第十三章 泥沼! 落とし穴! ドレス崩壊!
帝国宮殿西側に広がる旧庭園は、二百年前の皇帝が造らせたものだという。
その皇帝は芸術と謎解きを好み、植え込みで構成された巨大な迷路を、外交使節への余興として使用していた。
当時の使節たちは、道を間違えるたびに庭師から菓子を渡され、出口へ着く頃には不機嫌より満腹が勝っていたらしい。
現在では一般公開され、昼間なら子供でも迷わないよう、各分岐へ案内板が立てられている。
ただし、案内板を正しく読めばの話である。
「こっちだ!」
エドバードは《宮殿方面・右》と書かれた案内板を見て、左へ曲がった。
「右って書いてあるわよ!」
「敵が用意した案内を信じるのか?」
「じゃあ、何で読んだのよ!」
「罠を見破るためだ」
マリアは不満げに唇を尖らせたものの、立ち止まれば置いていかれるため、その背中を追うしかない。
二人は細い道を駆け抜け、角を曲がり、噴水のある小広場へ出た。
噴水の中央では、壺を抱えた女神像が月明かりを浴びている。
エドバードは一度だけ周囲を見回し、自信満々に正面の道を選んだ。
五分後、同じ女神像が現れた。
「妙だな」
「同じ場所じゃない?」
「似た像を複数置き、俺たちを惑わせているのだ」
「壺の取っ手が欠けてるところまで同じだけど」
「帝国の職人は同じ失敗を繰り返すらしい」
今度は左の道へ進む。
再び五分後。
女神像が二人を出迎えた。
「……」
「……」
マリアが無言でエドバードを見る。
「敵も考えたものだ」
「迷ってるって認めなさいよ!」
『エドバード選手、三周目に突入しました!』
頭上から、待ち構えていたジョンの声が響いた。
『安定した周回です!』
『目的地から三百二十メートル遠ざかっております』
「黙れ!」
エドバードは女神像へ指を突きつける。
「この庭園には幻術がかけられている!」
『魔力反応はありません』
『純粋な迷子だぁぁ!』
「俺が迷うはずがない!」
『では、現在地をお答えください』
「宮殿西側だ!」
『範囲が広すぎます』
『惜しくも不正解!』
「広義では正解だ!」
「殿下、双響鏡と口喧嘩してないで出口を探してよ!」
マリアは苛立ちに任せ、噴水の縁を蹴った。
隠されていた感圧板が沈み、植え込みの一部が横へ動く。
新しい通路が現れた。
「ほら、道が開いたわ!」
「さすがだ、マリア」
「もっと褒めて」
「君の計画性は、時にレティシアを上回る」
「比較対象が気に入らないけど、今は許すわ」
二人は新たな道へ踏み込んだ。
なお、その通路は庭園管理用であり、宮殿とは反対方向へ続いている。
案内板にも《庭師詰所》と明記されていたが、二人は走ることへ夢中で読まなかった。
『四周目へ突入!』
「まだ同じところなの!?」
『厳密には、周回範囲が拡大しました』
『迷子として成長しております!』
「成長してどうするのよ!」
五周目に同じ女神像を見た時、マリアは噴水の縁へ座り込んだ。
「もう無理!」
「諦めるな!」
「走ってるのは私も同じなのに、何で殿下だけ元気なのよ!」
「英雄の精神力だ」
「さっきから曲がり角で私を先に行かせて、安全を確認してるからでしょ!」
「君を信頼しているのだ」
「盾にしてるって言うのよ!」
言い争う二人の周囲で、植え込みが音もなく動く。
警備室から操作された迷路が、ようやく出口への一本道を作った。
これは二人を助けるためではない。
予定された拘束区画へ誘導するためである。
女神像の壺から、細い光が一本の通路を照らす。
「見ろ!」
エドバードが立ち上がった。
「天が道を示した!」
『警備兵が示しました』
「俺にとっては同じことだ!」
『警備兵を天と同一視する発言が確認されました!』
『現場の士気が若干上がっています』
植え込みの向こうで、警備兵が誇らしげに胸を張った。
光の先には、開けた芝生が広がっていた。
芝生を横切れば、宮殿の灯りが見える。
ただし、中央部分だけ土の色が濃く、周囲には三枚の看板が立っている。
《進入禁止》
《侵入者拘束用軟泥区画》
《危険・踏み込まないでください》
「開けた場所だ!」
エドバードが歓喜する。
「一気に駆け抜けるぞ!」
「何か看板があるわよ」
「罠だ」
「罠って書いてあるんじゃない?」
「だから罠なのだ」
