第十四章 元王子の全財産はパンの耳二個です
帝国宮殿の大広間は、本来、新たに就任した研究院長を歓迎するために整えられた場所だった。
磨き抜かれた床には帝国の双頭鷲が描かれ、長卓には精緻な銀食器と色鮮やかな料理が並んでいる。
楽団は祝祭曲を奏でる予定だった。
貴族や官僚は、研究院の未来について穏やかに語り合うはずだったのである。
現在、会場の中央には泥まみれの元王子が立ち、その後方では破れたドレス姿の元男爵令嬢が肉料理を懐へ隠していた。
歓迎されるべき研究院長は、壁際で事態を面白そうに観察している。
楽団員たちは楽器を構えたまま、どの曲を演奏すればよいのか判断できずにいた。
凱旋曲ではない。
悲劇でもない。
強いて言えば喜劇だが、即興演奏には高度すぎる題材だった。
「レティシア」
エドバードは両腕を広げた。
袖口から泥が飛び、近くにいた伯爵が素早く身を引く。
「強がる必要はない」
「強がってはおりません」
「俺が迎えに来たのだ」
「頼んでおりません」
「さあ、俺のもとへ戻れ」
「お断りいたします」
会話は驚くほど滑らかに進んだ。
正確には、レティシアの拒絶だけが滑らかだった。
エドバードは一歩踏み出す。
警備兵が剣の柄へ手をかけたが、レティシアは視線だけで制した。
「照れているのだな」
『拒絶を好意へ変換する現実逃避が発生しています』
セネカの青銀色の輪が淡く輝く。
『対象者の現在の推定動機は、虚栄心六十五パーセント、執着二十七パーセント、残り八パーセントは本人にも不明です』
『八パーセントの闇が深い!』
「俺の心を勝手に分析するな!」
『心を直接読んではおりません』
『発言、表情、魔力変動、過去の行動から推定しております!』
「ならば間違っている!」
『その可能性は三・二パーセントです』
「低すぎる!」
エドバードは双響鏡から視線を逸らし、レティシアへ向き直った。
「君が帝国へ来た理由は分かっている」
「ぜひ伺いたく存じます」
「俺を試すためだ」
「違います」
「即答するな!」
「事実ですので」
「君は昔から、素直ではなかった」
エドバードは哀れむように微笑んだ。
「俺がマリアへ心を奪われたふりをしたことで、君は嫉妬した」
「ふり?」
床に座って肉を食べていたマリアが顔を上げる。
「何よ、それ」
「今は黙っていろ」
「私への愛は本物だって言ったじゃない!」
「状況が変わったのだ」
「愛が状況で変わるなら、真実じゃないでしょ!」
『マリア選手、正論です!』
『自身にも適用できれば、より有益でしょう』
「うるさいわね!」
エドバードは咳払いをし、胸へ片手を当てた。
「レティシア」
「はい」
「君が俺を忘れられないことは理解している」
「忘れたいとは思っております」
「だからこそ、帝国で華々しく活躍し、俺へ見せつけようとした」
「殿下のいらっしゃった開拓地に、帝国の新聞記事が届くことは存じませんでした」
「偶然を装ったのだろう」
「新聞社の配達計画にまで関与した覚えはございません」
「君なら可能だ」
「能力への過大な評価だけは、ありがたく受け取っておきます」
大広間のあちこちで、押し殺した笑いが起こる。
エドバードは自分が笑われているとは考えず、レティシアの照れ隠しが微笑ましいとでも言いたげに頷いた。
「戻れば、全てを許そう」
「何をお許しになるのでしょう?」
「帝国へ来たことも、この男へ近づいたこともだ」
エドバードはルークへ鋭い視線を向けた。
ルークは壁際の卓へ寄り、記録帳を開いている。
視線を返すことすらなく、セネカが先ほど算出した割合を書き留めていた。
「聞いているのか、帝国皇太子!」
「聞いている」
「ならば、その女から離れろ!」
ルークはようやく顔を上げた。
「理由は?」
「レティシアは俺の婚約者だ!」
『事実誤認です』
セネカの声とともに、空中へ一枚の公文書が投影される。
グラディス王国国王の署名。
ヴァンガード公爵家当主の署名。
司法局の認証印。
そして《婚約解消成立》の文字。
『婚約は百二十七日前に正式解消されております』
『全国生中継で成立しました!』
「一時的なものだ!」
『期限の記載はありません』
「俺が王位へ戻れば、無効にできる!」
『その前提には重大な問題があります』
文書が消え、代わりにエドバードの現在情報が表示された。
《王位継承権・なし》
《王族籍・剥奪手続き中》
《爵位・なし》
《公職・なし》
