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第五章 婚約破棄、史上最速で正式成立

国王は大股でエドバードへ近づいた。

歩くたびに外套が激しく揺れ、その背後では財務大臣が半ば走るようについていく。

王妃は一定の速度を崩さない。

ただし、彼女の周囲だけ冬の宮殿よりも冷え切っているように見えた。

エドバードは国王を迎えるため、慌てて姿勢を整えた。


「父上、お聞きください!」

「聞いておったわ!」


国王の怒声が大広間へ響く。


「王宮の執務室で、最初から最後までな!」

「それならば話が早い!」


エドバードは胸へ手を当てた。


「レティシアが不敬な魔道具を使い、俺とマリアの真実の愛を――」


国王の右拳が持ち上がった。

会場中の者が息をのむ。

エドバードは目を閉じる。

だが拳が振り下ろされる直前、王妃の冷たい声が飛んだ。


「陛下」


国王の動きが止まる。


「何だ!」

「現在も王都全域へ中継されております」

「分かっておる!」


国王は拳を震わせた。


「分かっているからこそ、一発くらい殴らせろ!」

「暴力による教育の失敗例を、これ以上国民へお見せになるおつもりですか?」


国王の拳が、ゆっくりと下がった。

王妃の言葉は、息子への怒りだけでなく、夫への批判も含んでいる。

エドバードを甘やかし、問題が起きるたび側近や婚約者に処理させてきた責任は、国王夫妻にもあった。


『国王陛下、辛うじて理性を維持しました』

『拳はまだ震えております!』


「実況するでない!」


『ご意見として記録します』


国王は大きく息を吸い、何度か吐いた。

怒りを押さえようとしているが、エドバードの顔を見るたび呼吸が荒くなる。

財務大臣が国王の横へ進み出た。

彼は空中に並ぶ資料へ目を向け、顔を引きつらせる。


「双響鏡よ」


『はい』


「これらの会計記録は、原本と照合済みか」


『王国財務局の予算台帳、王宮会計部の支払記録、各店舗の領収証、及び関係者の魔力署名と照合済みです』


「改竄の可能性は」


『検出されておりません』


財務大臣は目を閉じた。


「間違いであってほしかった」


『心中お察しいたします』


「セネカ殿は優しいのだな」


『事実を述べたまでです』


司法長官も光幕の前へ立った。

表示された許可証と証拠一覧を順に確認する。


「双響鏡による復元映像は補助証拠に留まるが、会計資料は正式な捜査を開始するに十分だ」


彼は国王へ向き直った。


「陛下、公金流用の疑いについて、司法局は第一王子殿下への事情聴取を要請いたします」

「第一王子だぞ!」


エドバードが声を荒らげる。


「それがどうした」


司法長官は眉一つ動かさない。


「王族ならば、国法に従わなくてもよいとお考えですか」

「未来の国王には、国家運営のために金を使う裁量がある!」

「マリア嬢への首飾りが、どのように治水へ貢献するのでしょう」

「それは……未来の王妃としての威厳を整えるためだ!」


マリアが大きく首を横へ振った。


「私は関係ありません!」


エドバードが振り返る。


「マリア?」

「殿下が勝手に買ったんです!」

「君が欲しがったのだろう!」

「欲しいとは言ってません!」


『先ほどと同一の論争が再開しました』

『両者、一歩も譲らない!』

『もっとも、譲るべきは責任であって、相手へ押しつけるものではありません』


国王はこめかみを押さえた。


「まず、その女を黙らせよ」

「ひどいですぅ!」


マリアは反射的に悲劇のヒロインへ戻った。


「陛下まで、身分の低いマリアを虐げるのですねぇ」


王妃がゆっくりと彼女を見る。


「ローゼンジ男爵令嬢」

「は、はいぃ」

「あなたが現在身につけている宝飾品と衣装は、いずれも国費で購入されたものですね」

「殿下からの贈り物ですぅ」

「国費で購入された品です」

「もうマリアのものですぅ」

「犯罪行為によって取得された可能性のある品は、証拠物件として回収します」

「嫌ですぅ!」


マリアは首飾りを両手で押さえた。

王妃が財務局の係官へ目配せする。

女性係官が二人、マリアへ近づいた。

