第一章 婚約破棄宣言、ただいまより実況いたします
王立学園の卒業夜会は、若き貴族たちが人生で最も美しく着飾る日であり、同時に、彼らが初めて社交界という名の戦場へ放り出される夜でもある。
天井から垂れる水晶灯には無数の魔導石が組み込まれ、春の星空にも似た輝きを大広間へ降らせている。
磨き抜かれた床には光と人影が幾重にも重なり、楽団の奏でる優雅な旋律に合わせて揺れていた。
今宵ばかりは、政治家の卵も、軍人を志す青年も、領地経営を学んだ令嬢も、重い責任を忘れて笑ってよい。
少なくとも、誰もがそう信じていた。
ただ一人、ヴァンガード公爵家の長女、レティシアを除いて。
淡い銀髪を結い上げた彼女は、壁際に用意された席で、香り高い紅茶を口へ運んでいる。
細身の身体を包むのは、深い青を基調とした夜会服だ。
散りばめられた宝石は最小限でありながら、その一粒一粒が計算し尽くされた位置に輝いている。
派手さに頼ることなく人目を引く姿は、氷の彫像のように美しい。
もっとも、本人の意識は自分の装いにも、踊りの相手を探す学生たちにも向けられていなかった。
レティシアの視線は、ときおり大広間の天井へ注がれている。
そこには何百年も前から飾られているという、銀色の装飾球があった。
少なくとも、今夜の招待客にはそう見えているはずである。
実際には、あれこそ古代王国の裁判所や決闘競技場で用いられた、古代司法補助演算器・双響式記録鏡。
通称、『真実を謳う双響鏡』である。
古代語の響きを生かした呼び名は、アナウンス・オーブ。
長らく王立図書館の開かずの保管庫に放置され、目録には「時折うるさい音を発する用途不明の球」とだけ記録されていた。
その不当な扱いに対し発見した日の怒りを、レティシアはいまだに忘れていない。
古代司法制度の到達点とも呼ぶべき傑作に対して、うるさい球とは何事か。
もっとも、実際に起動してみた結果、非常にうるさい球であること自体は否定できなかった。
「レティシア様」
声をかけてきたのは、学友のエミリア伯爵令嬢だった。
彼女は周囲を警戒しながら、レティシアの隣へ身を寄せる。
「エドバード殿下のお姿が見えませんわ」
「ええ」
「それに、側近の方々もです」
「ええ」
「楽団には、殿下から特別な曲目の指示があったそうです」
「存じております」
「壇上の中央に、見慣れない印までございます」
「殿下が最も美しく見える立ち位置を、宮廷演出家に計算させた印ですわ」
エミリアは目を瞬かせた。
「ご存じでしたの?」
「申請書が私のもとへ回ってまいりましたので」
「どうして殿下ご自身の演出費用の申請書が、婚約者であるレティシア様のもとへ回ってくるのです?」
「殿下が予算欄を空白のまま提出なさったからですわ」
「それをレティシア様が修正なさったのですか?」
「いいえ」
レティシアは優美に微笑んだ。
「今回は、そのまま財務局へお返しいたしました」
エミリアは口を開きかけ、何も言えずに閉じた。
王太子教育を受けているはずの第一王子が、予算欄の意味すら理解していない。
その事実をあまり深く考えると、王国の未来まで見えてしまう。
賢明な令嬢は、見なかったことにする術も心得ていた。
「では、今夜は何か起きるのですね」
「殿下が余興をご用意なさっているようです」
「余興、で済みますでしょうか」
「済ませるために、私が三か月ほど準備いたしました」
「三か月も?」
「念のためですわ」
レティシアの口調には、不安も怒りもなかった。
その穏やかさが、かえってエミリアの背筋を寒くさせた。
長年の付き合いから、彼女は知っている。
レティシアが本当に危険なときほど、完璧な笑みを浮かべることを。