《合法的な出国許可・なし》
《正規の身分証明書・なし》
《帝国宮殿への入場許可・なし》
『エドバード氏が王位へ復帰する法的根拠は、現在一つも確認できません』
「父上は俺を見捨てない!」
『グラディス国王より、身柄確保への協力要請が到着しております』
「何だと?」
空中へ、国王の親書が現れる。
そこには、エドバードの脱走を謝罪し、帝国法に基づく拘束へ全面的に協力する旨が記されている。
「偽物だ!」
『王家の魔力印を確認済みです』
「父上はレティシアに騙されている!」
『責任転嫁を確認しました!』
「これは全て、俺が真の王へ至るための試練なのだ!」
『英雄物語への逃避も確認しました』
「逃避ではない!」
『では、現実的な復権計画をご説明ください』
「それは……」
エドバードは口を開いた。
言葉が出ない。
民衆の支持を得る方法。
法的手続き。
王国財政の立て直し。
失った信用の回復。
国庫へ返済する二億ゴールドの調達。
彼はそのどれも考えていなかった。
レティシアの手を取って王都へ帰れば、物語の結末のように全てが元へ戻ると信じていただけである。
「細かな手続きは、レティシアが行う」
ようやく出てきた答えに、大広間の空気が凍った。
レティシアの瞳から、ごくわずかに温度が消える。
「私が?」
「そうだ」
エドバードは、当然のように頷いた。
「君は昔から、そのような仕事が得意だった」
「つまり、殿下が王位へ戻るために必要な法的手続き、国民への説明、財政再建、国際信用の回復を、私へ任せると?」
「君の罪滅ぼしにもなる」
「私の罪とは?」
「俺を見捨て、帝国へ逃げた罪だ」
誰かが息を呑んだ。
ルークの手元で、筆が止まる。
彼は発言しなかった。
金色の瞳に冷たい怒りが宿ったものの、レティシアの返答を奪おうとはしない。
エドバードが見ているのは、一人の女性ではなかった。
自分の失敗を帳消しにする機能。
書類を片づけ、演説を書き、謝罪を代行し、黙って王冠への道を整える便利な道具。
十年以上、レティシアが差し出してきた献身を、彼は今も当然の権利だと思っている。
「殿下」
レティシアが静かに口を開いた。
「何だ」
「一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「何でも聞け」
「現在、殿下がお持ちの資産はいかほどでございますか?」
エドバードは一瞬、目を瞬かせる。
「俺は未来の国王だ」
「それは資産額ではございません」
「王国そのものが俺の財産となる」
『なりません』
セネカが即座に訂正した。
『国庫と王族個人の財産は別です』
『ここは百二十七日前にも学習した範囲です!』
「数字で人間の価値を測るな!」
「人間の価値は測っておりません」
レティシアは双響鏡へ視線を向けた。
「現在の経済状況を確認しているだけです」
彼女の指先が、ほんのわずかに二度動く。
赤金色の輪が強く輝いた。
ルークが身を乗り出す。
彼だけは、この合図が何を意味するのか理解していた。
「来るぞ」
「何がです?」
隣の研究院長が尋ねる。
「伝説だ」
ルークの声音には、宗教的な瞬間へ立ち会う信徒のような感動があった。
セネカが記録照合を始める。
『エドバード氏の現在資産を確認します』
大広間の中央へ、巨大な一覧が展開された。
《王位継承権・なし》
《爵位・なし》
《不動産・なし》
《預金・なし》
《換金可能な宝飾品・なし》
《所持金・銅貨二枚》
「あるではないか!」
エドバードが勢いを取り戻す。
「所持金はある!」
『その銅貨二枚は、宿泊費の不足分として宿主へ支払う予定だったものです』
「まだ支払っていないなら俺のものだ!」
『未払債務が同額存在するため、純資産には含めません』
「卑怯な計算をするな!」
『一般的な会計処理です』
一覧が続く。
《携帯食料・固焼きパン一枚》
《携帯食料・パンの耳二個》
《借用品・赤い舞台用マント》
《借用品・木製模擬剣》
《負債・四千八百万ゴールド》
《国庫返還請求予定額・二億ゴールド》
セネカが数秒の演算を終える。
『負債と借用品を除外した結果、彼の現在の総資産は――』
ジョンが息を吸い込む。
ルークの瞳が輝く。
『パンの耳二個です』
『ついに出ましたぁぁ! 伝説のパンの耳判定!』
大広間が揺れた。
笑い声。
驚きの声。
何人かの貴族は扇や手袋で口元を隠し、研究者たちは投影された計算過程を書き写している。