「どういう意味?」
「安全な場所へ危険と書くことで、侵入者を遠回りさせる心理戦だ」
「なるほど」
マリアが納得してしまった。
似た者同士であることの恐ろしさは、誤った推論へ賛成票が入る点にある。
「俺が先に行く」
エドバードはマントを翻した。
「ここまで君に危険を負わせたからな」
「やっと殿下らしいところを見せるのね」
「見ていろ、マリア!」
彼は助走をつけ、芝生へ飛び出した。
一歩。
二歩。
三歩目で地面が大きく沈む。
「ぬ?」
次の瞬間、エドバードの身体は腰まで泥へ埋まった。
勢いよく着地したため、粘り気のある泥が噴水のように跳ね上がり、金髪も赤いマントも茶色に染める。
『元第一王子、華麗に泥沼へダイブ!』
『罠の存在を示す看板は三か所ありました』
「卑怯だぞ!」
『看板を無視しただけです』
「敵が用意した看板など信じられるか!」
『では、何を信じたのですか?』
「己の直感だ!」
『現在、その直感とともに沈んでおります』
『直感、完全に泥沼だぁぁ!』
エドバードは両腕を動かした。
軟泥は水より重く、もがくほど身体へまとわりつく。
「マリア、手を貸せ!」
芝生の端にいたマリアは、一歩後ずさった。
「嫌よ」
「なぜだ!」
「私まで沈むじゃない!」
「俺を見捨てるのか!」
「見捨てないわよ」
彼女は周囲を見回した。
棒も縄も見当たらない。
その代わり、泥の中で踏み台にできそうなものがある。
「殿下、少しだけ屈んで」
「俺の肩をつかむのか?」
「ええ」
マリアは片足を泥へ入れ、エドバードの肩へ手を置いた。
「そうだ、俺を支えに――」
次の瞬間、彼女の靴がエドバードの背中へ載った。
「何をしている!」
「踏み台になって!」
「助けるのではなかったのか!」
「私が先に向こう岸へ渡ってから助けるわ!」
「それを見捨てると言うのだ!」
マリアは彼の背中を蹴り、前へ跳ぼうとする。
だが、泥に沈んだスカートの裾が両足へ絡んだ。
「あっ」
身体が傾く。
彼女は空中で両腕を回し、辛うじてエドバードの頭をつかんだ。
「髪を引くな!」
「沈みたくないの!」
「俺の頭を足場にするな!」
「王冠が載る場所なら、私くらい載せられるでしょ!」
「意味が分からぬ!」
二人はしばらく均衡を保った。
やがて、エドバードの足元がさらに沈む。
「マリア」
「何よ」
「離れろ」
「嫌」
「共倒れになるぞ」
「殿下がもっと踏ん張って!」
「既に限界だ!」
二人は同時に泥へ倒れ込んだ。
盛大なしぶきが上がる。
『共倒れです!』
『予測どおりです』
『マリア選手、救助対象を踏み台にした結果、自らも泥沼へ!』
『合理性を欠いた利己的行動の典型例です』
「冷静に分析しないでよ!」
マリアは泥から顔を出し、エドバードの肩を押さえた。
「殿下がちゃんと支えないから!」
「君が頭を踏んだからだ!」
「もっと大きな背中なら渡れたのに!」
「俺の体格へ文句を言うな!」
言い争う二人の横へ、細い板橋が魔導装置でせり出した。
拘束用区画を管理する警備兵が、安全に救助するためのものだ。
だがマリアは、それを脱出経路だと思い込む。
「橋よ!」
彼女はエドバードの肩へ手をかけ、泥から這い上がった。
「今度こそ先に行くわ!」
「俺も引き上げろ!」
「後で!」
「その言葉を一度も守ったことがないではないか!」
マリアは板橋へ上がり、重くなったドレスを引きずりながら走り出した。
庭園の木々から伸びた枝が、裾の刺繍へ引っかかる。
彼女は気づかず、さらに前へ進んだ。
布が張りつめる。
「何よ、もう!」
力任せに引く。
豪華なドレスの外側が、腰から下まで一気に裂けた。
びりびりという音が夜の庭園へ響き、泥まみれの布が枝へ残される。
「きゃああああっ!」
『ドレスが崩壊しましたぁぁ!』
「見ないで!」
『下にズボンを着用しております』
『逃走用装備としては妥当です』
マリアは顔を真っ赤にしたが、すぐに腰へ手を当てる。
「当然よ!」
破れたドレスの下には、黒いズボンがあった。
「私だって何も考えてなかったわけじゃないんだから!」
『計画性を確認しました!』
『評価できるのは、現時点ではズボンのみです』
「もっと褒めなさいよ!」
マリアが胸を張った拍子に、ズボンのポケットが裏返った。