彼女たちの手には、証拠物件を収めるための箱がある。


「お預かりいたします」

「嫌!」

「抵抗なさらないでください」

「これは私の首飾りよ!」


マリアは柱の陰へ逃げた。

係官たちが追う。

マリアは胸元を押さえたまま、長卓の周囲を回った。


『ここで新たな追跡競技が始まりました!』

『財務局職員は、業務を遂行しているだけです』


「実況しないで!」


マリアは花瓶を避け、椅子を飛び越えようとした。

しかし豪華なドレスの裾が椅子の脚へ絡まり、その場で転びかける。

慌てて柱へしがみついた。


「この首飾りは絶対に渡さない!」

「ローゼンジ男爵令嬢」


係官の一人が帳簿を確認した。


「そちらのドレスも国費で仕立てられた品です」


マリアが固まる。


「ドレスも?」

「はい」

「まさか、今ここで脱げって言うの!?」

「別室に着替えをご用意します」

「人でなし!」

「人道的配慮として、着替えを用意しております」


マリアは柱へさらに強くしがみついた。


「そのドレスを持っていくなら、あっちの男から先に取りなさい!」


指をさされたエドバードが目を剥く。


「なぜ俺なのだ!」

「あんたが盗んだお金で買ったんでしょう!」

「愛する君のためにしたことだ!」

「そんな愛は返品するわよ!」


『真実の愛、返品手続きに入りましたぁ!』

『返品期限は過ぎている可能性があります』


王妃は額を押さえた。


「別室へ連れていきなさい」


女性係官だけでは手に負えず、侍女が四人追加された。

マリアは柱へしがみついたまま抵抗する。

最終的には侍女たちが柱から指を一本ずつ外し、そのまま抱えるようにして連れていった。


「宝石だけは駄目ぇ!」


遠ざかっていく悲鳴が、廊下へ響く。


「せめて靴は残してぇ!」


扉が閉じた。

大広間に静けさが戻る。

ジョンの赤金色の輪が名残惜しそうに回っていた。


『素晴らしい粘りでした』

『褒めるべき行動ではありません』



国王は改めてエドバードへ向き直った。


「お前には、王宮へ戻り次第、正式な事情聴取を受けてもらう」

「父上」

「それまで、王族としての職務を停止する」

「お待ちください!」


エドバードは両手を広げた。


「全てはレティシアの策略です!」


レティシアはカップへ伸ばしていた手を止める。

国王の眉間に深い皺が刻まれた。


「何だと?」

「この女は、最初から俺を陥れるつもりだった!」


エドバードはレティシアへ指を突きつけた。


「俺を愛するふりをしながら、裏では王家の実権を握ろうとしていたのです!」

「証拠はあるのか」

「この夜会こそ証拠です!」

「お前が婚約破棄を宣言し、公金流用を自白した夜会がか?」

「言葉の罠にかけられたのです!」


『殿下の発言内容は、ほぼ自発的なものです』


「魔道具も共犯だ!」


『当機は道具です』

『実況人格は一部、自発的に盛り上がっております!』


「自白したぞ!」


『不正への加担はしておりません』


エドバードは国王へ縋るような目を向けた。


「父上、考えてもみてください!」

「レティシアはこれまで、俺の仕事へ必要以上に口を出してきた!」

「外交も、予算も、演説も、全て自分の思い通りにしようとしていたのです!」

「やはり王家を乗っ取るつもりだったに違いありません!」


レティシアは何も言わなかった。

言うべきことは、資料の中に揃っている。

その沈黙を、双響鏡は正確に理解した。


『エドバード殿下とレティシア嬢の過去十年間の業務記録を確認します』


新たな光幕が展開される。

そこへ、膨大な数の項目が並び始めた。

王子の提出書類の修正。

外務省との連絡調整。

他国使節への応対。

王子主催行事の予算案作成。

欠席した会議への代理出席。

無礼を働いた相手への謝罪。

未払いとなっていた飲食費の立て替え。

忘れていた演説原稿の執筆。

紛失した教本の再手配。

剣術大会で敗北した際、審判へ抗議しようとする王子の制止。

寝坊した王子を起こすため、朝六時に王宮を訪れた記録まである。

一覧は壁を越え、天井近くまで伸びていく。