大広間の扉が、芝居がかった勢いで開いた。
楽団の演奏が不自然なところで途切れ、金管楽器による勇壮な旋律へ切り替わる。
会場にいた学生と招待客が、揃って入り口を振り返った。
金色の髪を輝かせ、純白の礼装に身を包んだ第一王子エドバード・フォン・グラディスが立っている。
その右腕には、蜂蜜色の髪を巻いたマリア・ローゼンジ男爵令嬢が寄り添っていた。
マリアが着ているのは、春の花を思わせる薄桃色のドレスである。
胸元と裾には惜しげもなく宝石が縫い込まれ、男爵家の財力では到底用意できない品だと一目で分かる。
事情を知らない者なら、エドバードとマリアこそ今宵の主役だと思っただろう。
事情を知る者は、第一王子が公の夜会に婚約者以外の令嬢を伴って現れたことに青ざめていた。
エドバードは注目が集まるのを待ってから歩き出した。
右足を前へ踏み出すたび、白いマントが大きく翻る。
練習した動きなのだろう。
ただし、扉の金具にマントの端が一度引っかかった。
背後の側近が無言で外している。
「まあ」
マリアが小さく身を震わせた。
「皆様が、わたしを怖い目で見ていますぅ」
「恐れることはない、マリア」
エドバードは彼女の肩を抱き寄せた。
「今夜、君を苦しめてきた全ての悪から、俺が救い出してみせる」
よく通る声である。
発声訓練だけは真面目に受けたらしい。
マリアは感極まったように瞳を潤ませた。
涙はこぼれない。
化粧が崩れる一歩手前で留める見事な技術だった。
エドバードは大広間の中央へ進んだ。
床に描かれた小さな金色の印を探し、さりげなく靴先を合わせる。
しかし使用人が絨毯を敷き直した際、印の上を半分ほど覆ってしまったらしい。
王子は想定より右に寄り、照明の光を顔の半分にだけ浴びた。
右側は神々しく、左側は妙に暗い。
レティシアは指摘しなかった。
婚約者を不必要な恥から守ることは、昨日までの彼女の仕事だった。
今夜からは、もう違う。
「レティシア・ヴァンガード!」
エドバードが右腕を突き出した。
人さし指は真っすぐレティシアへ向けられている。
鏡の前で少なくとも二十回は練習したであろう、美しい角度だった。
「この場をもって、貴様との婚約を破棄する!」
音楽が勇ましい一音を響かせ、終わった。
会場は静寂に包まれた。
誰かがグラスを取り落とす音だけが、やけに鮮明に聞こえる。
人々は一斉にレティシアを見た。
泣き崩れるのか。
激怒するのか。
それとも王子へ縋りつくのか。
期待と恐怖が入り交じった視線を受けながら、レティシアは紅茶を一口飲んだ。
今夜の茶葉は北方領産で、熟した果実に似た香りがある。
温度も申し分ない。
このような騒ぎの最中でなければ、もう少しゆっくり味わえたことだろう。
「婚約破棄の理由を、正式に伺ってもよろしいでしょうか?」
その声には、震え一つない。
エドバードの眉がわずかに動いた。
彼の想定では、レティシアは驚愕のあまり言葉を失い、やがて醜く取り乱すはずだった。
そこで自分が慈悲深くも罪を列挙し、マリアを抱き締め、真実の愛の勝利を宣言する。
そういう筋書きである。
ところが、悪役であるはずのレティシアが一向に自身が考えた台本へ乗ってこない。
「しらを切るつもりか!」
「理由を確認しただけでございます」
「その冷たい態度こそ、貴様の悪逆さを証明している!」
「冷静であることが罪に当たるという法令を、私は存じ上げません」
「そうやって、いつも言葉で俺を追い詰める!」
「書類の提出期限をお伝えしたことならございます」
会場の一角から、押し殺した笑い声が漏れた。
エドバードはそちらを睨み、すぐに英雄らしい表情を作り直した。
マリアが彼の袖を引く。
「殿下、わたしは大丈夫ですぅ」
