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第二章 階段落下事件、VAR判定に入ります

双響鏡の宣言と同時に、大広間の照明が落ちた。

完全な暗闇ではない。

水晶灯の輝きが薄れ、代わりに双響鏡から放たれた青白い光が会場を満たしている。

大広間の中央には、縦三メートル、横五メートルほどの巨大な光の幕が出現していた。

そこへ王立学園の中央階段が映し出される。

現実と見紛うほど鮮明な映像ではあるものの、輪郭には淡い光の揺らぎがあった。

古代魔道具が、現場に残された魔力残滓と複数の記録を組み合わせて再構築した映像だからである。

映像の隅には、日時、場所、参照記録の一覧が表示されていた。


『検証対象は、先週の光曜日、午後二時十三分に発生した中央階段落下事件です』


セネカが説明する。


『廊下に設置された防犯用魔導鏡、現場の魔力残滓、及び三名の目撃証言を参照します』

『果たして悪役令嬢は、か弱い男爵令嬢を突き落としてしまったのか!』

『事件の真実が、今ここに明かされます!』


「待て!」


エドバードが映像の前へ飛び出した。


「こんなものを見る必要はない!」


『告発者本人から、映像検証の中止要求が出ました』

『これは怪しい!』


「怪しくなどない!」


エドバードは胸を張った。


「被害者であるマリアが、レティシアに突き落とされたと言っているのだ!」

「はいぃ」


マリアは両手を胸元で組み、潤んだ瞳を伏せた。


「レティシア様のお顔を見るだけで、あの日の恐怖が蘇ってしまいますぅ」


レティシアは紅茶のカップを持ち上げたまま、マリアを見つめた。


「確認させていただいてもよろしいかしら」

「な、何ですかぁ?」

「事件が起きたのは、先週の光曜日、午後二時十三分で間違いございませんか?」

「そうですぅ」

「場所は王立学園の中央棟東側、大階段の上段でございましたね?」

「は、はい」

「私はあなたの正面に立っていた、と」


マリアは一瞬だけ視線を泳がせた。

すぐに両目へ新たな涙を浮かべ、力強く頷く。


「そうですぅ!」

「レティシア様は恐ろしいお顔で、身の程を知りなさいとおっしゃって、それからマリアの胸を両手で突き飛ばしたんですぅ!」

「両手で、胸を」

「は、はいぃ」

「承知いたしました」


レティシアはカップを傾けた。

先ほどまで理想的だった紅茶は、すでに少し冷め始めている。

残念ではあるが、許容範囲だった。


「では、続きをお願いいたします」


『承認を確認しました』

『映像再生、開始ぃぃ!』


光の幕の中で、時間が動き始めた。

中央階段の踊り場には、二人の令嬢が立っている。

一人はレティシア。

もう一人はマリアである。

映像のレティシアは三冊の分厚い本を抱え、階段を上ってきたところだった。

二人の間には、少なくとも三歩分の距離がある。

レティシアはマリアへ軽く会釈した。

映像から、当時の音声が流れる。


『ごきげんよう、ローゼンジ男爵令嬢』

『あっ、レティシア様ぁ』

『次の講義が始まりますので、失礼いたします』


短いやり取りだった。

レティシアは階段の端へ寄り、マリアの横を通り抜けようとする。

その間にも、二人の距離は二歩以上あった。

夜会場の招待客たちは、言葉を失って映像を見つめている。

マリアの顔色が、薄桃色のドレスより白くなった。


「こ、これは、角度の問題ですぅ」


『角度の問題との異議が出ました!』

『三方向から確認しましょう』


映像が三つに分かれた。

正面。

側面。

斜め上。

どの角度から見ても、レティシアの手は本を抱えたままである。

マリアへ触れるどころか、指一本伸ばしていない。


『接触は確認できません』

『疑惑の両手突き飛ばし、まさかの両手ふさがりだぁ!』


「ですが、その後ですぅ!」


マリアが叫んだ。

作り物めいた甘い声が、わずかに裏返っている。


「レティシア様は、この後で本を置いて、マリアを突き飛ばしたんですぅ!」

「まあ」


レティシアは穏やかに微笑んだ。


「先ほどは、ご自分の正面に私が立っていたとおっしゃいませんでしたか?」

「恐怖で記憶が混乱していたんですぅ!」


『証言内容の変更を確認しました』

『試合中に競技種目が変わったぁ!』


映像の中で、レティシアがマリアの横を通り過ぎる。

二人の距離は三歩。