『レティシア嬢が、殿下の職務及び学業を直接支援した回数を集計します』


数字が加算される。

その速度を見て、国王の顔から怒りが消えた。

代わりに現れたのは、深い困惑と羞恥だった。


『合計、三千八百二十一回です』

『圧倒的支援回数!』

『一日平均一回を超えています』


王妃が目を閉じる。


「そこまでだったのですね」


彼女の声は、ほとんど独り言だった。

レティシアは否定も肯定もしない。


『なお、支援に対してエドバード殿下が感謝を伝えた回数は、二回です』

『少ない!』

『うち一回は、レティシア嬢を料理人と間違えて述べたものです』

『実質一回だぁぁ!』


大広間から、呆れたようなため息が上がる。

エドバードは光幕を睨んだ。


「婚約者が支えるのは当然だ!」


『当然という主張を記録しました』


「レティシアは未来の王妃になる女だったのだ!」

「俺を助け、王家へ尽くすのは義務ではないか!」


その言葉を聞いても、レティシアの表情は変わらなかった。

ただ、カップの縁へ添えた指先から、わずかに力が抜ける。

これまでは、義務だと思っていた。

エドバードを支えることが国を守ることにつながり、国のために働くことが公爵令嬢としての存在意義になる。

そう信じていた。

けれど、その献身によって生み出されたのは、何もしなくても誰かが助けてくれると信じる王子だった。

レティシアが完璧であろうとするほど、エドバードは自分の不完全さと向き合わなくて済んだ。

彼女もまた、彼の愚かさを支える構造の一部になっていたのである。


「おっしゃる通りですわ」


レティシアが口を開く。

エドバードの顔に、勝ち誇った色が浮かんだ。


「そうだろう!」

「私は、未来の王妃として殿下を支えることが義務だと考えておりました」

「ならば――」

「ですが、今夜をもってその役目を終えたく存じます」


王子の表情が止まる。

レティシアは国王の前へ進んだ。

背筋を伸ばし、両手を身体の前で重ねる。

それから、公爵令嬢として非の打ちどころのない礼をした。


「国王陛下」

「何だ」

「先ほどエドバード殿下より、婚約破棄のご意思が示されました」

「うむ」

「私もまた、殿下との婚姻関係を結ぶ意思はございません」


大広間が静まる。

王都中の魔導鏡の向こうでも、民衆が息を潜めている。


「つきましては、王家とヴァンガード公爵家の婚約契約を、双方合意の上で解消していただきたく存じます」


エドバードが目を見開いた。


「待て!」


レティシアは振り返らない。


「公爵家には、すでに父を通して解消への同意をいただいております」

「いつの間に!」

「昨日でございます」

「俺が婚約破棄を宣言すると知っていたのか!」

「殿下の側近が、夜会用の断罪台本を印刷所へ発注しておりましたので」


光幕に、派手な表紙の台本が映る。

題名は『真実の愛と氷の悪女』。

作者名はエドバード・フォン・グラディス。

全七幕、上演予定時間二時間半。

会場の者たちは、先ほどまでの騒動がまだ第一幕相当だったことを知り、別の意味で青ざめた。


『殿下自らが執筆した台本です』

『今夜は二時間半の予定だったぁ!』

『双響鏡の介入により、大幅な時間短縮に成功しました』


レティシアは初めて、双響鏡へ心から感謝した。

国王は長く目を閉じた。

やがて王妃を見て、司法長官を見て、最後にレティシアへ向き直る。


「ヴァンガード公爵令嬢」

「はい」

「王家の不始末により、そなたの名誉を傷つけた」


国王が頭を下げた。

王が臣下へ頭を下げる。

本来ならば、滅多にあってはならない光景である。

王妃もまた、国王の隣で静かに頭を下げる。


「十年もの間、息子を支えてくれたことに感謝する」


国王の声には、疲労と後悔がにじんでいた。


「そして、その献身を当然のものとして扱ったことを、王家を代表して謝罪する」

「陛下」

「王家は、エドバード・フォン・グラディスとレティシア・ヴァンガードの婚約契約を、正式に解消する」


光幕へ、司法長官が用意した文書が表示された。

国王の魔力署名。

王妃の署名。

ヴァンガード公爵家の事前署名。

最後にレティシアが指先を触れると、青い光が契約書の上を走る。


