姉・梓の思い
5.
目を開けると、知らない天井だった。クリーム色のレールカーテンが周囲を囲っている。
私はそういえば、どうしていたんだっけ。そう、子猫を見つけて、彼が好きだった猫をただ眺めていて、雨が降ってきて……。
「梓姉さん、気が付いた?」
声がして、妹の楓が私に微笑む。
「そっか……。私、まだ生きてるのね?」
ここは病院。よくよく見れば、数か月前まで通っていた病室と似ている。
子猫を見つけたあの日、身体が雨でどんどん冷えて、感覚がなくなってきたと思えた時、このままもしかしたらと思ったのだけど、この身体はなんだかんだ私を終わらせてはくれないみたい。
「……梓姉さん」
私の言葉を聞いた楓が辛そうな顔をする。
楓に、そんな顔をさせる私はろくでもない姉。そう、そのとおり。彼が傍にいない私なんて、なんの価値もない。
ここ数ヶ月、私はずっとこの命が終わればいいと願っている。そのくせに痛いことは怖くて、臆病で、覚悟も甘い。
『どんな梓だって僕は好きだよ。それでいいんだよ』
彼が私にそう言ってくれたことがあった。だけど、彼が居なければこの性格は、誰からも好きだなんて言ってもらえない。私だって好きになれない。
彼が居ないこの世界は辛い。数か月前、彼は病気で亡くなった。治らない病気だった。私も同じ病気になりたいと何度思ったことだろう。
*
入院して数日経ったけれど、私はまだ生きている。身体は点滴によって、食事を食べなくても徐々に回復しているみたい。
窓から空の日差しが差し込んでくる。さっきまで降っていた雨が止んで、晴れ間が広がる。楓に頼んで持ってきてもらった写真立てに日差しが当たって、私は写真の彼に名前を呼んでみた。
写真の彼は笑ってはいるけれど、当たり前ながら答えてはくれない。
彼が生きている時、私は彼と何を話しただろう。
彼の笑顔。笑い声。楽しかった思い出の記憶がよみがえる。そして、会いたくて泣きたくなるから、考えることを止める。
彼の病気が発覚してからの日々は、ただただ嘘だと思いたくて、何に対しても目を背けている。
彼を失う日が来るなんて、受け止めたくなかった。不治の病が判明してから、あっという間に亡くなってしまってから、今もずっと。
「梓姉さん。外出許可を貰ったんだ。私と一緒に来て欲しいところがあるの。いい?」
来週には退院する予定になっていた。楓はそれを待たずに外出許可を取ったらしい。
「どこに行くの?」
「梓姉さんに、会わせたい人がいるの」
タクシーに乗って向かったのは、私も以前通っていた楓の高校の近く。私たちはタクシーを降り、学校の裏側にある山道を歩き出した。
なだらかな斜面とはいえ、ずっと入院していた私には正直ちょっと辛い。
心臓の脈が速くなり、呼吸も乱れる。息も少し苦しい。
この身体がしっかりと動いていることを感じながら、この苦しさのおかげで、もしかしたら止まるかもしれないとも思ってしまう。
楓は会わせたい人がいると言っていたのに、こんな山奥に誰がいるというのだろう。
小高い丘が見えてきた頃、そこには男の子と女の子が立っていた。楓と同い年くらいに見える。
あれ?男の子の方は、雨の日にあの子猫を預けた彼と似ている?
目が合うと、彼は私に優しく会釈してくれる。
「梓姉さん。ここからの景色を見てみて」
「景色?」
楓に言われるがままに、木々の切れ間から広がる山の景色を見る。
雨上がりの空は、雲が多いとはいえ、その隙間から光が山へと降りていた。確か、天使の梯子っていうんだと彼から聞いた気がする。
楓が自分のスマホを取り出して、カメラモードに切り替える。そして、その画面を私に見せてきて、近くにいた男の子がそのスマホの位置や角度を動かした。男の子が頷く。
「シャッターボタンを押してみて」
「ここを押すの?」
「うん」
私は楓に促されるがままに、光が差し込んだ山の景色の写真を撮る。
シャッター音の後、映した写真がスマホ画面の左側に小さく作られて、その写真を見て、違和感に気付く。
写真に誰かが映っている。人なんて、居ないはずなのに。私は気になって、その映した写真をクリックしていた。
画面いっぱいに広がったその写真には居るはずのない人影が写っていた。そして、それは……。
「清ちゃん……?」
光に包まれた男性の姿が映り込んでいる。亡くなった私の彼だ。
「楓、どういうこと?そこに、清ちゃんが居るの?」
その時、ふわりと柔らかい風を感じて、私の目の前に、白い紙が飛んできた。それは不思議と私の目の前で浮き、私がそれを掴むと、浮力を無くしたかのように、指にしっかりおさまった。
白い紙には文字が書かれている。
『梓。ひさしぶり。元気かな?
