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第三章 真実の愛、二億ゴールド也

空中へ現れた会計表は、一枚では収まらなかった。

宝石。

衣装。

食事。

馬車。

調度品。

宿泊費。

観劇料。

演奏会の貸し切り費用。

マリアが欲しがったという詩集の初版本。

マリアの肖像画を描かせるために雇った宮廷画家への報酬。

彼女の誕生日に王宮の庭を一晩だけ春の花で埋め尽くした費用。

一覧は次々と追加され、やがて大広間の壁一面を埋め尽くした。

招待客たちは、上から下まで目で追うことを早々に諦めた。


『第一王子エドバード殿下が、過去一年間にマリア・ローゼンジ男爵令嬢へ贈った品々を集計します』


セネカの声に合わせ、数字が高速で加算されていく。

十万。

五十万。

三百万。

二千万。

数字は止まらない。

マリアの顔には、先ほどまでの怯えとは異なる喜色が浮かんでいた。

自分がどれほど愛されているか、金額として証明されると思ったのだろう。

彼女は胸元に輝く大粒の桃色宝石へ触れた。

エドバードもまた、誇らしげに胸を張っている。


「見るがいい、レティシア!」

「拝見しております」

「これこそ、俺がマリアへ捧げた愛の証しだ!」


『集計が完了しました』


数字の加算が止まる。

光の幕の中央に、巨大な金額が表示された。


《総額二億八百四十万ゴールド》


会場の空気が凍りつく。

豊かな伯爵領の年間税収に匹敵する金額である。

小さな男爵領なら、土地も城も住民の家畜も含め、領地全体を何度か買える。

エドバードはその沈黙を感動と受け取った。


「愛の大きさを、金額で測ることなどできぬ!」


『今、ご自身で愛の証しとして金額を提示なさいました』

『開始早々、主張と発言が衝突したぁ!』


「俺が言いたいのは、数字など問題ではないということだ!」


『おっしゃる通りです』


セネカが同意した。

意外な返答に、エドバードは勝ち誇った笑みを浮かべる。


「分かればよい」


『問題は金額ではなく、出所です』


王子の笑みが、その形のまま固まった。


「出所?」


『はい』


会計表の色が変化した。

金色だった文字の大半が、警告を示す赤へ染まっていく。


『二億八百四十万ゴールドのうち、殿下の個人資産から支払われた金額は、十八万ゴールドです』

『少ない!』

『全体の一パーセントにも届きません』


「残りは王家の予算から出したのだろう」


エドバードは当然のように言った。


『正確には、国庫です』


「同じことだ」


その一言に、夜会場の年長者たちが揃って顔色を変えた。

財務官僚の卒業生は、聞かなかったことにしたいのか両耳を押さえている。

領地経営を学んだ学生たちは、王国の未来を案じて天井を仰いだ。


『殿下は、王家の予算と国庫を同一のものと認識しておいでですか』


「どちらも国王が管理する金だ」


『国王は国家財産の管理責任者であり、所有者ではありません』


「いずれ国王となる俺の金ではないか!」


誰かが小さく悲鳴を上げた。

別の誰かが祈り始める。

ジョンの赤金色の輪さえ、数秒ほど回転を止めていた。


『出ましたぁぁ!』


沈黙から立ち直ったジョンが絶叫する。


『第一王子、国家と自分の区別がついていない!』

『歴史上、国家財政を破綻させた君主に多く見られる認識です』

『即位前に発覚したことだけは、不幸中の幸いかもしれません!』


「大げさだ!」


エドバードは腕を振り上げた。


「俺はただ、愛する女性へ贈り物をしただけだ!」


『それでは、流用元の予算を確認します』


赤い会計表が整理され、四つの項目へ分けられた。

最初に映ったのは、王都南区治水工事費だった。

数年前から川岸の石垣が崩れ、春の大雨が降るたびに下町へ水が流れ込んでいる。

