なく、帝国が双響鏡を徴用することを禁じる。
私的空間での無断使用を認めない。
軍事利用には、皇帝、議会、司法府の三者承認を要する。
分析結果は判決そのものではなく、あくまで補助証拠として扱う。
被疑者には、分析へ異議を申し立てる権利を保障する。
魔道具による監視を常態化させない。
昨日の今日で作ったとは思えないほど、よく練られた草案である。
レティシアは書類から顔を上げた。
「双響鏡の軍事利用が目的ではないのですか?」
「有用ではあるだろう」
ルークは隠さなかった。
「だが、使い方を誤れば、帝国は真実という名の恐怖に支配される」
「嘘を暴く道具が常に存在すれば、人は率直になるとは限らない」
「何も話さなくなる可能性もある」
レティシアの目が、わずかに細められた。
「よくお分かりですこと」
「道具は強力であるほど、法で縛らなければならない」
「君が双響鏡を手放せば、正しく使える者がいなくなる」
「ですから、双響鏡ではなく、私を招きたいと?」
「その通りだ」
ルークは迷いなく頷いた。
「帝国が欲しいのは、真実を暴く道具だけではない」
「何を、いつ、誰に、どこまで示すべきかを判断できる人間が必要だ」
レティシアは書類へ視線を落とした。
あまりに好条件であるため、裏の意図を疑っていた。
だがルークは、利益を隠そうとしない。
帝国に利がある。
レティシアにも望む研究環境が得られる。
その上で、互いが損をしないための規則まで準備していた。
美辞麗句ではなく、条件と責任を示す。
エドバードとは、何もかもが違っている。
「一つ、確認させてくださいませ」
「何だ」
「私が帝国へ移った後、期待したほど役に立たなかった場合は?」
ルークの眉がわずかに寄った。
「期待したほど、とは?」
「昨夜の一件が偶然の成功であり、私に継続的な価値がないと判断された場合です」
「その場合も、契約期間中の地位と報酬は保障する」
ルークは淡々と答えた。
「研究者として成果が出ない時期があることも理解している」
「研究とは、失敗を含めて進歩だからだ」
実務的な答えだった。
しかし、レティシアが本当に聞きたかったのは、契約の話だけではない。
それを自分でも認められず、彼女は微笑みで覆い隠した。
「承知いたしました」
ルークは彼女の表情をしばらく見つめた。
何かを察したようだったが、無理に問い詰めることはしなかった。
「帝国行きを検討してもらえるだろうか」
「すでに、かなり前向きに検討しております」
「大書庫か」
「専用研究室も魅力的ですわ」
「遺跡への優先調査権は?」
「非常に」
レティシアの声が、普段よりわずかに速くなる。
「帝国北部には古代王国後期の司法施設跡が三十二か所ございますね」
「うち八か所は未調査です」
「双響鏡の同系統機が発見される可能性があります」
「研究院も、同じ仮説を立てている」
「地下構造の測定結果は公表されておりますか?」
「機密資料に分類されているが、特別顧問には閲覧を許可する」
レティシアの青い瞳が明確に輝いた。
完璧な公爵令嬢の仮面は保たれている。
だが古代遺物の話になると、感情を隠す壁が一枚ずつ薄くなるらしい。
ルークは一言も聞き漏らすまいとするように、彼女を見つめていた。
『所有者の発話速度が通常の一・六倍へ上昇しています』
「セネカ」
『古代遺物に関する話題への強い興奮が原因です』
「解説をやめなさい」
『しかし、貴重な変化です!』
ジョンまで加わった。
『氷の令嬢、古代遺物を前に解凍が始まったぁ!』
「ジョンもお黙りなさい」
レティシアの頬へ、かすかな赤みが差している。
ルークはそれを見たまま動かなくなった。
「殿下?」
返事がない。
金色の瞳が、レティシアの顔へ釘づけになっている。
『皇太子殿下の心拍数が急上昇しました』
セネカの低い声が響いた。
ルークの肩がわずかに動く。
『一撃で仕留められたぁぁ!』
「仕留める?」
レティシアは不思議そうに首を傾げた。
「何のことでございましょう?」
「問題ない」
ルークはどうにか答えた。
帝国の頭脳と呼ばれる男が、それだけの言葉を口にするため、外交会談以上の集中力を使っている。
「少し、予想外だっただけだ」
「何がです?」
「君が、そういう顔で笑うことが」
レティシアの表情が止まった。
昨夜も今朝も、彼女は何度も微笑んでいる。
けれどそれは、公爵令嬢として身につけた礼儀であり、社交のための装いだった。
今の笑みは違う。
研究の話に夢中になり、自分が笑っていることさえ忘れた末に生まれたものだ。
それを指摘された経験は、ほとんどなかった。
レティシアは目を伏せた。
「失礼いたしました」
「なぜ謝る」
「皇太子殿下との会談中に、はしたなく興奮してしまいましたので」
「謝る必要はない」
ルークの声が、少しだけ柔らかくなる。
「できれば、今後も見たい」
『皇太子殿下、ここで率直な希望を表明!』
『恋愛的意図を含む可能性は、現時点で四十八パーセントです』
「分析するな」
ルークが初めて双響鏡を止めた。
『ご意見として記録します』
「それと、もう一つ」
ルークはレティシアへ向き直る。
「これは、帝国皇太子としての条件提示とは関係がない」
「何でしょう?」
「私個人の希望だ」
ルークは机上の分析ノートへ手を置いた。
「今後も君の作る展開を、最前列で見たい」
「展開、でございますか?」
「証拠と論理によって、虚飾が崩れていく瞬間だ」
ルークの瞳に、再び危険な熱が宿る。
「できれば、この実況も一生聞いていたい」
レティシアは数秒、言葉を失った。
情熱的な求愛ではない。
少なくとも、一般的な意味では。
けれど、この男なりの最大級の賛辞であることは、なぜか理解できた。
レティシアの口元へ、小さな笑みが戻る。
「まずは、正式な契約からお願いいたします」
「ああ」
ルークは頷いた。
「その先については、帝国で交渉しよう」
『将来的な追加交渉が予告されました!』
『契約内容は慎重に確認することを推奨します』
レティシアは双響鏡の入ったケースを閉じた。
少し遅れて、屋敷の外から複数の馬が駆けてくる音が聞こえる。
息を切らした帝国の護衛たちが、ようやく追いついたらしい。
ルークは窓の外へ目を向けた。
「思ったより早かった」
「置いていかれた方々に、まず謝罪なさってくださいませ」
「分かった」
あまりにも素直な返事だったため、レティシアは目を瞬かせた。
自分の忠告を聞き、理解し、実行しようとする皇太子。
それは本来、驚くほどのことではない。
それでも彼女には、古代遺物に劣らぬほど珍しい存在に思えた。