詰め込まれていた物が、板橋の上へ次々と落ちる。
干し肉。
固焼きパン。
銀の匙。
香辛料の小瓶。
開拓地管理官の印章。
偽造通行証。
料理長の名前が刺繍された布巾。
最後に、小さな砂糖壺まで転がった。
『証拠品、大放出だぁぁ!』
『開拓地からの窃盗品と推定されます』
「これは旅に必要だったの!」
『銀の匙が?』
「食事に!」
『砂糖壺が?』
「紅茶に!」
『管理官の印章が?』
「格好いいから!」
『窃盗の動機として、著しく弱い回答です』
「返すつもりだったわ!」
『返却予定日は?』
「いつか!」
『未定と記録します』
泥の中から板橋へ這い上がったエドバードが、散乱した品々を見て目を剥く。
「マリア、盗んだのか!」
「殿下だって、赤いマントを持ち出したじゃない!」
「これは俺のだ!」
「開拓地の演劇倉庫にあった物でしょ!」
「未来の国王へ献上されたのだ」
「衣装係が返せって追いかけてたじゃない!」
『双方に窃盗の疑いが追加されました!』
『見事な自白の応酬です』
二人が責任を押しつけ合っている間に、庭園の外では別の戦いが終わりつつあった。
帝都西部の地下水路。
密輸組織の運び屋たちは、木箱を積んだ小舟を進めていた。
地上の騒ぎへ警備が集中していると信じ、誰もが油断している。
先頭の男が合図を送ると、内通していた官吏が水門を開けた。
「元王子は?」
「庭で暴れてる」
「警備兵は全部そっちへ行ったか?」
「ああ」
その返答と同時に、水路の前後へ鉄格子が落ちた。
魔導灯が一斉に点灯する。
壁沿いの通路から、帝国騎士団が姿を現した。
「帝国警備局だ!」
「全員、武器を捨てろ!」
運び屋たちが逃げようとする。
だが小舟の先には鉄格子、後ろにも鉄格子、左右には弓を構えた騎士がいる。
「話が違うぞ!」
運び屋の頭目が、内通官吏の胸倉をつかんだ。
「俺は何も知らない!」
「お前が元王子を連れてきたんだろう!」
「通すだけでいいと言ったではないか!」
そこへ青銀色の光輪が浮かんだ。
『両名の通信記録は保全済みです』
「双響鏡……!」
『なお、地上の騒動へ配置された警備兵は、全体の一割です』
『残る九割はこちらへ大集合だぁぁ!』
ジョンの声が水路へ反響する。
運び屋たちは抵抗の意思を失い、次々と武器を捨てた。
押収された木箱からは、偽造証明書の用紙、違法魔石、研究院から盗まれた部品が発見される。
国境管理局の内通者名簿も入っていた。
警備局が半年かけて追っていた組織は、元王子が庭園を五周している間に壊滅したのである。
「作戦完了」
騎士団長から報告を受けたルークは、宮殿の執務室で短く告げた。
「関係者全員を法に従って取り調べろ」
「承知しました」
通信が切れる。
隣のレティシアは、庭園の立体映像へ目を向けていた。
「そちらは片づきましたか」
「ああ」
「では、二人も拘束いたしましょう」
『警備隊、前進!』
ジョンの声とともに、植え込みの陰から兵士たちが姿を現す。
泥沼の板橋で言い争っていたエドバードとマリアは、ようやく自分たちが完全に包囲されていることへ気づいた。
「武器を捨てろ!」
隊長が命じる。
エドバードは腰へ手を伸ばした。
そこに剣はない。
あるのは剣へ見せかけた木の棒である。
「俺はグラディス王国の第一王子だ!」
「元第一王子です」
「俺に触れれば、国際問題になるぞ!」
「既に国際問題を起こしている最中です」
「これは外交訪問だ!」
「外交使節が泥沼を経由するとは存じませんでした」
隊長の淡々とした返答に、背後の警備兵たちが肩を震わせる。
エドバードは木の棒を抜き、正眼に構えた。
「ならば、力ずくで通る!」
『木の棒で宣戦布告しました!』
『武器としての脅威度は低いものの、本人の意思は明確です』
「覚悟しろ!」
彼が一歩踏み出した瞬間、板橋の端へ置かれていた荷物運搬用魔導台車が動き出した。
マリアが散乱した食料を拾おうとして、起動板を踏んだのである。
台車はエドバードの膝裏へ衝突した。
「ぬおっ!?」
彼は後ろ向きに倒れ、台車の上へ乗る。
木の棒が操作レバーへ引っかかり、速度設定が最大へ切り替わった。
低い駆動音を上げ、台車が走り出す。
「何だ、これは!」
「殿下、待って!」
マリアは咄嗟に赤いマントをつかんだ。
