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第十章 皇太子殿下、恋愛だけは論理で解けません

セルディア共和国との交渉から三日後、レティシアのもとへ一通の招待状が届いた。

黒い封筒には、皇太子家を示す金色の紋章。

内部の便箋には、端正な文字で日時と場所が記されている。


《明日十九時、皇宮西棟の小食堂にて、私と夕食を共にしてほしい》

《所要時間は二時間を予定する》

《議題は設けない》


レティシアは最後の一文を、三度読み返した。

皇太子との夕食。

所要時間は二時間。

議題なし。

つまり会議ではない。

では何のために食事をするのか。

彼女が招待状を前に考え込んでいると、机上の双響鏡が起動した。


『一般的には、デートと呼ばれるものです!』


ジョンが待ちきれないように宣言した。


「デート」


『恋愛感情を持つ、もしくは親密になりたい二者が、私的な時間を共有する行為です』


セネカが解説する。


「定義は存じております」


レティシアは招待状を机へ戻した。


「ですが、殿下は議題を設けないと明記なさっています」


『それが、私的な食事である証拠です!』


「議題がないのに、二時間も何を話すのでしょう」


『趣味、好み、日常の出来事、将来の希望などが一般的です』


「話し合うべき事項が明確ならば、議題があるのでは?」


『所有者、私的会話を会議として再定義しようとしています』


セネカの指摘に、レティシアは口を閉じた。

恋愛や親しい交際とは、彼女にとって未知の分野である。

エドバードとは十年以上婚約していた。

けれど二人きりで食事をした記憶は、ほとんどない。

王子は食事中も自分の話ばかりしていた。

剣術の授業でどれほど格好よく勝利したか。

舞踏会で何人の令嬢から見つめられたか。

自分が国王となれば、歴史書へ何頁掲載されるべきか。

レティシアは適切な相槌を打ち、食事の作法を注意し、翌日の予定を伝えた。

あれは婚約者同士の時間ではない。

教育係と生徒の時間だったのだろう。


「お断りする理由はございません」


レティシアは便箋を畳んだ。


『参加決定です!』


「親交を深めることは、今後の業務にも有益ですから」


『業務上の理由を追加しました』


「事実です」


『本当に、それだけですか?』


ジョンが尋ねる。

レティシアは答えなかった。

招待状を引き出しへ収める指が、いつもより慎重になっていた。



翌日の十九時。

皇宮西棟の小食堂へ入ったレティシアは、想像していたより控えめな光景に迎えられた。

長大な晩餐卓も、何十人もの楽師もいない。

丸い卓と二脚の椅子。

窓辺には小さな花が飾られている。

給仕も最小限だった。

ルークは先に到着していた。

彼はレティシアの姿を見ると立ち上がり、椅子を引く。


「来てくれて感謝する」

「お招きいただき、ありがとうございます」


レティシアは椅子へ腰を下ろした。

卓上には、複数の料理が並んでいる。

いずれも帝国の伝統料理だが、香辛料や油が控えめに調整されていた。

長旅の初日、レティシアが重い食事をあまり取らなかったことを覚えていたのだろう。

ルークも向かいへ座る。

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

普段ならば、資料を広げればよい。

交渉相手の要求や、古代遺物の年代を語れば、会話は自然に始まる。

今夜は議題がない。

その事実が、かえって二人を緊張させていた。


「今日の研究は、どうだった?」


先に口を開いたのはルークだった。


「地下保管庫の石板について、新しい発見がございました」

「聞かせてくれ」


レティシアの瞳が輝く。


「石板へ刻まれた波形は、音声を記録するためのものではございませんでした」

「では、何のための回路だ?」

「観衆の反応を数値化するためです」

「古代王国では、裁判へ参加した市民の感情を測定し、判決の受容度を確認していた可能性があります」

「ただし、判決を人気投票で決めたわけではございません」

「民衆が納得していない場合、司法官が説明を追加するための補助機能だったようです」


話し始めると止まらない。

古代文字の配置。

魔力回路の摩耗。

双響鏡との共通点。

レティシアは身振りを交え、研究結果を説明していく。

普段の彼女なら、話が長すぎると気づいた時点で口を閉じただろう。