四歩。

五歩と開いていった。

そこで、マリアが周囲を見回した。

右を見る。

左を見る。

階段の下を確認する。

誰かを待っているような仕草だった。

やがて下の廊下から、二人の女子学生と男子学生が近づいてくる。

マリアは彼らの姿を認めると、素早くレティシアの背中へ視線を向けた。

レティシアはすでに廊下へ足を踏み出している。

マリアが自分のドレスの裾へ右足を乗せた。


『おっとマリア選手、ここで自ら裾を踏んだぁ!』


「ち、違いますぅ!」


『右足による明確な踏みつけを確認しました』


マリアは裾を踏んだまま、左足を前へ出そうとした。

当然、身体が傾く。

彼女は両腕を大きく振り回し、レティシアの名前を叫んだ。


『きゃああっ! レティシア様、どうしてぇ!』


身体が階段へ倒れ込む。

しかし、完全に無防備というわけではなかった。

一段目では右手をつき、身体をひねって肩への衝撃を逃がしている。

二段目では腰を丸め、三段目では頭を打たないよう顎を引いた。


『見事な受け身です!』

『事前に落下方法を練習していた可能性があります』

『マリア選手、ただの可憐な令嬢ではない!』

『受け身の技術だけなら騎士科の初級課程を修了できそうです!』


「痛くないようにしただけですぅ!」


マリアの叫びが、とうとう普段の甘い声から外れた。

会場の何人かが肩を震わせる。

映像の中のマリアは四段目、五段目と転がった。

六段目で一度停止する。

そこで薄目を開け、階段の残りを確認した。

あと二段。

マリアは周囲の視線を確認してから、身体を自分で一回転させる。

最後の一段は痛かったのか、転がるのをやめて普通に尻をつき、足を伸ばして下りていた。


『最後だけ徒歩だぁぁ!』

『正確には、着座した状態での移動です』


映像が停止する。

光の幕には、階段の最下段で目を閉じているマリアと、騒ぎに気づいて振り返るレティシアの姿が映っていた。

レティシアとマリアの距離は、約十二メートル。

仮にレティシアの腕が異様に長かったとしても、突き飛ばすのは困難である。


『映像検証の結果を表示します』


光の幕に、巨大な文字が現れた。


《接触なし》


続いて、その下に赤い文字が追加される。


《単独転倒》


最後に、ジョンの声とともに金色の一文が躍った。


《演技性の高いダイビング》


『判定は自作自演です!』

『見事な単独転倒でしたが、他者を加害者に仕立て上げる行為は推奨できません』


静まり返っていた会場に、小さな笑い声が生まれた。

それは堤防に入った亀裂のように広がっていく。

一人が吹き出せば、隣の者も耐えられなくなる。

やがて大広間の至るところから笑いが上がった。

とりわけ、最後の二段を自力で下りる映像がもう一度自動再生されると、腹を抱える者まで現れた。

マリアは唇を震わせた。


「ひどいですぅ」


目に涙が溜まる。

今度の涙は、かなり本物に近い。


「こんな大勢の前で、マリアを笑いものにするなんてぇ」

「私は映像の再生を許可しただけです」


レティシアはカップを置いた。


「虚偽の告発によって、私を犯罪者にしようとなさったのは、あなたではございませんか?」

「マリアは、怖くて記憶が混乱していただけですぅ!」


『当該発言を分析します』


青銀色の光がマリアを包んだ。

彼女は悲鳴を上げ、エドバードの背後へ隠れる。

数秒後、空中に数字が表示された。


《虚偽率九十二パーセント》


『かなり高い数値です』

『残り八パーセントに真実があるぅ!』

『階段から落ちたこと自体は事実です』

『そこだけだぁぁ!』


「マリアを侮辱するな!」


エドバードが前へ出た。

彼は笑う人々を鋭く睨みつけ、マリアを庇うように両腕を広げた。


「たとえ映像がそう見えようとも、マリアが傷ついた事実は変わらない!」


『自分で転んだことによる軽度の打撲です』


「傷ついたのは身体だけではない!」


『加害者として名指しされたレティシア嬢の精神的被害については、どのようにお考えですか』


「レティシアは強い女だ!」


その言葉に、レティシアの睫毛がわずかに揺れた。

強いから傷つかない。

泣かないから何を言ってもよい。

完璧だから、支えるのが当然である。

エドバードは昔から、そう信じていた。

幼い頃、王子教育に耐えられずに泣いた彼の代わりに、レティシアが二人分の課題を終わらせたときもそうだった。

