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第十六章 帰ってきてくれと言われましても、もう遅いのです

グラディス王国の朝は、以前より一時間早く始まるようになった。

国王が勤勉になったからではない。

日が昇る前に執務を始めなければ、日没までに書類の山が少しも低くならないからである。


「これは何の報告書だ」


国王は目の前に積まれた紙束から一枚を引き抜き、深い皺の刻まれた眉間を押さえた。

そこには、《西部三州における農業用水路修繕計画・再々々提出版》と書かれている。


「なぜ再が三つもついておる」

「最初の計画書は予算不足により差し戻されました」


財務大臣が答える。


「二度目は、現地調査の資料が古かったため再提出となりました」

「三度目は?」

「予算を確保したところ、王家主催の春季舞踏会へ流用されておりました」

「……誰の命令だ」

「当時の第一王子殿下です」

「エドバードか!」


国王の怒声が執務室を震わせる。

扉の外にいた侍従たちは、誰一人として驚かなかった。

同じ怒声を、今週だけで二十七回聞いているからである。


「陛下」


財務大臣は疲れ切った顔で帳簿をめくった。


「問題は、元王子殿下だけではございません」

「分かっておる!」

「いいえ」


大臣は珍しく、国王の言葉を遮った。


「陛下は、まだ全てをご理解なさっておりません」


執務室の空気が張りつめる。

以前なら、臣下が国王へそのような口を利くことはなかった。

だが、もはや遠回しな表現で問題を覆い隠している余裕はない。


「元王子殿下が流用を命じたとしても、実際に帳簿を書き換えた官僚がおります」


財務大臣は一冊の記録簿を机へ置いた。


「疑問を抱きながら承認印を押した長官がおります」


二冊目が重なる。


「王家の不興を買うことを恐れ、監査を中止した者がおります」


三冊目の重い音が響く。


「そして、問題を把握しながら、レティシア嬢が修正してくれるだろうと放置した我々がおります」


最後の一冊は、他より薄かった。

しかし国王には、最も重く見えた。


「これまで王国が辛うじて動いていたのは、制度が健全だったからではございません」


財務大臣の声には、自嘲が滲んでいる。


「一人の公爵令嬢が、誰にも知られぬ場所で穴を塞ぎ続けていたからです」


国王は何も答えられなかった。

机の左側には、未払いとなっている公共事業費。

右側には、廃止すべき旧税制の一覧。

正面には、王家の信用低下によって利率を引き上げると通告してきた商業組合からの書状。

そして足元にも、エドバードが外遊費の名目で購入した品々の明細が置かれている。

宝飾剣。

白馬。

演説用の魔導拡声器。

風がなくても美しく翻る魔法の外套。

鏡の前で立ち位置を確認するための可動式照明台。


「なぜ演説に可動式照明台が必要なのだ!」

「ご尊顔の左側を明るく照らすため、と申請書には」

「却下する者はいなかったのか!」

「申請書には、レティシア嬢の名を模した署名がございました」

「偽造ではないか!」

「はい」

「なぜ見抜けなかった!」

「本物の署名を確認できる者が、レティシア嬢しかおりませんでした」


国王は机へ突っ伏した。

王冠がずれ、書類の角へ引っかかる。

以前なら侍従が即座に直したが、今は誰も動かなかった。

財政危機の最中、王冠の角度は優先順位が低い。


「レティシアを呼び戻せ」


国王が、紙の山へ顔を埋めたまま呻いた。


「陛下」

「宰相の地位を用意する」

「彼女は帝国皇太子府の特別顧問です」

「それ以上の待遇を示せ」

「王国の財政に、その余裕はございません」

「ならば、権限を与える!」

「以前も責任と業務だけは、十分すぎるほど与えておりました」


国王はゆっくりと顔を上げた。

財務大臣は目を逸らさない。


「それでも頼むしかあるまい」


声から怒りが消え、代わりに疲労が滲んでいた。


「この国を立て直せる者が、ほかにおらぬ」