けれどルークは遮らない。

理解しているふりをするだけでもない。


「感情を測定した結果は、どこへ保存される?」

「中央演算器です」

「石板自体には残らないのか?」

「そこが興味深い点でして――」


的確な質問が返ってくる。

レティシアはますます夢中になった。

料理が運ばれてきたことに気づかず、給仕が皿を置くまで説明を続けている。

やがて我に返り、頬へ赤みを浮かべた。


「申し訳ありません」

「何がだ?」

「私ばかり話してしまいました」

「私が聞いた」

「ですが、退屈ではございませんでしたか?」

「なぜ退屈する」


ルークは不思議そうに言った。


「君が面白いと思うものを、君の言葉で聞いている」

「私には価値のある時間だ」


レティシアの胸の奥が、温かくなる。

エドバードは彼女が古代史を語り始めると、決まって退屈そうな顔をした。

王妃に不要な道楽だと言い、そんな時間があるなら自分の演説原稿を書くよう求めた。

好きなものについて話すことは、相手へ迷惑をかける行為。

いつしか、そう思うようになっていた。


「殿下は、お変わりになっていますね」

「よく言われる」

「否定なさらないのですか?」

「観察結果として正しい」


ルークは平然と食事を続ける。


「君も、かなり変わっている」

「まあ」


レティシアは目を細めた。


「女性へ向かって、変わっているとおっしゃるものではございません」

「訂正する」


ルークはすぐに言った。


「非常に興味深い」

「訂正になっておりますか?」


『皇太子殿下、恋愛会話における適切な表現を模索中です!』


卓上に置かれた双響鏡から、ジョンの声が響く。


『現時点の採点は、四十五点です』


「何点満点だ?」


『百点です!』


「低いな」


『改善の余地があります』


セネカが冷静に告げる。


「参考にしよう」


ルークは真面目な顔で頷いた。

レティシアはとうとう耐えきれず、声を上げて笑った。

笑い声は、皇宮の小食堂へ柔らかく広がる。

ルークは食事の手を止めた。

彼女を見つめる目が、少しだけ熱を帯びている。


「その顔だ」

「何でしょう?」

「初めて会った日にも見た」

「研究の話をしていたときの顔だ」

「私は、その顔が好きらしい」


レティシアの笑みが止まった。

ルークは言った後で、自分の発言を分析しているようだった。


「らしい、でございますか?」

「恋愛感情については、比較対象となる経験が少ない」

「仮説を立てている段階だ」

「そのようなことまで、研究のように扱うのですね」

「不確かなまま断定するよりよいだろう」


ルークは真剣だった。

レティシアは、その不器用な誠実さを好ましく思う。

同時に、胸の内側へ小さな不安が生まれる。

彼が惹かれているのは、優秀な研究者としての自分。

外交で役に立ち、双響鏡を巧みに扱う自分。

だから興味を持っているのではないか。

もし研究で成果を出せなくなったら。

もし判断を誤ったら。

もし今のように、価値のある存在でいられなくなったら。

そのときも、彼は同じ目で自分を見るのだろうか。

レティシアは微笑んだ。

不安を覆い隠すには、長年使い慣れた表情だった。


「光栄に存じます」


ルークの瞳がわずかに細められる。

何かが変わったことには気づいたようだ。

けれど、その理由までは分からない。

帝国の頭脳であっても、完璧な笑みの内側を読むことはできなかった。

双響鏡は何も言わない。

所有者の許可なく、私的な感情を暴露しないという規則を守っている。



その食事から一週間後、レティシアは初めて会議を欠席した。

朝、研究室へ向かおうとして、寝室で倒れたのである。

原因は単純な疲労だった。

帝国へ移住してから、研究と外交の両方に熱中しすぎた。

食事は取るようになったものの、睡眠時間までは十分に確保していなかった。

侍女が異変に気づき、医師を呼ぶ。

知らせを受けたルークは、予定していた軍務会議を副官へ任せ、すぐにレティシアの邸宅へ駆けつけた。

寝室へ入ることはせず、扉の外で医師の診断を待っている。


「深刻な病ではございません」


診察を終えた医師が説明した。


「睡眠不足と過労です」

「何日休ませるべきだ?」

「最低でも三日」

「一週間にしよう」

「殿下」


扉の内側から、レティシアの声が聞こえた。


「三日で十分でございます」

「起きていたのか」

