第十五章 英雄ごっこ、ここに完全終幕
帝国最高司法庁の大法廷は、どの宮殿より簡素に造られている。
壁を飾るのは権威を示す黄金ではなく、過去の判例を刻んだ石板であり、裁判官席の背後にも皇帝家の紋章はない。
あるのは、水平に保たれた一対の秤だけだった。
血筋、財力、名声。
人の世から差をなくすことは難しい。
それでも法廷の中では、少なくとも法がそれらへ屈しないよう努める。
その理念を形にした場所である。
被告人席には、エドバードとマリアが並んで座っていた。
二人の間には、一人分以上の距離が空いている。
帝国宮殿へ侵入した夜までは互いを利用し、危険が迫れば相手を盾にしてきた。
今や、視線を合わせることすら避けている。
エドバードには帝国から選任された弁護人。
マリアにも別の弁護人がついていた。
両名とも経験豊富な法曹家であり、依頼人の身分や世評によって手を抜く者ではない。
双響鏡は証言台の横に置かれている。
赤金と青銀の輪は展開されているものの、ジョンもセネカも静かだった。
この場における役割は実況者ではなく、証拠記録の提示補助である。
判決へ介入する権限はない。
裁くのは道具ではなく、証拠と法に向き合う人間でなければならなかった。
「開廷します」
裁判長が告げる。
傍聴席には帝国とグラディス王国、双方の代表者が出席していた。
ルークは帝国皇太子ではなく、侵入被害を受けた宮殿管理責任者の一人として座っている。
レティシアは参考人席にいた。
グラディス王国からは司法長官と外務大臣が派遣され、国王の正式な委任状を提出している。
これは一国の恥を隠すための密室裁判ではない。
国境を越えて起きた事件を、両国が共同で検証する審理だった。
「被告人エドバード」
裁判長が視線を向ける。
「起訴内容を理解していますか?」
「俺は被告ではない」
弁護人が小さく目を閉じた。
「元第一王子エドバードだ」
「現在、王族籍の剥奪手続きは完了しております」
グラディス司法長官が文書を掲げる。
「あなたは王族ではありません」
「父上が一時の怒りで行った処分だ!」
「正式な王令です」
「いずれ撤回される!」
「現時点では有効です」
裁判長は静かに木槌を鳴らした。
「身分に関する主張は確認しました」
「ならば、俺を王子として――」
「確認しただけです」
低く落ち着いた声が、エドバードの言葉を止める。
「この法廷では、元王族であろうと平民であろうと、同じ手続きに従います」
「帝国が俺を裁けば、グラディス王国への侮辱になるぞ!」
グラディス司法長官が顔を覆いそうになる。
「エドバード殿」
「王子殿下と呼べ」
「被告人エドバード」
司法長官は言い直した。
「グラディス王国は、本件の合同審理へ正式に同意しております」
「レティシアに騙されたのだ!」
「国王陛下ご自身の署名と魔力印があります」
「父上も騙されている!」
「では、誰ならば騙されていないのですか?」
「俺だ!」
法廷へ、重苦しい沈黙が落ちる。
裁判長は一拍置いて記録官を見る。
「今の発言も記録してください」
「既に記録済みです」
記録官の返答は、どこまでも事務的だった。
傍聴席の一部で、ため息が重なる。
双響鏡の赤金色の輪がわずかに震えた。
ジョンは何かを実況したくて仕方がないらしい。
しかし、セネカの輪が淡い光を送り、彼を抑えていた。
検察官は、時系列に沿って証拠を提示した。
開拓地からの無断離脱。
野菜運搬車への潜伏。
宿場での偽造通行証購入。
偽名を用いた国境通過。
犯罪組織の運び屋との接触。
帝都西側からの宮殿侵入。
警備兵の制止命令への違反。
軟泥式拘束区画への進入。
開拓地から持ち出した物品の所持。
宮殿内での抵抗。
一つひとつが、文書、証言、公共記録、魔力残滓によって裏づけられている。
双響鏡は、証拠同士の一致点と不一致点を示した。
断定できない部分には《推定》と表示され、記録不足の箇所には《結論不能》と明記される。
万能の真実を宣告するのではなく、分かることと分からないことの境界を示していた。
「偽造文書の使用について質問します」
検察官がエドバードへ向き直る。
「この通行証が正式なものではないと、認識していましたか?」
「偽名を使えと言われた」