楽団の太鼓奏者が、感動のあまり一度だけ太鼓を鳴らした。
「この瞬間を待っていた」
ルークは記録帳へ大きく二重丸を描いた。
「殿下、楽しみすぎです」
「この表現を提案した日から、百二十六日待った」
「数えていらしたのですか?」
「当然だ」
レティシアは呆れながらも、ほんの少し笑った。
その表情を見たエドバードは、顔を赤くする。
「俺を笑うな!」
「笑っておりません」
「では、なぜ微笑んだ!」
「殿下とは関係のない理由です」
その答えの方が、彼には強く響いたらしい。
エドバードはルークを睨みつけた。
「貴様がレティシアを唆したのだな!」
「違う」
「俺の婚約者へ財力を見せつけ、心を奪った!」
「君の元婚約者だ」
「訂正するな!」
「誤りは訂正する」
ルークは記録帳を閉じた。
「それに、財力を見せつけて贈り物をしたのは君だろう」
「あれは愛だ!」
「国庫から二億ゴールドを流用した行為は、愛ではなく横領だ」
『百二十七日前と同じ結論です』
『真実の愛、再審でも横領判定!』
「数字で愛を測るな!」
『金額ではなく出所を問題にしております』
エドバードの主張は、場所と年月を変えても成長していなかった。
「もういいわ!」
突然、マリアが立ち上がった。
彼女は泥を払うふりをしながら、懐へ隠した肉料理を長卓の下へ落とした。
「わたしは無理やり連れてこられたんですぅ!」
声が一瞬で甘くなる。
潤んだ薄桃色の瞳が、ルークへ向けられた。
「マリアは、殿下に逆らえなくてぇ」
「君が帝国へ行こうと言ったのではないか!」
エドバードが振り返る。
「酷いですぅ!」
マリアは胸元で手を組んだ。
「元王子様に命令されて、怖くて逆らえなかったんですぅ」
「君が、レティシアを連れ戻せば王位へ復帰できると言ったのだろう!」
「覚えてませんわぁ」
『では、記録を再生します』
「えっ」
セネカの声とともに、開拓地の食堂が映し出される。
新聞を前にしたマリアが、満面の笑みでエドバードと話している。
『取り戻しに行きましょう』
『殿下がレティシア様を連れ戻せば、廃嫡だって取り消してもらえます』
『王位継承権も戻り、殿下は未来の国王へ返り咲くのです』
映像が止まる。
『提案者はマリア氏です』
『鮮やかな扇動だぁぁ!』
「盗撮よ!」
『開拓地の公共防犯鏡及び当事者の魔力残滓を照合した復元映像です』
『私的空間への無断監視ではありません!』
「そんな細かいことはどうでもいいの!」
『犯罪審理においては重要です』
マリアはルークを見た。
彼の表情に同情がないと悟ると、視線を素早く会場内へ走らせる。
金の刺繍を施した服。
大粒の宝石。
上等な靴。
年齢と顔立ちと身分を即座に見比べ、恰幅のよい中年貴族へ駆け寄った。
「わたし、本当はずっと助けを求めていたのですぅ」
貴族は一歩下がる。
マリアも一歩進む。
「どうか、か弱いマリアをお守りくださいませぇ」
貴族はさらに一歩下がった。
隣にいた夫人が前へ出る。
「主人は結婚しております」
「では、そちらの若い方でも」
周囲にいた未婚貴族たちが、申し合わせたように一歩下がった。
マリアだけが大広間の中央へ残される。
『見事な統率行動です!』
『会場の危機管理能力は高水準と評価できます』
「誰か一人くらい助けなさいよ!」
「司法官が助ける」
ルークが言った。
「君には弁護人をつける権利がある」
「そういう助けじゃない!」
「法の前では、それ以上の助けを期待するな」
マリアは歯を食いしばる。
泣き顔を作ろうとしたものの、怒りが勝ち、頬が引きつっていた。
レティシアは、エドバードへ向き直った。
もう笑いは起きていない。
大広間にいる全員が、彼女の言葉を待っていた。
十年以上という歳月は、数字にすれば短い。
だが、その中には無数の朝と夜がある。
エドバードが寝坊した会議へ代理出席した朝。
彼が破った約束を補うため、謝罪文を書いた夜。
王妃教育を終えた後も執務室へ残り、彼の読みもしない資料を整えた時間。
風邪をひいていても笑い、悔しくても声を荒らげず、次期王妃に相応しくあろうとした日々。
「私は十年間、あなたを支えることが国のためになると信じておりました」
エドバードの表情が明るくなる。
「そうだろう」
「あなたに感謝されなくても、理解されなくても、それが私の役割だと思っていたのです」
「ならば、また――」
「ですが」