「今の会話で目が覚めました」


声には普段の張りがない。

ルークは扉を軽く叩いた。


「入ってもよいか?」

「はい」


許可を得てから入室する。

レティシアは寝台の上半身を起こしていた。

銀髪は下ろされ、化粧もしていない。

いつもより幼く、頼りなく見える。

彼女はルークの姿を見るなり、頭を下げようとした。


「申し訳ございません」

「なぜ謝る」

「本日の会議へ出席できませんでした」

「君がいなくても会議は進む」


その言葉に、レティシアの顔がわずかにこわばる。

ルークはすぐに続けた。


「君が不要という意味ではない」

「君一人が欠けただけで止まる組織にはしない、という意味だ」

「ですが、私が担当していた資料が――」

「副官が引き継いだ」

「共和国への書簡は?」

「私が確認した」

「研究院の石板は、保存処理の時期が――」

「研究院長が延期した」

「殿下のご予定まで、私のために変更なさったのですか?」

「そうだ」


ルークは迷いなく答えた。


「君が倒れたのだから、当然だろう」

「私が不在でも、問題はなかったのですね」


レティシアの声は静かだった。

その言葉に含まれる感情を、ルークは正確に捉え切れない。

不在でも問題がないと知って安心したのか。

それとも、自分がいなくてもよいと傷ついたのか。

彼女の表情は、いつもの微笑みへ戻りかけている。

ルークは寝台の近くに置かれた椅子へ座った。


「レティシア」

「はい」

「君は、自分がいなければ全てが止まる状況を望んでいるのか?」

「いいえ」

「では、なぜ不安そうに見える?」


レティシアは答えなかった。

窓の外へ視線を移す。

春の風が、薄いカーテンを揺らしている。


「私は、役に立つために帝国へ招かれました」


やがて彼女は口を開いた。


「研究と外交で成果を出すことが、私の役割です」

「それを果たせず、殿下のお手を煩わせております」

「契約上、休息も職務の一部だ」

「契約の話ではございません」


言葉が少し強くなる。

レティシア自身も驚いたように口を閉じた。

ルークは怒らない。

彼女の次の言葉を待っている。

レティシアは毛布の上で指を握った。


「もし私が、役に立たなければ」


声がかすかに震える。


「研究で成果を出せず、外交で判断を誤り、双響鏡も扱えなくなれば」

「そのとき、私は帝国にとって何なのでしょう」


ルークはようやく、問いの意味を理解した。

これは帝国における地位の話ではない。

彼女が自分自身へ抱いている価値の話である。


「君は、役に立たなければ価値がないと思っているのか」


レティシアは否定しなかった。

グラディス王国では、有能であることを求められた。

完璧だから必要とされた。

仕事ができるから、王子の隣に置かれた。

それ以外の自分を、誰かに見せた経験がない。

ルークはしばらく考えた。

外交であれば、相手が求める言葉を瞬時に選べる。

軍略であれば、複数の状況を予測し、最適解を導ける。

だが、今のレティシアへ何を言えばよいのか。

不思議なほど答えが見つからなかった。


「私は、君が苦しむのを見たくない」


ようやく出たのは、理屈になっていない言葉だった。

レティシアが彼を見る。


「帝国の損失だから、ではない」

「研究が遅れるからでも、外交へ影響するからでもない」


ルークは自分の感情を、一つずつ確かめながら言葉にする。


「君が眠れず、食事を忘れ、倒れるまで働くのが嫌だ」

「なぜ、と聞かれても、今の私には完全な説明ができない」

「ただ、君が苦しむのを見たくない」


レティシアの瞳が揺れる。

ルークは続けた。


「君が失敗したなら、修正すればいい」

「成果が出ないなら、別の方法を探す」

「双響鏡を扱えなくなったなら、ジョンの大声を聞かずに済む」


『聞こえています!』


部屋の隅から抗議が飛んだ。

ルークは無視する。


「何もできない日は、何もしなくていい」

「そのために、私や研究院や皇太子府がいる」

「君が一人で、全てを背負う必要はない」


レティシアの目へ、薄い涙が浮かぶ。

彼女は顔を背けようとした。

ルークは手を伸ばしかけ、途中で止める。

触れてよいか分からなかったからだ。

代わりに、椅子へ座ったまま尋ねる。


「ここにいてもよいか?」

「……はい」

「君が眠るまで」

「殿下には、ご公務が」

「副官がいる」

「ご迷惑では?」

「私が望んでいる」