「誰にですか?」
「マリアだ」
「はぁ!?」
マリアが被告人席から身を乗り出す。
「殿下が必要だって言ったんでしょ!」
「君が帝国へ行こうと誘った!」
「行くって決めたのは殿下じゃない!」
「君に操られたのだ!」
エドバードは立ち上がり、マリアを指さした。
「この女は以前から、俺の純粋な心を利用していた!」
「何よ、それ!」
マリアも立ち上がる。
「自分で勝手に宝石を買って、勝手に国庫から払ったんでしょう!」
「君が欲しがったからだ!」
「欲しいって言っただけよ!」
「だから贈った!」
「お金の出所まで説明しなかったじゃない!」
「王子の金は国の金だ!」
『違います』
セネカが耐えきれず訂正した。
『国庫と王族個人の財産は、法的に別の概念です』
「今は昔の話をしていない!」
『現在も同じ誤認が継続しているため、訂正しました』
裁判長が木槌を鳴らす。
「双方とも着席してください」
弁護人たちが依頼人の袖を引き、どうにか座らせる。
エドバードの弁護人は、深刻な疲労を顔に浮かべていた。
「被告人エドバード」
彼は静かに語りかける。
「ここでは、自分の責任を可能な限り正確に説明することが重要です」
「だからマリアの責任を説明している」
「他者の責任ではなく、あなた自身の責任です」
「俺は騙されたのだ」
「偽造文書だと理解したうえで購入しましたね?」
「帝国へ入るには必要だった」
「それを故意と呼びます」
「だが、マリアが――」
「彼女の提案があったとしても、最終的に購入を決めたのはあなたです」
エドバードは理解できないものを見るように弁護人を凝視した。
「お前は俺の味方ではないのか?」
「法的な権利を守るためにおります」
「ならば、俺が無罪だと証明しろ!」
「証拠に反する主張はできません」
「役に立たぬ弁護人だ!」
弁護人はしばらく黙った。
やがて、深い呼吸を一つする。
「それでも、最後まで弁護いたします」
その言葉へ、レティシアは目を伏せた。
責任を投げ出すエドバードに対し、弁護人は自らの職責を放棄しない。
支えることと、代わりに背負うことは違う。
彼は依頼人の嘘へ加担せず、それでも法が保障する権利を守ろうとしていた。
レティシアがかつて理解できなかった境界を、そこに見る思いだった。
続いて、マリアへの質問が始まった。
「あなたは、エドバード被告人の権力に逆らえなかったと主張していますね?」
「そうですぅ」
マリアは目元へ布を当てた。
衣装は拘置施設から支給された簡素なものだが、布の持ち方だけは完璧な悲劇のヒロインである。
「わたしは貧しい男爵家の娘で、殿下に命じられたら逆らえなくてぇ」
「では、開拓地からの脱走を最初に提案したのは誰ですか?」
「殿下ですぅ」
「証拠記録を再生します」
双響鏡の中央へ、食堂での会話が浮かぶ。
マリアが新聞を見ながら、帝国行きを勧める場面である。
「これは、殿下に言わされましたぁ」
「映像中、エドバード被告人は提案へ驚いています」
「演技ですぅ」
『表情、発声、魔力変動を分析した結果、エドバード氏が事前に提案内容を把握していた可能性は四・一パーセントです』
「双響鏡も騙されてるのよ!」
『本機能は証拠に基づき推定しております』
「では、逃走用の食料を用意したのは?」
検察官が尋ねる。
「殿下ですぅ」
開拓地の料理長が証人席で腕を組んだ。
「あたしの調理場から盗んだのは、その娘だよ」
「見間違いですぅ」
「芋を四本も味見する子を見間違えるものかね」
「あれは三本ですぅ」
『四本です』
セネカが記録を表示する。
「そんなところまで記録しないでよ!」
『食材在庫記録と料理長の証言が一致しました』
『味見四本、確定です!』
ジョンがついに実況へ参加した。
「黙ってなさいよ!」
『証拠記録補助として必要な発言です!』
『声量は必要以上ですが、内容はおおむね正確です』
裁判長はこめかみを押さえながら、審理を続ける。
「盗まれた食料は返還されましたか?」
「ほとんどは宮殿で回収されました」
料理長が答えた。
「干し肉は?」
「半分食べましたぁ」
「砂糖は?」
「移動に疲れたので、途中で舐めましたぁ」
「銀の匙は?」
「綺麗だったから持っていただけですぅ」