台車へ乗り損ねた彼女の身体は、地面を引きずられる。
「手を離せ!」
「置いていかないで!」
「首が絞まる!」
「私を引き上げて!」
「今それどころではない!」
魔導台車は板橋を渡り、庭園の管理通路へ入った。
追いかける警備兵たちの前で、荷物搬入口の扉が自動的に開く。
「止めろ!」
隊長が叫ぶ。
「その台車の行き先はどこだ!」
管理係が青ざめた顔で台帳を見る。
「本宮殿東棟です!」
「東棟のどこだ!」
「今夜の歓迎パーティー会場へ、追加の食器を運ぶ予定でした!」
誰もが一瞬、言葉を失った。
『セネカ!』
『はい』
『想定外の経路で宮殿へ到達する確率は、何パーセントでしたか!』
『六十八パーセントです』
『的中だぁぁ!』
「喜ぶな!」
警備隊長の怒声を残し、台車は宮殿内へ突入した。
東棟の大広間では、帝国研究院の新任院長を歓迎するパーティーが開かれていた。
レティシアとルークも、騒動を警備局へ任せ、一度は会場へ戻っている。
もっとも、双響鏡の実況が壁面魔導鏡から流れていたため、招待客の注意は祝宴より追跡劇へ集まっていた。
「五周は芸術的でしたね」
老研究者が感心したように言う。
「同じ誤りを五回繰り返すことを、芸術と呼ぶべきでしょうか」
レティシアは紅茶を口へ運んだ。
「再現性という意味では、研究対象になり得る」
ルークは真剣だった。
「殿下、ならなくて結構です」
その瞬間、廊下の奥から異様な駆動音が近づいてきた。
招待客たちが扉へ顔を向ける。
「止まれえええっ!」
警備兵の叫びが聞こえた。
続いて、エドバードの声。
「道を開けろおおおっ!」
マリアの悲鳴。
「先に私を引き上げてえええっ!」
大扉が内側へ勢いよく開いた。
食器を積むはずだった魔導台車が大広間へ飛び込み、卓の間を蛇行する。
貴族たちは悲鳴を上げながら左右へ退いた。
台車は中央の絨毯へ乗り上げ、盛大に回転する。
エドバードが空中へ投げ出された。
マリアも彼のマントをつかんだまま宙を舞う。
二人は泥をまき散らしながら、会場中央へ転がり込んだ。
楽団の演奏が止まる。
誰も言葉を発しない。
泥まみれのエドバードは、ゆっくりと立ち上がった。
前髪をかき上げる。
破れたマントを翻す。
左足を前へ出し、鏡の前で何百回も練習した決めポーズを取った。
「待たせたな、レティシア!」
大広間の視線が、一斉にレティシアへ集まる。
彼女はルークの隣で紅茶を飲んでいた。
カップを置き、泥だらけの男を静かに見つめる。
そして、涼やかな声で尋ねた。
「どちら様でしょう?」
大広間が沈黙する。
次の瞬間、至るところから笑いが噴き出した。
エドバードの決めポーズが崩れる。
「俺だ!」
「申し訳ございません」
レティシアは小さく首を傾げた。
「帝国宮殿の歓迎パーティーへ、荷物用台車で入場なさる知人に心当たりがございませんので」
『痛烈です!』
『所有者は事実を述べただけです』
「レティシア!」
エドバードは泥の滴る腕を広げた。
「君を迎えに来た!」
『頼まれておりません!』
『むしろ明確に拒否されております』
ジョンの声が響く中、警備兵たちが大広間へなだれ込む。
だが、ルークは片手を上げて彼らを止めた。
「少し待て」
レティシアが彼を見る。
「殿下?」
「彼は君へ話があるらしい」
ルークの金色の瞳は、静かに彼女だけを映していた。
「聞くかどうかは、君が決めればいい」
レティシアは一瞬だけ目を伏せた。
過去は、泥まみれになってもなお、自分の人生へ戻る権利があると信じている。
ならば今度こそ、自分自身の言葉で扉を閉じなければならない。
「承知いたしました」
彼女は立ち上がった。
「では伺いましょう」
双響鏡の二つの輪が、大広間の中央へ降りてくる。
『舞台は整いました!』
『公開の場ですが、当事者双方の発言意思を確認しました』
『いよいよ最終対決です!』
エドバードは、勝利を確信したように笑った。
マリアは床に落ちた料理を拾い、誰にも見られていないと思いながら口へ入れていた。
そしてルークは、懐から小さな記録帳を取り出す。
「殿下」
「何だ」
「なぜ筆記の準備をなさるのですか」
「この瞬間を待っていた」
「楽しみすぎです」
レティシアの呆れた声へ、ルークは珍しく素直に頷いた。
「否定はしない」