《婚約契約・解消成立》


『正式な婚約解消を確認しました!』

『エドバード殿下による最初の宣言から、所要時間は一時間十二分です』

『史上最速級の王族婚約解消だぁぁ!』


王都の映像から、大きな歓声が届いた。

レティシアは頭を下げる。


「ご配慮に、心より感謝申し上げます」


顔を上げた彼女は、いつも通りの微笑みを浮かべていた。

けれど、胸の内側では、長年締めつけられていた見えない紐がほどけていく。

明日の朝、王子の予定表を確認しなくてよい。

未提出の書類を探す必要もない。

他国の大使へ、王子の失言を謝罪する必要もない。

王子が寝坊したという理由で、早朝の会議へ代理出席することもない。

そして、王立図書館の地下書庫には、まだ解読を終えていない古代文書が二百八十七点ある。

三年前に発見された北方遺跡の出土品にも、用途不明の魔力回路が残されている。

明日からは、その研究に時間を使える。

湧き上がった解放感は、レティシアが想像していた以上に大きかった。


『所有者の心理状態に、強い歓喜反応を確認しました』


セネカが告げる。


『ついに自由だぁぁ!』


レティシアの微笑みが、ほんのわずかに引きつった。


「セネカ」


『はい』


「そこまで解説しなくて結構です」


『承知しました』


「待て!」


エドバードが叫んだ。


「俺は認めていない!」


『最初に婚約破棄を宣言したのは、殿下です』


「それはレティシアに反省を促すためだ!」


『破棄を宣言しておきながら、成立すると拒否するという矛盾を確認しました』


「俺が本気で捨てるはずがないと、レティシアなら分かっている!」


レティシアは、ようやく彼を振り返った。


「分かりませんでしたわ」

「嘘をつくな!」

「本気でない婚約破棄を、八十万人以上の前で宣言なさる理由を、私は理解できません」

「俺を愛しているなら、止めるべきだった!」

「殿下」


レティシアは静かに微笑んだ。


「私はもう、あなたのお守り役ではございません」


その言葉は怒声よりも鋭く、エドバードの顔から血の気を奪った。

国王が近衛騎士へ命じる。


「エドバードの王族としての職務を全て停止せよ」

「父上!」

「王位継承権についても、緊急王族会議へ剥奪を提案する」

「そんな!」

「事情聴取が終わるまで、王都外の直轄領で謹慎を命じる」


司法長官が補足する。


「公金流用の事実が確定した場合、王位継承権剥奪に加え、損害賠償と刑事処分の対象となります」

「俺は真実の愛を貫いただけだ!」


『真実の愛と横領は、法的には別の概念です』


近衛騎士たちがエドバードを囲む。

彼は抵抗しようとしたが、長杖を振り回して転んだばかりであり、体力はほとんど残っていない。


「これは試練だ!」


連行されながら、エドバードは叫んだ。


「天が英雄たる俺に与えた試練なのだ!」


『現実逃避の継続を確認しました』

『王子選手、逆境を全て物語の展開として処理していくぅ!』


「レティシア!」


エドバードは扉の向こうへ消える直前、声を張り上げた。


「いつか必ず、俺の愛が正しかったと分からせてやる!」


扉が閉じる。

大広間に静けさが戻った。

少し遅れて、別室からマリアの悲鳴が聞こえる。


「その靴は本当に私物よ!」


『別会場では、引き続き所有権をめぐる攻防が続いております』

『中継はいたしません』


「それで結構です」


レティシアはようやく椅子へ腰を下ろした。

国王たちは今後の対応を協議し始め、財務官僚は会計資料の複写に取りかかっている。

夜会は完全に中断されていた。

卒業生たちは帰るべきか残るべきか分からず、所在なさげに立っている。

楽団の指揮者は、この状況に合う曲を見つけられないのか、譜面を何度もめくっていた。

そのとき、双響鏡の青銀色の輪が点滅した。


『国外からの通信接続要求を受信しました』


「国外から?」


レティシアは眉をわずかに動かした。


『送信元は、ヴァルハイト帝国皇太子府です』


会場が再びざわめく。

ヴァルハイト帝国は、グラディス王国の北東に位置する大国である。

その第一皇太子ルーク・ヴァルハイトは、若くして複数の行政改革を成功させた人物として知られていた。

