阿砂唯の心の闇
「その阿砂先生って、なんだか私に似ている気がしますね」
僕が阿砂の話をすると、しずくは考え深そうにそう答えた。
しずくは来條家主催のリサイタルの後、自身の演奏についてかなり吹っ切れたようだった。あのリサイタルをキッカケに、しずくは外部から依頼された単独のリサイタルを既に行ったそうだ。「人前で演奏するなんて、まだ無理です」なんて、言っていたのが嘘のようだ。
「阿砂先生にも、しずくみたいに前に進んでもらいたいね」
ここなが言う。
「ああ。僕もそれを願ってる」
だけど、どうしたらいいだろうか。
「そのために、美術室の怪異を再現してあげるのか?」
隼人の問いかけに、僕はうーんと唸る。
阿砂が抱えている問題。僕もそれは、しずくが抱えていた問題に近しい印象を受けていた。だからこそ、あの怪異をただ再現すれば良いということではない。そんな気がしていた。
「もし、結人くんがそうしたいっていうなら、私もしずくも協力するから言ってね」
ここながしずくと目を合わせて、一緒にうなづく。
今回の『CWC』は流動的。しかも、どうして美術室の怪異が起きたのかは判明している。だから、僕たちはもうそれが起こらないように対策していた。阿砂がどんなに願っても、僕らがそれを再現しない限り、その奇跡は起こらない。
「ありがとう。だけど、もう少し考えさせて」
結局その日は答えが出ないまま、次の日を迎えた。
* * *
「柏木。美術室にこれから行く予定か?」
放課後、職員室の前を通りかかると、美術主任教諭に呼び止められた。
「はい。今から行くところです」
「申し訳ないんだが、そこに置いてある段ボールを美術準備室に運んでくれないか?頼んでおいた新しいものが今日届いたんだ」
段ボールの蓋は中途半端に開いていた。中身が確認できる。僕はそれを見た瞬間、確信的なアイディアを思いついた。
「これは使えるかもしれない」
僕は一人湧き立つ。じっとしていられなくなるような興奮状態に包まれて、僕はダンボールを抱えて、隼人の元へと急いだ。
8.
「俺たちは『名をのこす彫刻家になる』」
高校3年の美術室。浅木律が唱えた願い。私はまだ、それに囚われている。
「ここは律が拘ったところだから、斬新だな」
「ここは唯が諦めなかったから、目を引くな」
美術室によくある石膏像の横に、ヴィーナスの彫刻が微笑んでいた。今まで制作した中で一番の最高傑作。私と律の気持ちはこの時、きっと同じことを考えていた。
高校最後の青春すべてをかけた挑戦。国際的な美術展コンクールの参加。私と律は、美術室の石膏像をモチーフにして、共同作品を制作した。
「完成したこと、先生に報告してくる!」
溢れる喜びを他の誰かにも話したかった。私が勢いよく動き出したとき、体が石膏像に当たってしまった。
ゴスンガシャン。
重たく全身を裂く嫌な音が美術室に轟く。
「え……」
言葉が詰まった。身体が硬直する。足元には転ばった石膏像の首が色のない目で私をじっと捉えてきた。怖い。呪われる。瞬間的にそう思ってしまった。
これまで一度も、この石膏像にそんな思いを抱いたことはなかった。だってこの石膏像は私と律の大切な相棒。そんな相棒を割ってしまった。私の手で穢してしまった。とてつもない後悔と大きな喪失感が一気に押し寄せてくる。
涙が溢れた。視界がぼやける。次の瞬間、私の頬に、温かい手とくすぐったいパーカーの布がそっとこすれた。
「泣くなよ、唯」
律の顔が目の前にあった。パーカーの袖が私の目元をくすぐる。少しざらついていて痛い。石粉粘土が乾燥して張り付いている。そんな石材がついた袖で涙を拭いてくるなんてどうかしてる。
だけど、律のその考えなしの気遣いと石材の微かな刺激のおかげで、私はいくぶん落ち着いた。
「どっか痛いのか?ケガでもしたか?」
「いや、大丈夫。割れて驚いただけ」
「それなら良かった。しかし思いっきり割れたな」
「コンクール前に割れるなんて縁起が悪い。それに先生にバレたら、捨てられちゃうかな。なんかそれは嫌だな」
私と律が初めて会った日。与えられた課題は石膏像のデッサンだった。その日から、この石膏像は、私たちの会話も、約束も、二人だけの秘密も、ずっとずっと共有してくれている大切な相棒だった。