「その言葉こそが、我々の怠慢の証明ではございませんか」


窓の外で、朝を告げる鐘が鳴った。

しかし執務室にいる者たちにとって、一日はとうに始まっている。



数日後、帝国古代魔道研究院の地下研究室へ、グラディス王国の紋章を押した親書が届けられた。

レティシアは封蝋を確認し、開封前に魔力署名を照合する。

王家の正式な書状に間違いない。

以前なら、紋章を見ただけで反射的に背筋を伸ばしていただろう。

今も姿勢は美しく保たれているが、胸を締めつける義務感は、わずかに薄れていた。


『親書の真正性を確認しました』


セネカの青銀色の輪が淡く輝く。


『内容を音読しましょうか?』


「結構です」


『実況風に読むことも可能です!』


「なおさら結構です」


ジョンの赤金色の輪が、目に見えてしおれた。

レティシアは便箋を開く。

文面は、かつて彼女が国王のために作成していた外交書簡とよく似ていた。

定型の挨拶。

帝国での功績に対する祝辞。

両国の友好を願う言葉。

その後に、王国が直面している財政危機と行政混乱が記されている。

書き手が最も伝えたい部分は、終盤にあった。


《そなたの力なくして、王国の再建は困難を極める》

《帰国のうえ、宰相として国政を担ってもらいたい》

《これは王命ではなく、一人の国王としての願いである》


言葉は丁寧だった。

命令ではなく、願いの形を取っている。

それでも行間には、《そなたにしかできない》という依存が、消えずに残っていた。

レティシアの指が、便箋の端で止まる。


「王国の混乱は、予測していた範囲を上回っておりますか?」


『財務状況については、公開資料のみでは結論を出せません』


セネカが答える。


『ただし、帝国外務省が把握している国債利率、穀物価格、官僚辞職者数から判断すると、短期的な行政危機は高い確率で発生しています』

『ここで所有者、祖国救済のため華麗に帰還かぁ!?』


ジョンが勢いよく叫びかけ、途中で音量を落とした。


『……と実況したいところですが、どうなさいます?』


問いに、からかう響きはない。

レティシアは書状へ視線を落とした。

帰れば、何が必要かは分かっている。

王家予算を凍結し、各省庁の重複事業を整理する。

旧税制を統合し、徴税官の裁量を制限する。

地方水路の修繕を優先し、農業生産の回復を図る。

国債の返済計画を組み直し、商業組合との信用を再構築する。

不正へ関与した官吏を調査し、同時に実務を担える人材を育てる。

頭の中では、既に手順が組み上がり始めていた。

自分ならできる。

少なくとも、ほかの誰かより早く、正確に。

ならば、戻るべきではないか。

生まれ育った国が苦しんでいる。

助けられる力があるのに、手を伸ばさないのは冷酷ではないか。


「戻るのか?」


いつの間にか、研究室の入口にルークが立っていた。

レティシアは便箋を伏せなかった。


「まだ、決めておりません」

「そうか」


ルークは向かいの椅子へ腰を下ろした。

返答を促すことも、親書へ手を伸ばすこともない。


「お読みになりますか?」

「君が読んでほしいなら」


レティシアは書状を差し出した。

ルークは一読し、机へ戻す。

表情には、グラディス国王への怒りも軽蔑も浮かんでいなかった。


「殿下は、どう思われますか?」

「何についてだ」

「私が帰国することについてです」

「戻りたいなら止めない」


あまりに迷いのない答えに、レティシアは瞬いた。


「帝国にとっては、私が残る方が利益になるのでは?」

「なる」

「でしたら――」

「だが、君の人生は帝国の利益だけで決めるものではない」


ルークは椅子の背へ身を預けた。


「君が祖国のために働きたいと望むなら、私は可能な協力をする」

「帝国皇太子が、他国の宰相を支援なさるのですか?」

「個人的には複雑だが、君が選んだ道なら尊重する」

「複雑なのですか?」

「君と会える時間が減る」


極めて真剣な顔で、彼は答えた。


「それは非常に困る」