その様子だと、僕が居なくなって、落ち込んでいる感じかな。
君にもう一度、伝えようと思って、特別な時間を貰ったんだ。こうして手紙で、君に伝えるよ。
僕は病気で亡くなる運命だったけど、それでも君を心から愛せたこの人生は、本当に幸せだった。
だから、僕は生まれ変わって、新しい人生を始められそうなんだ。
梓、覚えている?僕とした約束。君は君で、ちゃんと幸せになるんだよ』
手が震えた。彼からの言葉に涙が溢れだす。彼とした約束。私はそれを思い出す。
あれは彼の病気が分かって、もう余命が少ないと宣告された後。彼と外に出かけた最後のデートの日。
*
私たちは手を繋いで、海にいた。波の音を聞きながら、空を眺めていた。
「梓。生まれ変わったら、何になりたい?」
彼が私にそう問いかけた。その言葉はその時の私には辛過ぎた。
彼が生まれ変わる。それはつまり、もう彼が亡くなることを意味する言葉だ。
「……生まれ変わらなくていい。ずっと清ちゃんと一緒にいたい」
私の中のささやかな抵抗だった。叶わぬことだと思っても、そう願いたかった。
「……そうだね、そうだったらいいね」
彼は私の気持ちを汲んで、寂しそうに笑ってから、空を見上げた。
「僕は猫がいいな。そんで、君が幸せに笑っているところをずっと見守っていたい」
その願いを私はどう受け止めたらいいのだろう。
自分が居なくなった後、猫を自分だと思って、幸せな笑顔で笑いかけてほしいと言いたいのだろうか。猫の彼なんて、いやだ。今のままの彼が良かった。
「人は猫に生まれ変われないっていうよ」
私はちょっと皮肉も込めて、聞いたことがあったそのことを彼に伝える。
「そうなんだ。残念。でも猫って、不思議な力があるって思わない?一緒にいるだけで、癒されるし、幸せな気分になれる。僕、やっぱり猫がいいな」
私は無意識に泣いていた。彼はいずれ、私の傍から居なくなってしまうのだ。
彼はそれを受け止めようとしていると思うと、私だけ置いてけぼりのようで、辛かった。
彼が涙を流した私を見て、優しく笑って、私を引き寄せる。
「梓。僕はこれだけはハッキリ言える。僕はどんな梓だって大好きだよ。
そんな梓を愛せて、梓に愛されて、僕は本当に幸せな人生を過ごせた。
ねぇ、約束してほしい。梓を残すことになるのは申し訳ないけど、梓もちゃんと幸せになるんだよ。
僕が心から愛した梓が幸せに笑ってくれていることが僕の一番の幸せだから」
「……清ちゃん。……私は」
彼がいない私は幸せに笑えるの?
「愛してる」
彼の唇が優しく重なって、私たちはそれからしばらく何も言わず、ただ身体の体温だけで互いの気持ちを伝え合った。
*
受け取った手紙に私の涙がぽたぽたと落ちて、文字を濡らした。文字が一文字ぼやけて、私は文字がぼやけるのが嫌で、慌てて自分の涙を拭いた。
私は楓の持っていたスマホを取り上げ、もう一度、空の景色を移す。
シャッター音は鳴ったけれど、映った写真にはもう、彼の姿は映らなかった。何度押しても、角度を変えても、それは変わらない。
「梓姉さん」
楓がそっと、私の手からスマホを取る。
「楓ぇ……」
私は楓に抱きついて、思い切り泣いた。
そういえば、彼が亡くなってから、こんな風に声を出して泣いたのは初めてかもしれない。
ずっと我慢していた。認めたくなくて、受け止めたくなくて、泣きたくなかった。
清ちゃんは、どんな私だって大好きだと、私を愛した人生を幸せだと言ってくれた。
そしてこうして、だからこそこれから新しい人生を始められると伝えに来てくれた。
私は?今の私はどう?
彼を愛した私の人生は間違いなく幸せだったのに……。
彼が好きだと言ってくれた私に、私自身はなんてことをしようとしていたんだろう。
楓が私を抱きしめ返してくれて、私はしばらく楓の腕の中で泣き続けた。
次回の更新は16時です。