「マリア」
「レティシア様がお認めにならなくても、わたしたちの愛が真実であることは、神様がご存じですもの」
「君はどこまでも健気だ」
エドバードはマリアの手を取り、唇を寄せた。
何人かの令嬢が扇で顔を隠す。
感動したのではない。
見ている方が恥ずかしくなったのである。
レティシアは静かに息を吸った。
王子の演説は予測より七分ほど早い。
おそらく、入場前に控室で待ちきれなくなったのだろう。
双響鏡の魔力充填は九十八パーセント。
広域記録回路も安定している。
残り二パーセントは、エドバードが罪状を口にする頃には満たされる。
問題はない。
むしろ、これ以上待てば紅茶が冷める。
レティシアはカップを受け皿へ戻した。
澄んだ音が一つ、大広間へ落ちる。
その瞬間、天井の銀球が震えた。
最初は、楽器の余韻かと思えるほど小さな振動だった。
やがて表面に刻まれた古代文字が青白く発光し、銀球の左右へ二つの光輪が展開される。
一方は燃える炎のような赤金色。
もう一方は、冬の月光を思わせる青銀色。
招待客たちが天井を見上げた。
「何だ、あれは」
エドバードもつられて顔を上げる。
次の瞬間、耳をつんざくほど華々しいファンファーレが鳴り響いた。
楽団員たちが驚いて椅子から飛び上がる。
指揮者は、自分たちが演奏していない曲を止めようと、意味もなく指揮棒を振り回していた。
赤金色の輪が勢いよく回転する。
『さあ始まりましたぁぁ!』
大広間そのものが叫んだかと思うほどの声量だった。
窓硝子が細かく震え、テーブルの上のスプーンが一斉に音を立てる。
エドバードは決めポーズのまま肩を跳ねさせた。
『グラディス王立学園卒業夜会、予定外の特別競技!』
『第一王子による公開婚約破棄ぃぃ!』
「うるさい!」
エドバードが耳を塞いだ。
『実況は私、ジョンがお送りいたします!』
青銀色の輪が静かに明滅する。
『解説はセネカです』
こちらは低く、落ち着いた声だった。
音量こそ大きいが、古代の賢者を思わせる重厚さがある。
『早速ですが、婚約破棄には王家及びヴァンガード公爵家の正式な合意が必要です』
『おおっとぉ!』
『開始からわずか三秒で、重大な手続き不備が発覚しましたぁぁ!』
会場にざわめきが広がった。
事情を知る年長の貴族たちは、深刻な顔で頷いている。
貴族間の婚約は、本人同士が別れを告げれば消滅するような単純なものではない。
とりわけ王家と公爵家の婚姻契約には、領地、資産、外交、王位継承権に関する条項が複雑に絡んでいる。
夜会で叫んだからといって、その場で破棄できるはずがなかった。
エドバードは耳から手を離し、天井を睨んだ。
「何だ、この無礼な魔道具は!」
『質問を確認しました』
セネカの声とともに、光の文字が空中へ浮かぶ。
『当機は古代司法補助演算器・双響式記録鏡です』
『通称、真実を謳う双響鏡!』
『古代王国の裁判と競技を、分かりやすく、正確に、そして可能な限り盛り上げてお伝えします!』
「盛り上げる必要はない!」
『ご意見として記録します』
「今すぐ止めろ!」
『所有者から停止命令は出ておりません』
エドバードの視線が、ゆっくりとレティシアへ向いた。
「貴様の仕業か」
「私が正当な手続きによって取得した魔道具でございます」
「やはり罠だったのだな!」
「罠、でございますか?」
レティシアは小さく首を傾げた。
「婚約者が公の場で虚偽の罪状を並べ、婚約破棄を宣言する可能性に備え、記録装置を設置しただけでございます」
「それを罠と言うのだ!」
『記録装置が存在するだけで罠になる場合、発言者が記録されると困る内容を話す予定であった可能性があります』
『セネカさん、鋭い切り返しだぁ!』
「黙れ!」