レティシアは毛布へ身体を預けた。

目を閉じても、すぐには眠れない。

ルークが本を取る音が聞こえる。

彼はただ隣にいる。

仕事を求めず、答えを求めず、完璧な微笑みも求めない。

その静けさの中で、レティシアはいつしか眠りへ落ちていた。



一週間後、体調を戻したレティシアは皇宮の庭園を歩いていた。

隣にはルークがいる。

過労を防ぐため、研究時間は一日八時間までと決められた。

レティシアは当初反論したが、ルーク自身も休息日を設けることを条件に受け入れた。


「殿下」

「何だ」

「先日は、ありがとうございました」

「礼を言われることではない」

「それでも、申し上げておきたかったのです」

「そうか」


二人は並んで歩く。

春の花が咲き、風に乗って甘い香りが漂っていた。

ルークは何度か口を開こうとして、やめる。

いつもの彼らしくない。


「何かお話があるのですか?」


レティシアが尋ねる。


「ああ」


ルークは足を止めた。


「君との関係について、提案がある」

「提案?」

「長期的かつ排他的な協力関係を――」


『婚姻提案の可能性があります』


セネカが即座に分析した。

ルークの言葉が止まる。


「まだ最後まで言っていない」


『表現が条約締結です!』


ジョンが叫ぶ。


『ロマンチック指数、十二点!』


「低すぎないか?」


『百点満点です!』


「改善案は?」


『まず協力関係という表現をやめることを推奨します』


ルークは眉間へ皺を寄せた。

帝国の頭脳が、たった一つの言葉を前に深刻な苦戦を強いられている。

レティシアは扇で口元を隠した。

肩が震えている。


「笑っているのか?」

「申し訳ありません」

「いや」


ルークは小さく息を吐いた。


「君が笑うなら、十二点にも価値はある」


レティシアは扇を下ろした。


「殿下」

「何だ」

「お申し出の内容は、何となく理解しております」

「答えを聞いても?」

「今は、まだ」


ルークの顔に、わずかな落胆が現れる。

レティシアは慌てて続けた。


「お断りするという意味ではございません」

「私は、殿下を信頼し始めております」

「ですが、自分の気持ちを、まだ正確に理解できておりません」

「ですから、少しだけお待ちいただけますか?」


ルークは彼女を見つめた。


「分かった」

「急かさないのですか?」

「君が決めることだ」

「殿下にとって、非効率ではございませんか?」

「恋愛に効率を求めると、セネカに十二点をつけられる」


レティシアは再び笑った。

今度は扇で隠さなかった。

ルークも、ほんの少しだけ笑う。

二人の間にある距離は、まだ完全には埋まっていない。

けれど、その距離を急いで越える必要はなかった。

互いの歩幅を知り、同じ速度で進めばよい。



その頃、グラディス王国北部の開拓地では、泥にまみれたエドバードが一枚の新聞を握り締めていた。

見出しには、帝国議会でのレティシアの活躍と、セルディア共和国との交渉成功が大きく報じられている。

その下には、さらに刺激的な一文があった。


《氷の令嬢、帝国皇太子の最有力妃候補か》


記事には、会談後に並んで歩くレティシアとルークの姿が掲載されている。

エドバードの手が震えた。


「そういうことか」


隣で、作業着姿のマリアが土のついた芋を選別している。


「何が?」

「レティシアは、俺を嫉妬させようとしているのだ」


マリアは手を止めた。

エドバードを見る。

新聞を見る。

もう一度エドバードを見る。


「まだ、そんなこと言ってるの?」

「素直になれない女だからな」

「帝国皇太子へ近づけば、俺が慌てて迎えに来ると思っているのだろう」

「迎えに行ける身分でもないし、お金もないでしょう」

「愛に身分は関係ない!」

「元王子がそれを言うと、重みがないわね」


マリアは新聞を奪い取った。

記事に掲載された帝国宮殿の写真を見る。

次に、祝宴で供された料理の一覧へ目を向ける。

彼女の瞳へ、久しく失われていた光が戻った。


「帝国皇太子って、本当にお金持ちなのよね?」

「そこなのか?」


マリアは新聞の写真を見つめたまま、口元へ笑みを浮かべる。

それは可憐な男爵令嬢の笑みではない。

新たな賭け先を見つけた、玉の輿ギャンブラーの顔だった。













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