「大丈夫だよ。俺が今から直してやる」
律は割れた石膏像を拾い集めると、ボンドを取り出して接着し始めた。繋ぎ合わさった胴体に首がのせられる。少し傾げたその頭が、私の顔を伺うように見つめてくる。
「ほら。これでよし」
雑に繋ぎ合わせたのだろう。造形がぎこちなかった。合わせた位置が微妙にズレているし、角度もおかしい。
だけど、窓辺に置かれた石膏像は、差し込む太陽の光を浴びて綺麗だった。私の手で穢してしまったと思ったけれど、大切な私たちの相棒は、律の手で清められた。私は律に救われた気がした。
その時だ。私たちの目の前にあった窓が、ひとりでにスライドした。誰もそこにはいない。その驚きの出来事に目も口も動けず固まっていると、さらに目の前で不思議なことを起こりだした。
石膏像が振動し始める。そしてその細やかな揺れと共に、ズレていた合わせが、パズルをピタリと挟めるように、隙間なく埋め始める。傾いていた首の角度が本来の位置へと整っていく。そして、つなぎ目が薄くなって、跡形もなく消えていった。
私は驚きよりも、その修復されていく軌跡に魅せられていたと思う。割れて姿を崩したものが元通りになる奇跡。
私と律は、目の前で突然起きた不思議な現象をしばらく受け入れられなかった。ただただ放心していた。学校のチャイムが鳴って、やっと我に返った私たちは、互いに見開いた目をゆっくりと見合わせる。
その律の表情はおかしかった。そしてこのよく分からない状況にも感動と怖さが相まっていた。
「あははは……」
私たちは笑い出していた。
「なんだよ。このヤバい奇跡。こんなのめったに見れないよな。そうだ!せっかくだから、願い事でもしとこう」
律が言い出す。
「願いごと?」
「ああ。こんな奇跡を見せられたら、どんな願いでも叶いそうな気がしないか?」
律が無邪気で眩しい笑顔で、私の目をじっと見た。
「俺たちは、名をのこす彫刻家になる」
律の声はハッキリと力強く、私の心の奥底まで染み渡る。願った証に、石膏像の底に私たちの共同サインを書き込んだ。
「唯。いつまでもその願いを一緒に追いかけよう」
「ああ。そうだな」
共同制作したヴィーナスの彫刻は見事コンクールで最優秀賞を受賞した。高校生の私たちは願いどおり、高校生で名をのこす第一歩を踏み出した。
大学に進学してから、律の名前を聞く機会は増えていった。公募展、グループ展、コンクール、アートプロジェクト。そのうち海外にまで呼ばれて、気付けば律は名をのこす本物の彫刻家になっていた。
「かんぱーい」
高校の同窓会。懐かしい顔ぶれが集まる中、私の隣に律は居なかった。
「律と会えなくて残念だな。海外にいるんだって?」
「ああ」
律と疎遠になったわけではなかった。日本に帰ってくれば、私のアトリエに必ず寄るし、滞在中はほぼ一緒に過ごしている。その度に、律の成長を目の当たりにする。私は律のようにはいかなかった。彫刻家として、未だ活躍できていなかった。
「高校のコンクールからだよな。律が注目され始めたの。アイツ、すげーよな!あの作品も本当、すごかった。やっぱり律が作るものは違うんだろうな」
ギリリと胃が痛んだ。あの高校の作品は私と律の共同作品だった。だけど今では、あの功績に私の名は忘れられている。律の取材記事を読めば、共同作品だという文字はいっさい無い。
私が唯一の名をのこした実績は、世の中の記憶からは消え去っていく。
アトリエに戻ってから、どこかモヤモヤして、すぐに眠れそうになかった。気分を切り替えようと、先日依頼を受けた美術品の修復作業をし始める。
修復作業を始めたキッカケは、割れた思い出の皿を修復できないかと知人に相談されたことだった。ダメもとでいいからと押し付けられ、気軽な気持ちでそれに応じた。その出来は、思いのほか良くできて、知人からはすごく感謝された。
それからは伝手で、簡単な美術品の修復の依頼が度々入ってくるようになった。私は独学で修復技術を身に付けた。
ヒビの入ったものや割れたものが元の形を取り戻した時、あの高校の美術室で起きた奇跡を思い出す。私もこの手で、同じような奇跡を起こせる。そんな風に思えて、小さな嬉しさを感じる。