レティシアの胸に、小さな温かさが灯る。

能力が失われるからでも、帝国の政策が遅れるからでもない。

会える時間が減るから困ると、彼は言った。


「ただし」


ルークの金色の瞳が、彼女をまっすぐに見つめる。


「義務感だけで戻る必要はない」

「……」

「王国へ帰りたいのか?」


問いは簡潔だった。

だからこそ、誤魔化せない。

助けられるかではない。

戻るべきかでもない。

自分が戻りたいのかと尋ねられている。

レティシアは胸の内側へ、慎重に問いかけた。

王都の街並みは好きだった。

公爵邸の庭も、幼い頃に弟と遊んだ書庫も、季節ごとに色を変える丘陵地帯も愛している。

だが、王宮へ戻り、再び膨大な書類を一人で抱える自分を想像すると、呼吸が浅くなる。

困った顔をした官僚たちに囲まれ、《レティシア様にしかできない》と言われる日々。

感謝と期待の形をした鎖が、また手首へ絡みつく光景。


「戻りたく、ありません」


声にした瞬間、胸の奥へ痛みが走る。

それでも、言葉を引っ込めなかった。


「王国を見捨てたいわけではございません」

「ああ」

「ですが、私はもう、あの国の問題を一人で背負いたくありません」

「それでいい」

「それで、よいのでしょうか」

「よいかどうかを決めるのは君だ」


ルークは、慰めるための美辞麗句を並べなかった。

祖国を捨てても構わないとも、王国には救う価値がないとも言わない。

選択の重さを軽く見せず、その重さごと彼女へ返している。


「助ける方法は、帰ることだけではない」


彼は親書の余白へ目を向けた。


「君なら、既に別の案を考えているのだろう?」


レティシアはしばらく沈黙し、やがて小さく息を吐く。


「本当に、殿下には隠し事ができませんね」

「双響鏡ほどではない」


『お呼びですか!』


「呼んでいない」



レティシアは三日をかけ、グラディス王国への返答を整えた。

帰国要請を断るだけなら、一枚の書状で足りる。

しかし彼女が作成したのは、厚さが指二本分もある改革提案書だった。

最初の頁には、帰国及び宰相就任を辞退する旨を明記する。

続いて、王国財政を立て直すための優先順位。

歳出の緊急凍結対象。

地方税の統合案。

不正監査委員会の設置要領。

若手官僚を実務へ登用する基準。

ヴァルハイト帝国から派遣可能な財政顧問団の条件。

帝国側へ過度に依存しないため、派遣期間には明確な期限を設けた。

顧問は意思決定を代行せず、王国官僚へ技術を移転する。

最終的には自国の人材だけで制度を運用できるよう、段階的に権限を返還する。


「百八十七頁」


ルークが最終頁を確認する。


「帰国を断る文書としては、かなり長いな」

「必要な情報を絞った結果です」

「絞る前は?」

「四百二十頁ほどございました」

「半分以下か」

「努力いたしました」


『所有者にとっては驚異的な簡略化です!』

『一般的な断りの手紙は、一頁から三頁です』


「比較対象が間違っております」


レティシアは提出用の書面を整えた。

そこへ双響鏡が近づく。


『今回は、音声記録も添付なさいますか?』


「そうですね」


王国側が文書の一部だけを切り取り、帰国交渉の余地があると解釈しないよう、明確な意思表示を残す必要がある。

レティシアは記録鏡の前へ立った。

背筋を伸ばし、グラディス国王への礼を取る。


「この度は、身に余るお申し出をいただき、感謝申し上げます」


感情を隠すための微笑ではない。

過去を憎まず、それでも戻らないと決めた者の穏やかな表情だった。


「しかしながら、帰国及び宰相就任のご要請は――」


レティシアは受け皿へカップを置いた。

澄んだ音が鳴る。


「お断りいたします」


『お断りします!』

『合理的判断です』


三つの声が、見事に重なった。


「……」


ルークが口元を押さえる。


「殿下」

「何だ」

「笑っていらっしゃいますか?」

「いや」

「では、なぜ肩が震えているのです?」

「三重音声は予想していなかった」