その修復工事の予算から、三千二百万ゴールドが消えていた。

代わりに購入されたのは、マリアが現在つけている桃色宝石の首飾りである。


『当該宝飾品の購入費には、王都南区の治水工事費が使用されています』


マリアは反射的に首飾りを両手で隠した。


「でも、これは殿下が買ってくださったものですぅ」


『殿下が購入手続きを行い、代金を国庫から支出しました』


「同じことでは?」


『大きく異なります』


次に映ったのは、王立孤児院の修繕費だった。

老朽化した屋根を直すための予算が、マリアの舞踏会用ドレスへ変わっている。

続いて、北方騎士団の冬季装備費。

兵士たちへ防寒具を支給するための資金は、マリア専用馬車の内装に使われていた。

農業用水路整備費は、王子とマリアが二人きりで宿泊した湖畔の別荘の改装費へ姿を変えている。


『真実の愛と称する支出により、治水工事二件、公共施設の修繕一件、騎士団への装備支給、及び農業用水路の整備が延期されています』

『愛の裏側から、ずぶ濡れの下町と、雨漏りする孤児院と、寒さに震える騎士たちが現れたぁ!』

『次年度の農作物収穫量にも影響する見込みです』


会場から笑いが消えた。

先ほどまでの自作自演は、一人の令嬢による愚かな芝居だった。

だが今示されているのは、国民の生活を支える金が奪われたという事実である。

マリアは周囲の険しい視線に気づき、慌ててエドバードから距離を取った。


「マリア、知りませんでしたぁ」


『質問されておりません』


「殿下がご自分のお金で買ってくださったと思っていたんですぅ」


『その認識については、事実と推定されます』


セネカの言葉に、マリアはほっとしたように胸を撫で下ろした。


『ただし、購入時に金の出所を確認せず、高額な贈答品を継続して要求した事実は残ります』


「要求なんてしてませんぅ!」


『記録を再生します』


「えっ?」


光の幕に、王都の宝石店が映った。

並んでいるのは、一年前のエドバードとマリアである。

マリアは桃色の首飾りを見つめ、両手を胸元で組んでいた。


『まあ、何て素敵なのでしょう』

『欲しいのか、マリア』

『そんなぁ、マリアには高価すぎますぅ』

『遠慮する必要はない』

『でも、この首飾りを着けたら、少しだけ王妃様みたいになれるかもしれませんねぇ』

『ならば俺が贈ろう』

『本当ですかぁ?』

『君のためなら、国一つでも買ってみせる!』


映像が止まる。

現実のマリアは視線を逸らした。


「欲しいとは言ってませんぅ」


『直接的な要求ではありません』


セネカは冷静に分析する。


『相手の自尊心と庇護欲を刺激し、自発的な購入を促す会話技術です』

『高度な誘導が決まったぁ!』

『恋愛技術だけなら、かなりの熟練者です』


一部の令嬢たちが、感心とも軽蔑ともつかない目でマリアを見る。

男性を操る技術だけなら、確かに侮れない。

問題は、操った相手が国庫と財布の違いも理解していない男だったことだ。


「マリアを責めるな!」


エドバードが再び彼女の前へ出る。


「全ては俺が、自分の意思で贈ったものだ!」

「殿下ぁ」


マリアの瞳が再び潤んだ。

危機を脱したと判断し、悲劇のヒロインへ戻ることにしたらしい。


「では、殿下個人の資産から、国庫へ返還なさればよろしいのではございませんか?」


レティシアの言葉に、二人の動きが止まった。

エドバードは何度か瞬きをする。


「返還?」

「国庫から一時的に立て替えたというご認識なのでしょう?」

「そうだ」

「でしたら、ご自身の資産から返還できるはずですわ」

「当然だ!」


エドバードは胸を張った。


「俺はグラディス王国の第一王子だぞ!」

「存じております」

「王子の財産が、二億程度もないと思っているのか!」


レティシアは答えず、双響鏡へ視線を向けた。

セネカが、待っていたとばかりに青銀色の輪を輝かせる。