だけどその嬉しさは、自身が成し得なかった虚しさに打ち消された。
『俺たちは、名をのこす彫刻家になる』
律が作り上げる彫刻には、律が作った証であるサインが刻まれる。
私が修復をお願いされた作品には、私のサインは刻めない。修復士は裏方だ。
表に出ることはないし、名前も残さない。目立たないこと求められる。オリジナル作者の名を汚してはいけない。
アトリエの電話が鳴り、受話器を取った。
「よぉ。唯。今日は同窓会だったんだろう?みんなどうだった?」
律の明るい声が耳をくすぐる。
「みんな相変わらずだったよ。律にも会いたがってた」
その後に続く律の他愛ない会話に相槌を打ちながら、こんな風にわざわざ電話がかかってきたことに多少の違和感は感じていた。
だけどもう夜更けだ。律の世界時間では昼間かもしれないけれど、私は同窓会で飲んできた後、寝る前の気分転換の修復作業中だったのだ。
「律、もういい?私、そろそろ」
疲れてきて、話を切り上げようとすると、律は慌てたように言葉を足した。
「唯、待って。今日連絡したのは、本当は別の理由があったんだ」
「別の理由?」
律が次の言葉を出すまでに、いくぶんか間があった。そして、真剣な声で続く。
「唯。海外に来ないか?」
それはどういう意味だろうか。私と律の関係は、高校時代からずっと付かず離れずの付き合いを続けている。年齢的にも将来の相手を考える頃合いでもあった。
「……どうして?」
律が何を言ってくるのか緊張しながら、どう返答したいのかも分からなくて、声が震える。だけど、律から発せられた言葉は、想定外だった。
「修復士の見習いを探してる友人がいるんだ」
黒い何かが胸の中に流れ込むような息苦しさを感じた。
『俺たちは、名をのこす彫刻家になる』
『唯。いつまでもその願いを一緒に追いかけよう』
高校時代の律の無邪気で眩しい笑顔。そんな私の記憶が、黒く塗りつぶされていく。
私たちは同じ夢を見ていたはずだった。同じ未来を語ってきたはずだった。あの日、二人で作品を作って、そして願いを込めて誓ったのに。
───お前は、もう彫刻家になれない
律にそう宣告された気がした。あの願いが叶うようにと、辛くてもがいても、これまでずっと頑張ってきた自分を全て、否定された。律についに見放された。
「……バカにすんな!」
湧き上がった激情のままに、私は声を上げて通話を切った。
今日まで彫刻家になれなかった自分にも、律に一瞬でも逃げ道を作ろうとした自分にも、腹が立って仕方がなかった。
律に甘えようなんて考えを完全に断ち切ろう。そう決めた私は、今の私が一人で生きていくための術を考え始めた。だけど美術しか取柄が無い。
知り合いに相談したら、教員は収入面は安定しているから、腰を据えるなら良いのではと薦められた。私は足りない単位を補填するために通信科に通い始めた。
生徒たちと会話をするのは楽しかった。美術を教えることも造作ない。だけど、若い青春真っ只中の彼らを見ていて、自分のあの頃を思い出す。あの頃は自分の未来にワクワクしていた。見えない先が嬉しかった。これからどうにでも出来ると夢を描けた。
今の私には、あの頃のような湧き上がる感情が何もない。
彫刻家を目指したけれど、彫刻家にはなれなかった。教育実習をもうすぐ終える。だけど、教員になっている自分が想像ができない。美術品を修復する技術を独学で学んでいる。だけど、れっきとした修復士にはなれていない。今の私は、何者にすらなれていない。
窓の外はすでに日が暮れていた。職員室に残っている教師もまばら。教育実習日誌と美術展に生徒の作品を搬入する段取りをまとめていたら、気付けば遅い時間になっていた。
一息ついて、柏木から貰ったメモを広げる。これまで美術室に怪異が起きたタイミングをまとめたものだと言われた。
時計を確認すると、もうすぐ19時になろうとしていた。メモに書かれた怪異が起きる可能性が高い時間もそろそろだ。
美術室の中はさすがに真っ暗だった。うっすらと、窓辺に置かれた石膏像の姿が見える。電気をつけると、その姿がハッキリ見えた。
頬に傷のある石膏像が私を出迎えるんだろう。そんな失望をまた味わうんだと目を向けると、私は目を瞬いていた。
傷が……ない?