冷徹無比。

帝国の頭脳。

微笑まぬ皇太子。

そんな異名を持つ相手が、なぜこの騒動の最中に通信を求めてくるのか。


「接続してくださいませ」


『承知しました』


光幕の映像が切り替わる。

黒髪に金色の瞳を持つ青年が映った。

整った顔立ちには隙がなく、黒を基調とした軍装には帝国皇太子の紋章が輝いている。

噂通り、冷徹な印象の男だった。

ただし、机の上には大量の紙が散らばっていた。

どの紙にも、実況の時刻、証拠提示の順序、観客の反応などが細かく記録されている。

ルークは片手にペンを握り、頬をわずかに紅潮させていた。


「素晴らしい」


通信がつながるなり、彼は言った。

レティシアは目を瞬かせる。


「何が、でございましょう?」

「全てだ」


ルークは迷いなく答えた。


「告発の順番」

「観衆心理の誘導」

「証拠を一度に出さず、相手の反論を待ってから次の資料を提示する構成」

「王子の虚栄心を利用し、自ら資産の話題へ踏み込ませた手腕」

「そして、会場がどれほど混乱しても崩れない、その微笑み」


ルークの金色の瞳が、強い光を宿している。


「特に、資産額の提示前にマリア嬢へ期待させた間が美しい」

「偶然でございます」

「違う」


即答だった。


「あれは計算された沈黙だ」


レティシアは返事をしなかった。

初対面の相手から、自分の意図をここまで正確に読み取られたのは初めてである。

ルークは紙の一枚を持ち上げた。

そこには大きな文字で、「金無しカボチャ・使用時期に改善の余地あり」と記されていた。


「実況の語彙には、多少改善できる点がある」


『具体的な案をお持ちですか』


セネカが尋ねる。


「現在の総資産を、身近な品へ換算するとよい」


『例をお願いします』


ルークは真剣な顔で答えた。


「パンの耳二個」


沈黙が落ちた。

レティシアは、帝国の頭脳と呼ばれる男を見つめる。

彼の顔に冗談を言っている様子はない。


『採用候補として記録します』


「セネカ?」


『表現として簡潔かつ印象的です』


ルークは満足そうに頷いた。


「理解の早い解説者だ」


『お褒めにあずかり光栄です』


レティシアは、わずかな頭痛を覚えた。

どうやら隣国の皇太子は、有能であることに疑いはないものの、別の方向で厄介な人物らしい。

ルークは姿勢を正した。

先ほどまでの熱気を抑え、皇太子らしい威厳を取り戻す。


「レティシア・ヴァンガード公爵令嬢」

「はい」

「君の能力を、帝国は高く評価する」

「光栄に存じます」

「率直に言おう」


ルークは金色の瞳で、真っすぐにレティシアを見つめた。


「君と、その双響鏡が欲しい」


会場から、驚きの声が上がる。

国王も、王妃も、協議を中断して光幕を振り返った。

ルークは周囲の反応を気にせず続ける。


「帝国古代魔道研究院の特別顧問」

「外交政策補佐官」

「必要な研究予算と専用施設」

「帝国書庫及び遺跡への優先調査権」


条件が一つずつ提示される。

最後の条件を聞いた瞬間、レティシアの青い瞳が輝いた。

本当に一瞬だけの変化だった。

しかしルークは見逃さない。

彼の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「帝国へ来てくれないか」


レティシアは光幕の向こうの男を見つめた。

今夜、婚約を失った。

同時に、十年間背負い続けた役割から解放された。

その直後、今度は隣国の皇太子から、まったく新しい道を示されている。

あまりにも展開が早い。

けれど、不思議と悪い気はしなかった。

ジョンが、声を抑えようとして失敗した音量で叫ぶ。


『ここでまさかの隣国皇太子から大型スカウトだぁぁ!』

『待遇交渉へ移行することを推奨します』


レティシアは冷めかけた紅茶を飲み干した。

長い夜は、まだ終わりそうにない。

だが、彼女の人生を縛っていた物語は、確かにここで幕を閉じた。

そして新しい物語は、双響鏡の騒がしい声とともに、すでに始まっている。






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