十五歳の外交晩餐会で、エドバードが他国の大使を怒らせた際、レティシアが夜通し謝罪文を書いたときも変わらない。

彼はいつも、レティシアなら大丈夫だと言った。

それは信頼ではない。

自分が責任を負わずに済む、便利な呪文にすぎなかった。

レティシアは胸の奥に浮かんだ古い痛みを、静かに押し戻した。

今夜ここへ来たのは、理解されるためではない。

終わらせるためである。


「殿下」


レティシアはエドバードを見据えた。


「強い人間であれば、虚偽によって名誉を傷つけても構わないとお考えですか?」

「そうは言っていない!」

「では、発言を訂正なさいますか?」

「俺に謝罪しろというのか!」

「私は、訂正なさるかと伺いました」

「くっ……また言葉遊びを!」


『質問は明確です』

『訂正するか、しないか!』

『王子、二択のはずが答えに辿り着けないぃ!』


エドバードは拳を握り締めた。

大広間に集まる視線が、彼の判断を待っている。

しかし謝れば、自分が間違っていたと認めることになる。

英雄は間違えない。

少なくとも、彼が愛読してきた物語の英雄はそうだった。


「訂正する必要はない!」


エドバードは叫んだ。


「この事件に関しては、多少の行き違いがあったのかもしれない!」


『自作自演を、多少の行き違いと表現しました』

『大幅に言い換えたぁ!』


「だが、レティシアがマリアを苦しめてきた事実まで消えるわけではない!」

「ほかにも罪状がおありなのですね」

「当然だ!」


王子は勢いを取り戻した。

一つの告発を映像で否定されたなら、次の告発へ進めばよい。

彼の中では、それで先ほどの失敗も帳消しになるらしい。


「貴様はマリアの教科書を破り、机に悪女と書き、昼食へ虫を入れた!」

「三つ同時におっしゃいましたが、順に確認いたしますか?」

「必要ない!」


『必要です』


セネカが即答した。


『教科書はマリア嬢本人が古書店へ売却しています』


光の幕に、マリアが教科書を古書店へ持ち込む映像が映る。


『机に文字を書いたのは、殿下の側近であるロバート男爵令息です』


別の映像では、ロバートが慣れない手つきで机に文字を書いていた。

ロバート本人が会場の隅で青ざめ、その場へしゃがみ込む。


『昼食に混入していたのは虫ではなく、香草です』


料理の図解が映し出される。


『マリア嬢は料理長の説明を聞かず、見慣れない香草を虫と誤認しました』

『怒濤の三連続判定!』

『全てレティシア嬢とは無関係です!』


マリアが再びエドバードの袖を引いた。


「殿下、もう別のお話にしませんかぁ?」

「別の話?」

「もっと確実なものがあるでしょう?」


囁き声のつもりだったらしい。

しかし、双響鏡は当事者の発言を拾うための古代司法装置である。

二人の会話は、大広間の隅々まで鮮明に響いた。


『被害者側から、確実な罪状への変更要求が入りました!』

『罪状を選び直す行為は、通常の告発手続きには含まれません』


マリアは両手で口を押さえた。

エドバードは慌てて咳払いをする。


「とにかくだ!」


彼は強引に話題を変えた。


「たとえ細かな事件に誤解があろうとも、俺とマリアが愛し合っている事実は変わらない!」


エドバードはマリアの手を取った。


「身分の差も、悪女の妨害も乗り越え、俺たちは互いを選んだ!」

「殿下ぁ」

「マリア」


二人は見つめ合う。

先ほどまで責任を押しつける相談をしていたことなど、すでに忘れたようである。


「真実の愛が、今ここに勝つのだ!」


エドバードは高らかに宣言した。

ジョンはすぐに反応しなかった。

赤金色の輪が一度、考えるようにゆっくり回る。

代わりに、セネカが重々しく口を開く。


『真実の愛という主張を確認しました』


「そうだ!」

『それでは、その愛を成立させるために費やされた金額を確認しましょう』


エドバードの表情が止まった。


「金額?」


レティシアは新しい紅茶を用意するよう、給仕へ目配せした。

ここから先は、少し長くなる。

そして、温かい紅茶が必要になるほど、冷たい数字が並ぶ予定だった。

双響鏡の光幕が広がる。

そこへ無数の品名と金額が、滝のように流れ始めた。






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