「管理官の印章は?」
「格好よかったからですぅ」
『証言に一貫性はあります』
セネカが冷静に告げる。
『一貫して、目先の欲望が動機です』
『ある意味、ぶれていません!』
「褒められてる?」
『いいえ』
マリアの顔が険しくなる。
彼女の弁護人が立ち上がった。
「被告人マリアが計画を提案した点は認めます」
「ちょっと!」
「ただし、彼女には国家転覆や軍事的な害を与える意図はありませんでした」
弁護人は依頼人の抗議を無視し、証拠へ即した主張を続ける。
「目的は金銭的利益と生活環境の改善であり、極めて利己的ではありますが、政治的犯罪組織との関係は確認されておりません」
『証拠上、その主張は妥当です』
セネカが補足した。
「偽造業者との接触も、組織の全容を理解したうえでのものではない」
「無料で宮殿の近くまで運んでくれる、いい人だと思いましたぁ」
マリアが口を挟む。
「その判断力の低さについては、弁護側も否定いたしません」
「弁護人なら否定してよ!」
「否定できるものだけを否定します」
傍聴席から、同情とも笑いともつかない息が漏れた。
審理は三日間に及んだ。
最終日、検察と弁護側の主張が整理される。
エドバードとマリアは、犯罪組織による密輸計画そのものには関与していなかった。
組織は二人を利用し、警備の目を逸らそうとしたにすぎない。
一方で、偽造文書だと知りながら使用し、国境を越え、宮殿へ侵入した事実は明白だった。
開拓地からの無断離脱と窃盗も、証言と物証によって裏づけられている。
警備兵へ木の棒を向けた行為については、殺傷能力が低い点が考慮された。
ただし、制止命令へ従わず、抵抗の意思を示したこと自体は消えない。
「被告人エドバード」
裁判長が尋ねる。
「判決前に、何か述べたいことはありますか?」
エドバードは立ち上がった。
三日間の審理を経ても、その姿勢には反省より演説前の昂揚がある。
「俺は、皆に伝えたい」
弁護人が小声で忠告する。
「謝罪をお勧めします」
「分かっている」
エドバードは胸へ手を当てた。
「俺を理解できぬ皆を、哀れに思う!」
弁護人が机へ額をつけた。
「俺の行いは、愛する者を取り戻すための冒険だった!」
「不法侵入です」
裁判長が訂正する。
「法は愛を縛れぬ!」
「法は国境侵犯を裁きます」
「この試練を乗り越えた時、俺はより偉大な王となる!」
「王位継承権はありません」
「今はな!」
エドバードは傍聴席へ振り返った。
「民よ、覚えておけ!」
傍聴席にいるのは、ほぼ官吏と司法関係者である。
「英雄は、牢獄に入れられた程度では死なぬ!」
『死亡刑は求刑されておりません』
「比喩だ!」
『失礼しました』
セネカの謝罪には、微塵も反省がない。
裁判長は、次にマリアへ視線を向ける。
「被告人マリア」
「はい」
「最後に述べたいことは?」
マリアは立ち上がり、慎重に問いかけた。
「収容施設では、食事は一日三回出るんでしょうね?」
「まず、被害者への謝罪を述べてはいかがですか」
弁護人が促す。
「あっ」
マリアは慌てて目元へ布を当てた。
「この度は、皆様にご心配をおかけして、申し訳ございませんでしたぁ」
『反省度を推定します』
「しなくていい!」
『発言内容と心理推定には乖離が――』
「黙って!」
裁判長が木槌を鳴らす。
「静粛に」
法廷へ静けさが戻った。
「判決を言い渡します」
全員が立ち上がる。
エドバードには、帝国法に基づく不法入国、偽造文書使用、宮殿侵入、逮捕妨害の刑。
グラディス王国法に基づく開拓地からの逃亡と、監督命令違反への刑。
さらに、過去の公金流用事件に関する王国側の審理結果が合わせて考慮される。
王族特権は完全に剥奪。
長期の自由刑。
厳重管理下の矯正施設において、労働と法教育を受けること。
一定期間ごとに更生状況を審査するものの、政治的権利の回復は認められず、公職へ就くこともできない。
マリアにも、偽造文書使用、不法入国、宮殿侵入、窃盗への長期刑が言い渡された。
別棟の矯正施設で労働と基礎教育を受け、被害額を可能な範囲で弁済する。
再犯防止教育の成果によっては将来的な刑期見直しの余地があるが、貴族籍への復帰や政治活動は認められない。
「厳しすぎる!」