『第一王子エドバード殿下の個人資産を確認します』


エドバードは余裕の笑みを浮かべた。

マリアも期待に満ちた目で光幕を見上げる。


『現金資産、ゼロ』


マリアの笑みが消えた。


『個人名義の領地、なし』


エドバードの笑みも消える。


『所有宝飾品の九十一パーセントは、王家からの貸与品です』

『所有する馬三頭のうち二頭は、代金が未払いです』

『私人としての負債、四千八百万ゴールド』


光幕の中央に、赤い文字が現れた。


《純資産額・マイナス四千八百万ゴールド》


『結論、殿下は無一文です!』

『より正確には、無一文を四千八百万ゴールドほど下回っています』


沈黙が落ちた。

マリアは光幕を見上げたまま、何度も目を瞬かせた。

口が小さく開く。

頬が引きつる。

潤んでいた瞳から、甘さと儚さが消えていった。


「えっ」


その声は、今まで聞いたどの声よりも低かった。


「無一文なの?」

「マリア?」


エドバードが振り返る。


「何かの間違いだ」

「四千八百万も借金があるって言ったわよね?」

「王族にとって、借金など――」

「はぁ!?」


マリアの絶叫が、大広間の天井へ突き刺さった。


「騙したの!?」

「何を言っている、マリア」

「金持ちじゃないの!?」

「俺は第一王子だ!」

「肩書きじゃなくて、あんた自身のお金を聞いてるの!」

「未来の国王である俺が、金などという俗な――」

「この金無しカボチャ!」


大広間の空気が揺れた。

何人かが耐えきれずに噴き出す。

ジョンの赤金色の輪は、かつてない勢いで回り始めた。


『ここでマリア選手、悲劇のヒロイン役を放棄!』

『素の人格が表面化しました』

『王子の資産情報が、真実の愛へ致命的な一撃を与えたぁぁ!』


「マリア、落ち着け!」

「落ち着いていられるわけないでしょう!」


マリアはエドバードの胸倉をつかんだ。


「王妃になれば、一生美味しいものを食べて、毎日新しいドレスを着て、昼まで寝ていられるって言ったじゃない!」


会場から、今度は驚愕の声が上がった。

エドバードの目が泳ぐ。


「それは、愛する君を安心させるための比喩だ」

「どこが比喩なのよ!」

『王妃には多数の公務が存在します』


セネカが、王妃の標準的な一日を表示した。

早朝の会議。

慈善団体との面会。

国外使節への応対。

式典出席。

予算審議。

夜会主催。

外交書簡への署名。

一日の平均拘束時間は十二時間を超える。

マリアは光幕を見上げ、顔を引きつらせた。


「聞いてない」


『学園の王族配偶者教育への参加記録は、全て欠席となっています』


「だって朝が早いんだもの!」


『開始時刻は午前十時です』


「私には早いの!」


エドバードがマリアの手を振りほどいた。


「王妃となる女性が、そのような態度でどうする!」


マリアは目を剥いた。


「あんたがそれを言う!?」

「俺は王となるべく生まれた男だ!」


『王太子教育の出席率は三十二パーセントです』

『予想以上の低さだぁ!』


「三十二パーセントも出ている!」


『出席率として誇れる数値ではありません』


二人は互いを睨みつけた。

つい先ほどまで抱き合っていた真実の恋人たちは、もはや相手を守ろうともしていない。


「そもそも、マリアが宝石を欲しがるからだ!」

「勝手に格好つけて買ったんでしょう!」

「君が王妃のようだと言った!」

「王妃みたいになりたいとは言ったけど、国のお金を盗めなんて言ってないわよ!」

「盗んでなどいない!」


『国庫の資金を本来の目的から外し、私的な贈答品へ使用する行為は、横領に該当する可能性があります』

『真実の愛、一転して刑事事件へ突入だぁ!』


「愛に法を持ち込むな!」


エドバードが天井へ向かって叫んだ。


『愛が免罪符になるという法令は存在しません』