エドバードは側近たちを振り返った。
「誰か、あれを取り外せ!」
側近たちは互いの顔を見た。
誰も動こうとしない。
やがて、そのうちの一人が恐る恐る口を開く。
「殿下、魔道具の設置には、学園長の許可が必要かと」
「ならば無許可に決まっている!」
「許可は得ております」
レティシアは扇を開いた。
双響鏡の中央から光があふれ、空中へ複数の書類が投影される。
設置許可書。
司法資料登録証。
魔道具使用申請書。
安全性確認書。
夜会設備の一時変更届。
所有権移転証明書。
その全てに、学園長、司法長官、王立図書館長の署名と公印が揃っている。
余白には、古代魔道具を使用する際の保険契約まで添付されていた。
『書類上の不備はありません』
『完璧だぁぁ!』
『一分の隙もない事前申請が、王子の逃げ道を美しく封鎖しました!』
ルークならば、この順序を見て喜んだことだろう。
ただし、この時点のレティシアは、遠い隣国の皇太子が放送の向こうで猛烈に筆を走らせていることなど知らない。
エドバードは投影された書類へ手を伸ばした。
当然ながら、光でできた書面を破ることはできない。
指がむなしく文字を通り抜けた。
「このようなもの、いくらでも偽造できる!」
『各書類に付与された魔力署名を照合します』
青い光が書類の表面を走る。
『全て真正です』
『王子、偽造認定に失敗!』
『なお、根拠を示さず偽造と断定する行為は、名誉毀損に該当する可能性があります』
「くっ……卑怯な手を使いおって!」
『客観的資料の提示を、卑怯な手として認識している模様です!』
ついに会場のあちこちから笑い声が上がった。
先ほどまでは王子の機嫌を恐れていた者たちも、双響鏡の声に背中を押されている。
エドバードの顔が赤く染まった。
照明の当たっている右側だけが輝いているため、熟れた果物を半分に切ったような有り様である。
マリアが不安そうに王子の腕へ縋った。
「殿下、わたし、怖いですぅ」
「安心しろ、マリア」
エドバードは彼女を守るように一歩前へ出た。
「この程度の小細工で、真実が覆ることはない」
レティシアは紅茶へ視線を落とした。
適温の時間は、残りわずかである。
できれば王子には、要点を簡潔に述べていただきたい。
もっとも、簡潔な書類を作成できない人物に、簡潔な演説を期待する方が酷というものだ。
「殿下」
レティシアは促した。
「私の罪状をお聞かせくださいませ」
エドバードは待っていたとばかりに顎を上げた。
ようやく、自分の用意した筋書きへ戻れると思ったのだろう。
彼はマリアの肩を抱き、会場中へ見せつけるように腕を広げる。
「ならば聞くがいい!」
勇壮な声が大広間へ響き渡る。
「貴様は嫉妬に狂い、か弱いマリアを学園の中央階段から突き落とした!」
貴族たちが息をのむ。
マリアはその瞬間を待っていたように、両手で顔を覆った。
「マリア、思い出すだけで胸が張り裂けそうですぅ」
「大丈夫だ」
「殿下がおそばにいてくださるから、わたし、勇気を出せます」
「そうだ、俺が君を守る!」
二人が抱き合う。
レティシアは表情を変えず、扇を静かに閉じた。
乾いた音が一つ鳴る。
双響鏡の中央に、巨大な白い文字が浮かび上がった。
《異議を検出しました》
続いて、赤金色の輪が激しく回転する。
『ここで重大な告発が飛び出しましたぁぁ!』
『階段落下事件について、記録映像との矛盾を検出しました』
「何?」
エドバードの顔から、英雄らしい余裕がわずかに消えた。
セネカは淡々と告げる。
『映像検証を推奨します』
ジョンが、夜会場の屋根を吹き飛ばしかねない勢いで叫んだ。
『ただいまより、階段落下事件のVAR判定に入りまぁぁす!』