エドバードが叫ぶ。
「俺は王子だぞ!」
「王族特権はありません」
「俺は英雄だ!」
「それは法的身分ではありません」
「歴史が俺の正しさを証明する!」
「法廷は、未来の歴史書ではなく、現在の証拠に基づいて判断します」
裁判長は視線を逸らさなかった。
「本刑は復讐ではありません」
言葉が重く響く。
「あなた方を社会から永遠に消すためでもない」
エドバードもマリアも、押し黙る。
「自ら選んだ行為へ責任を負い、他者の権利と法を学び直すための処分です」
裁判長は判決文を閉じた。
「更生の機会は与えられます」
「更生など必要ない!」
「それを判断するのは、今のあなたではありません」
木槌が三度鳴る。
「閉廷します」
法廷の外には、両国の報道官と記者たちが集まっていた。
ただし、被告人の姿を見世物にしないため、移送経路は一般の通路と分けられている。
帝国は公開裁判を重視するが、刑罰を娯楽として消費することまでは認めていない。
拘束具をつけられたエドバードは、護送官に挟まれながら歩いた。
角を曲がる直前、彼は立ち止まる。
「レティシア!」
少し離れた場所にいた彼女が振り向いた。
「見ていろ!」
エドバードの目には、奇妙なほど力強い光が宿っている。
「この牢獄編を乗り越え、俺は真の英雄になる!」
護送官が腕を引く。
「歩いてください」
「牢獄で出会った仲間たちを率い、腐敗した看守へ立ち向かい――」
「当施設の看守に腐敗があれば、内部監査局へ通報してください」
「そういう話ではない!」
「では、歩いてください」
「俺の物語は終わっていないぞ!」
『物語化による現実逃避が継続しております』
セネカが小さく告げる。
『更生教育には相応の時間を要する見込みです』
『次回作へ持ち越しですか!?』
『予定はありません』
エドバードは護送官に連れられ、角の向こうへ消えた。
反対側の通路では、マリアが女性護送官へ質問を浴びせている。
「食事は一日三回なのよね?」
「はい」
「お菓子は?」
「労働成績と健康状態に応じ、週に一度です」
「少ない!」
「一般的な規定です」
「部屋は一人部屋?」
「当初は二人部屋です」
「相手はお金持ち?」
「収容者です」
「看守の中に独身男性は?」
「その質問は記録します」
「どうして!?」
「職員への不適切な接触を予防するためです」
マリアは即座に口を閉じた。
数歩進んだところで、今度は声を潜める。
「食事担当の人と仲よくなったら、おまけを――」
「聞こえています」
「耳がよすぎるのよ!」
別棟へ続く扉が閉じる。
エドバードとマリア。
二人の物語は、罰によって消滅するわけではない。
だが、他人の人生を踏み台にして王座や富を得る道は、ここで完全に閉ざされた。
これから彼らが歩くのは、英雄譚でも悲劇でもない。
働き、学び、犯したことの責任を少しずつ返していく、地味で長い現実である。
『審理終了を確認しました』
セネカが告げる。
ジョンは一度だけ赤金色の輪を強く輝かせた。
『英雄ごっこ、ここに完全終幕です!』
その声は勝者を称えるものではなく、一つの騒動へ幕を下ろす鐘のように響いた。
裁判後の報告会が終わった時には、既に日が傾いていた。
帝国司法庁の廊下へ、長い影が伸びている。
レティシアはルークや司法官へ短い挨拶をし、一人で中庭へ出た。
誰かを避けたかったわけではない。
ただ、今だけは静かな場所にいたかった。
庭園には冬薔薇が咲いている。
冷たい風へ晒されながらも、深い赤の花弁を幾重にも重ね、夕陽を受けていた。
レティシアは石造りの欄干へ手を置く。
終わった。
今度こそ、本当に。
婚約は百日以上も前に解消されている。
王国も離れた。
帝国で新たな役職を得て、自分の研究室も持った。
エドバードへ戻らないと、はっきり告げた。
法廷も、彼自身の行いへ判決を下した。
勝ったのだと、人は言うだろう。
悪役令嬢と呼ばれた女性が真実を証明し、愚かな王子を退け、自由と名誉を得た。
物語にすれば、鮮やかな結末である。
けれど、胸の奥にあるものは、勝利の喜びだけではなかった。
十年という時間。
報われなかった献身。
傷ついていないふりをした夜。
婚約破棄を宣言された時、泣くより先に証拠を並べた自分。