レティシアの声量は変わらない。
それでも、その一言がエドバードの言葉を断ち切った。
「役割を果たすことと、尊厳を差し出すことは違います」
「何を言っている」
「あなたは私が支えるたび、ご自分で立つことをおやめになりました」
一歩も近づかず、逃げもせず、真正面から見据える。
「私が書類を直すから、あなたは読まなかった」
「それは君が得意だからだ」
「私が謝罪するから、あなたは責任を負わなかった」
「王族が簡単に頭を下げるものではない」
「私が失敗を防ぐから、あなたは自分が有能だと信じ続けた」
「事実だ!」
「いいえ」
レティシアは静かに首を振った。
「私が、あなたから失敗する権利まで奪っていたのかもしれません」
エドバードが言葉を失う。
「早く見放せばよかったとは申しません」
自分自身へ言い聞かせるように、彼女は続けた。
「あの頃の私は、支え続けることが正しいと信じておりました」
それは悔恨であり、過去の自分への理解でもあった。
「ですが、もう終わったのです」
「終わっていない!」
「終わりました」
「俺には君が必要だ!」
その言葉に、かつてのレティシアなら立ち止まっただろう。
必要とされること。
役に立つこと。
それこそが己の価値だと信じていたから。
だが、今の彼女には分かっている。
エドバードが必要としているのは、レティシアという人間ではない。
彼の過失を覆い隠す機能である。
「あなたに必要なのは、私ではございません」
「何だと?」
「あなたの代わりに責任を負う誰かです」
レティシアは胸元へ手を添えた。
「私は二度と、あなたの人生を代わりに背負いません」
言葉が大広間へ静かに落ちる。
双響鏡は何も挟まない。
ジョンもセネカも沈黙し、彼女自身の声が届くのを待っていた。
「あなたの失敗も、選択も、これから下される処分も、あなたのものです」
「レティシア……」
「どうか、ご自分でお持ちくださいませ」
完璧な礼ではなかった。
ただ、一人の人間として、彼女は小さく頭を下げた。
それは別れの挨拶だった。
エドバードの顔が歪む。
悲しみより先に、怒りが現れた。
「この男のせいだな!」
彼は木の模擬剣を抜き、ルークへ突きつける。
「俺と決闘しろ!」
警備兵たちが動こうとする。
ルークは片手で制した。
「断る」
「逃げるのか!」
「違う」
彼はレティシアの隣へ立った。
前へ出て庇うのではなく、横へ並ぶ。
「レティシアは所有物ではない」
「彼女を賭けて戦え!」
「勝敗によって譲り渡される女性でもない」
「貴様に誇りはないのか!」
「彼女が既に答えた」
ルークの声は、氷の刃のように澄んでいた。
「私が追加で戦う理由はない」
「男なら、剣で示せ!」
「彼女の意思より、男同士の決闘を優先する理由もない」
エドバードは模擬剣を握りしめる。
彼には理解できない。
奪うか、奪われるか。
勝つか、負けるか。
彼の物語には、それ以外の結末が存在しなかった。
レティシアは隣に立つルークを見上げた。
彼は彼女を守るためなら、軍を動かすことさえ躊躇しないだろう。
それでも、彼女の返答を自分の武勇で塗り替えようとはしない。
決める権利を、最初から彼女へ返している。
「ありがとうございます」
「私は何もしていない」
「ええ」
レティシアは柔らかく微笑んだ。
「それが、ありがたいのです」
ルークは一瞬だけ目を見開き、やがて彼女へ頷いた。
その間へ、帝国司法官が進み出る。
「エドバード・フォン・グラディス」
広げられた逮捕状へ、帝国司法局の紋章が輝く。
「マリア・ローゼンジ」
「嫌よ!」
「両名を、不法出国、偽造文書使用、国境侵犯、帝国宮殿への不法侵入、窃盗及び逮捕妨害の容疑で拘束する」
警備兵たちが二人を取り囲む。
エドバードは模擬剣を振り上げたが、左右から腕をつかまれた。
「離せ!」
マリアは長卓へしがみつく。
「私、まだ何も食べてない!」
『先ほど肉料理を二皿分、懐へ入れております』
「見てたの!?」
『公共の大広間ですので』
ジョンの赤金色の輪が、天井近くまで舞い上がる。
『さあ、長きにわたる元王子の帝国侵入劇!』
エドバードはなおも足を踏ん張り、英雄のように顎を上げた。
マリアは卓布を握ったまま、靴を脱いで抵抗している。
セネカの輪が青銀の光を放つ。
『証拠照合、完了しました』
ジョンが大きく息を吸い込む。
『判定は――完全なる敗北です!』