「数字や法律で、人の心を測るな!」


『心は測定しておりません』


セネカの声は、どこまでも落ち着いている。


『公金の流れを測定しています』


レティシアは新しく淹れられた紅茶を一口飲んだ。

先ほどとは異なる茶葉だった。

香りは華やかだが、後味にわずかな渋みがある。

今の状況には、よく似合っていた。


「殿下」


レティシアは静かに呼びかけた。


「何だ!」

「国庫流用に関する資料は、すでに財務大臣と司法長官へ提出しております」


エドバードの顔色が変わった。


「いつの間に」

「今朝でございます」

「今朝だと?」

「殿下が今夜のために舞台演出を依頼なさったと知り、告発の機会が近いと判断いたしました」

「つまり、全て知っていたのか」

「ええ」

「知っていながら、俺を止めなかったのか!」

「過去七度にわたり、支出の不正を指摘いたしました」


光幕に、レティシアが提出した警告書が並ぶ。

全てに受領印があった。

その横には、エドバードの筆跡で「細かいことは任せる」と記されている。


『警告は、七回行われています』

『殿下、七回連続で無視!』


「それは、もっと分かりやすく説明しなかったレティシアの責任だ!」


『警告書には図解版も添付されています』

『子供向けの挿絵つきだぁ!』


光幕へ、財布と国庫を描き分けた図が表示された。

左には「殿下のお金」。

右には「国民から預かったお金」。

中央には赤い線で「混ぜてはいけません」と書かれている。

会場中の視線がエドバードへ集まった。


「絵が幼稚すぎて読む気にならなかった!」


『八度目の警告を行わなかったレティシア嬢に責任を転嫁しています』

『怒濤の責任回避だぁ!』


レティシアは目を伏せた。

以前の自分なら、八度目を試みただろう。

九度目も、十度目も。

国のためだと言い聞かせ、聞く耳を持たない相手へ説明を続けたに違いない。

だが、その努力はエドバードを成長させなかった。

失敗すればレティシアが直す。

忘れればレティシアが用意する。

問題が起きればレティシアが謝る。

そうして彼は、責任を負わないまま大人になった。


「これは、婚約者同士の問題ではございません」


レティシアは顔を上げた。


「殿下が私以外の女性を愛したというだけならば、婚約を解消すれば済むことでしょう」

「ならば――」

「ですが、国庫流用は国家の問題です」


柔らかな声音だった。

だからこそ、言葉の一つ一つが鮮明に響く。


「殿下のお気持ちがいかに真実であろうとも、洪水は愛で防げません」

「孤児院の屋根も、騎士の外套も、農地へ引く水も、愛では用意できないのです」

「あなたがマリア様へ宝石を贈ったその裏で、誰かが必要なものを奪われております」


エドバードは反論しようとした。

しかし、言葉が出てこない。

数字が分からなくとも、人々の視線が以前とは違うことだけは理解できたようだった。

マリアも首飾りを両手で押さえ、少しずつ後ろへ下がっている。

そのとき、大広間の外から、低い振動が届いた。

最初は風の音かと思われた。

やがて、それが大勢の人間による歓声だと分かる。

窓硝子が震える。

床まで細かく揺れている。


「何だ?」


エドバードは扉を振り返った。

遠くから、誰かが叫ぶ声がした。


「金無しカボチャ王子ー!」


大広間の全員が、ゆっくりとエドバードを見る。

彼は数秒ほど固まり、それから強引に胸を張った。


「聞いたか、レティシア!」

「何をでございましょう?」

「あれこそ、真実の愛を祝福する民の歓声だ!」


双響鏡の二つの光輪が同時に明滅した。


『現在、殿下に対する肯定的な歓声は確認できません』

『おおっと、王子!』

『聞こえている言葉まで、都合よく解釈したぁぁ!』







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