帝国へ来てからも、役に立たなければ捨てられるのではないかと怯え続けた心。
それらが緊張という一本の糸で結ばれ、今までどうにか形を保っていた。
その糸が、音もなく切れる。
頬へ冷たいものが触れた。
雨かと思った。
空は晴れている。
レティシアは指先で頬を拭った。
手袋へ、小さな雫が残る。
「……困りましたわ」
声が震える。
泣くつもりはなかった。
泣く理由も、うまく説明できない。
悲しいのか、悔しいのか、安堵しているのか。
きっと、その全てだった。
「これで終わったのに」
次の雫が落ちる。
「勝ったはずなのに」
「勝利と涙は矛盾しない」
背後から、ルークの声がした。
レティシアは振り返らなかった。
「殿下」
「一人にしてほしいか?」
足音は近づいてこない。
彼は数歩離れた場所に立ち、彼女の意思を待っている。
「……分かりません」
完璧ではない答えが、唇からこぼれた。
以前なら、求められている返答を瞬時に選んだだろう。
心配をかけないよう微笑み、大丈夫だと告げていたはずである。
今は、大丈夫ではなかった。
そして、大丈夫ではない自分を隠す力も残っていない。
「なら、ここにいる」
ルークはそれ以上近づかず、何も尋ねなかった。
エドバードへの未練があるのか。
過去を惜しんでいるのか。
なぜ泣いているのか。
答えを要求せず、沈黙を埋めようともしない。
ただ、レティシアが一人で立てなくなった時に手を伸ばせる距離へいる。
双響鏡が彼の後方に浮かんでいた。
赤金色と青銀色の輪は、淡い光を放っている。
ジョンなら、涙の理由を感情豊かに実況できただろう。
セネカなら、心拍や魔力変動から悲嘆と安堵の割合を推定できたかもしれない。
しかし、二つの人格は何も言わなかった。
分析結果を表示することも、沈黙を気まずがることもない。
やがて赤金色の輪がゆっくりと光を落とす。
青銀色の輪もそれに続いた。
双響鏡は銀色の球体へ戻り、静かに台座へ降りる。
レティシアの胸へ、新たな涙が込み上げた。
道具でさえ、彼女が言葉にされたくない時を理解している。
王国で十年を過ごしても得られなかった思いやりが、この異国では、あまりにも自然に差し出される。
レティシアは欄干から手を離した。
振り返る。
ルークは、いつもと変わらない静かな表情で立っていた。
けれど金色の瞳には、彼女が一歩を踏み出すまで待つ意思がある。
レティシアは彼へ近づいた。
一歩。
もう一歩。
最後の距離だけ、足が止まりかける。
誰かへ寄りかかることは、彼女にとって敗北に近かった。
自分で立てなくなれば、価値を失う。
助けを求めれば、負担になる。
そう信じて生きてきた。
だが、ルークは以前、言った。
一人で全てを片づけようとするな。
今は私たちがいる、と。
レティシアは恐る恐る、彼の肩へ額を預けた。
ルークの身体が一瞬だけ強張る。
それでも、彼は急に抱き寄せたり、顔を覗き込んだりしなかった。
ただ、逃げ道を塞がないほど穏やかに、彼女の背へ片手を添える。
黒い上着へ、涙が染み込む。
「申し訳ございません」
「謝る理由はない」
「衣装が濡れます」
「替えはある」
「しばらく、公務へ戻れそうにございません」
「今日の予定は全て終わっている」
「明日の会議資料が――」
「私が読む」
「研究院の報告書も」
「院長へ明後日まで待つよう伝える」
「古代文字の照合作業は、殿下にはできません」
「それだけは君に頼む」
ルークの手が、ゆっくりと背を撫でる。
「だが、今でなくていい」
その言葉に、レティシアは目を閉じた。
今でなくていい。
何かを成し遂げていなくてもいい。
涙を止め、笑顔を作り、役に立つ状態へ戻るまで待たせるのではない。
何もできない今の彼女も、ここにいてよいのだと告げている。
「殿下」
「何だ」
「少しだけ、このままでいてもよろしいでしょうか」
「君が望むだけ」
レティシアは彼の肩へ寄りかかったまま、静かに涙を流した。
夕陽が沈み、庭園の古代魔導灯へ一つずつ明かりがともる。
誰も実況しない。
誰も解説しない。
歓声も、判定も、勝利を告げるファンファーレもない。
ただ、一人で立ち続けてきた女性が、初めて誰かへ重みを預ける時間だけが、穏やかに流れていった。