『慶事以外でも声を揃える機能を搭載しております!』

『今回が初使用です』


「やり直しますか?」


レティシアが尋ねる。

ルークは即座に首を振った。


「いや、完璧だ」



親書と改革提案書は、帝国外務省の正式な使節によってグラディス王国へ届けられた。

国王は音声記録を再生し、三重に響いた拒絶を聞いた瞬間、机へ額を落とした。


「三人から断られた気分だ……」

「発言者は一人と二人格です」


司法長官が訂正する。


「余計に堪える」


国王はしばらく動かなかった。

やがて顔を上げ、百八十七頁の提案書を見る。


「これを作るだけでも、相当な時間がかかったであろうな」

「はい」


財務大臣が答える。


「我々を完全に見捨てたわけではない、と考えてよろしいかと」

「だからこそ、戻れとは言えぬか」


国王は第一頁を開いた。

以前の彼なら、要点を説明するよう臣下へ命じていただろう。

今は自ら文字を追う。

読み進める速度は遅い。

専門用語の意味を尋ね、何度も前の頁へ戻り、途中で頭を抱える。

それでも、書類を閉じなかった。

午後には、第二王子アレクシスが執務室へ呼ばれた。

エドバードより二歳若く、これまでは地方州の行政官として、水路整備と農業政策へ携わっていた青年である。


「アレクシス」

「はい、父上」

「そなたを王太子に指名する」


アレクシスの顔から血の気が引いた。


「お待ちください」

「何だ」

「先に確認させてください」


彼は机へ積まれた書類を見た。


「王太子になると、こちらの全てが私の机へ移動するのでしょうか」

「半分はな」

「半分もですか?」

「安心せよ」


国王は疲れた笑みを浮かべた。


「残る半分は、余の机に残る」

「兄上なら、ここで英雄的な演説を始めたでしょうね」

「そなたは何をする」

「担当者名と提出期限を確認します」


国王は初めて、次の王へ心から期待を抱いた。


「それでよい」

「地味すぎませんか?」

「今は地味な王子が、何よりありがたい」


グラディス王国が救われたわけではない。

負債は残り、不正へ関わった者の調査も続いている。

長く放置された水路は、提案書一つで直るものではない。

それでも国王と官僚たちは、ようやく他人の背へ国の重みを載せることをやめ、自分たちの足で立とうとしていた。



王国から改革案を受け入れるとの返答が届いた日の夕刻、ルークはレティシアを研究院の屋上へ呼び出した。

そこには、帝都郊外へ向かう小型飛行艇が待っている。


「視察でございますか?」

「半分は」

「残りの半分は?」

「私的な予定だ」


ルークは手を差し出した。


「古代天文台遺跡の復元が完了した」


レティシアの瞳が、一瞬で輝く。


「古代第四王朝後期の、星光魔力変換式天文台ですか?」

「そうだ」

「あの遺跡は中枢回路が欠損し、星座投影機能の復旧には少なくとも十年を要すると報告されていたはずですが、代替回路に現代式の蓄積晶を用いれば共鳴誤差を抑えられる可能性があり、しかし古代規格と現代規格では魔力波長が――」


言葉が次々と溢れる。

本人はいつもの速度で話しているつもりだが、語彙量は既に平常時の三倍を超えていた。

ルークは遮らない。

むしろ楽しげに頷き、彼女の早口が一区切りつくまで待っている。


『所有者、興奮度九十一パーセントです!』

『直近半年における最高値を更新しました』


「まだ現物を拝見しておりません」


『既にこの数値です!』


レティシアは少しだけ頬を赤らめ、差し出された手へ自分の手を重ねた。


「ぜひ、ご一緒させてくださいませ」

「よかった」


ルークは彼女を飛行艇へ導く。

その上着の内側には、古代文字を刻んだ指輪と、何度も書き直された求婚の原稿が隠されていた。

帝国皇太子の軍略と外交をもってしても、レティシアが遺跡より先に指輪へ気づく可能性だけは、最後まで算出できなかった。








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