慌てて駆け寄り、石膏像を手に取る。ひび割れていたはずの頬は、そんな痕跡があったとは思えないくらいにつるんと綺麗になっていた。そればかりか、年季が入って多少くすんでいたはずの色合いでさえ、新品のようにクリアな真っ白の肌になっている。
「怪異が起きたのか……?」
その時、突然の強い衝撃を受けて、持っていたはずの石膏像が手から滑り落ちていった。アッと思ったときにはもう遅かった。
ゴスンガシャン。
いつかも聞いた重たく全身を裂く嫌な音が、散らばった石膏像と共に足元で鳴る。
「そんな……」
もう何度目だろう。私の目の前で割れたのは。膝が震えて、その場に崩れ落ちる。
「もう嫌だ……。どうしてそうなるんだ」
限界だった。これまでずっと溜め込んできた絶望感、失望感、積み重なった葛藤、劣等感。混ざり合ったそれらが溢れだしたら、この場所が学校であることも考えられないくらいに、涙は止まらなくなっていた。
石膏像は何度も割れる。私の願いも割れる。お前の願いは叶わない。怪異にすら、そう言われている。
零れた涙が私の目の前に転がる石膏像の頬に落ちた。傷のない頬に涙が流れる。泣いた私の涙を拭ってくれる律はそばにはいない。
濡れた石膏像の頬が可哀そうで、私はそれを手で拭きとった。割れた石膏像の破片を、ひとつずつ手に取り、窓辺の棚に置き始めた。バラバラになった体が横一列に並ぶ。
「何度も割ってごめんな。私は奇跡を起こせなくて、ごめんな」
割れた破片を撫でる。私の思い出をたくさん知っているであろう相棒を労わる。そうすることで、他でもない自分自身を慰めているのだと、滑稽ながらふと、そう気付いた。
カラカラカラカラ。
突然、目の前の窓がひとりでにスライドし始め、涼しい柔らかい夜風が濡れた頬をひんやりさせた。驚いて、涙が止まる。
一列に並んだ破片が胴体から順番に浮き上がり、大きな欠片のピースが一つずつ嵌め込まれていき、みるみるうちに元の形を取り戻していく。
その一ミリのズレもない正確な組み立てと、一寸の狂いも迷いもない順序の軌跡。そして、割れていたことすら微塵も気配を残さない曲線美の仕上がり。
ああ、本当になんて綺麗な腕前なんだろう。その相手が有り得ない怪異だとしても、それを成し遂げる技量に、私は魅了される。
傷あるものが元あるものに孵る奇跡。その奇跡を自分の手で成すことができたら、それはどんなに胸が高鳴ることだろうか。
コトン。と後方から音が聞こえた気がして、振り返ると、そこには石膏像が私を見ていた。頬の傷がのこる石膏像。
「ん……?」
窓辺を見れば、やはり同じ形をした石膏像がある。すぐさま、両方の石膏像の下を覗き込み、底を見る。私と律の相棒は、まだ頬にしっかりと傷を残していた。
『こんな奇跡を見せられたら、どんな願いでも叶いそうな気がしないか?』
高校生の律の声が聞こえた気がした。
胸はまだ高鳴っていた。私のために奇跡は起きた。それなら私も、私の手で奇跡を起こしたい。この石膏像の頬の傷を、私の手で修復したい。
「それが出来たら、私の願いを叶えてくれるか?」
窓辺に置かれた石膏像をじっと見つめる。
「名をのこせなくてもいい。私はオリジナルの名を立てる立派な修復士になる」
私は意を決して、頬の傷の修復に取り掛かった。
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