涙が映し出すもの
美術室の中に入り込む日は、影を落とし始めていた。手元が暗い。僕は柄でもなくスケッチブックに絵を描いている。阿砂に声をかける勇気がなく、気付けば5分、10分と、時間は過ぎていた。
カタンっという音が聞こえて、僕は描いていた手を止めた。振り返ると、準備室の入口に、阿砂が立っていた。
「なんだ、柏木。来ていたのか」
「あ、阿砂先生、そっちの部屋に居たんですね。居ないのかと思って、待ってました」
咄嗟に口から嘘が出ていた。阿砂のあんな姿を見てしまったことを正直に言えない。
「ああ、悪い。私もまったく気付かなくて」
そう言った阿砂の腕には、あの石膏像が抱かれていた。それを窓辺へと運んでいく。棚の上に置かれた石膏像。窓からの日を背から浴びて、ひび割れた頬の部分に暗い影を帯びる。
阿砂が再び、そこに石膏像を置くのは、『美術室の怪異』を再現したいからだろう。そんな阿砂が俗信に囚われているように感じてしまうのは、さっきの阿砂を見たせいだ。
「阿砂先生は、その石膏像の傷が無くなると、本当に信じているんですか?」
僕はその怪異を体験したわけではない。どうしたらそんなことが起きるのか想像すらできない。
「もちろん、信じている。だからこうして、ここに置いているんだからな」
僕も窓辺に置かれた石膏像に近づいた。近くでじっくりとそれを観察する。四分割された胴体は多少色の違いはあれど、違和感なくしっかりと結合されている。
「こないだ授業で割れた箇所は阿砂先生が直したんですよね?」
「そうだよ。修復する技術を独学で勉強したんだ。趣味の延長さ」
「趣味の延長にするにはもったいないくらい綺麗に直っています」
「そうか?嬉しいことを言ってくれるんだな」
お世辞ではなかった。それは本当に綺麗に修復されていて、割れたことを知らなければ、きっと気付かない。
「そんな技術があるなら、美術室の怪異なんて頼らなくても、頬のヒビも阿砂先生が直せばいいんじゃないですか?」
「割れたものを直すのは修復技術としては割と簡単な方なんだよ。だけど、この頬のヒビは経年劣化によるもの。そもそも素材自体ももろくなっているから、手を出しにくい。それに、この子の大事な顔の部分だろう。胴体と違って、失敗は許されない」
だからといって、怪異に頼るのも変な話だ。何かもっと別な理由があるのではないか。
僕は石膏像に触れ、持ち上げる。見た目よりもだいぶ軽い。下を覗き込むと、前にもみたサインのようなものがあった。それを見て、ふと違和感を感じる。
「阿砂先生。このサイン……」
「柏木、石膏像のことはもういいだろう?それより……」
阿砂は僕から石膏像を奪い取ると、そっとまた元の位置に戻す。そして、さっきまで僕が使っていた画板を指差した。
「アレは何を描いていたんだ?」
「え?別に見せられるようなものじゃ……」
「いいじゃないか。見せてみろ」
僕が止めるもなく、阿砂は画板の前まで進んでいき、置いてあったスケッチブックの絵を覗き込んだ。
「ん?これは星の王子さまか?」
簡単な落書きのようなものだったが、僕の絵は伝わったらしい。
「このお話が好きなのか?」
「そういうわけではないんですが、最近読んでから、頭から離れなくて」
ずっと胸に引っかかっている。それが僕の呼吸を浅くする。
「私も読んだよ。考えさせられる話だよな。そうだな。あの物語で例えるなら、私にとってあの石膏像はバラや狐みたいな存在なんだろうな」
「バラや狐みたいな存在……」
あの物語の中には、バラと狐が登場する。バラはこの世にたくさんあるし、狐もたくさん存在している。だけど時間をかけて関わり、心を通わせたからこそ、そのバラや狐はたった一つの大切な相手になったということが書かれていた。
「あの石膏像と同じものは、この世にたくさんある。だから割れたら、買い替えだってできる。だけどな。私はあの石膏像に思い入れがあって、思い出もたくさんある。しゃべりもしないただの物なのに、かけがえのない一つなんだ。私とあの石膏像の間には、目に見えない大切なものがあるんだろうな」
「目には見えない大切なもの……」
その言葉が、また僕の胸を苦しくさせた。
* * *
リビングのドアを開けると、ここなはソファに座って、本をペラペラめくっていた。それは置いておいた『星の王子さま』の文庫本だ。
「……結人くん。おかえり」
顔を上げたここなの表情に、不穏な予感を感じた。目が笑っていない。明らかに元気がない。
「どうかしたの?」
「うん。しずくのことでね。結人くんに謝らないといけないことができたの」
「僕に謝る?」
「自分で作った曲、しずくはもう演奏しないって言ってきたの」
「え……?」
「あんなに作曲頑張ってきたのに、もっと良くなるようにって読書会までして、二人がせっかく協力してくれたのに……。本当ごめんなさい」
隼人やここなに対して、しずくのすっきりしていなかったあの笑顔。しずくはあの物語を楽しむことができなかったんじゃないだろうか。だから、自分が作った曲も嫌になってしまったんじゃないだろうか。
「……読んであげない方が良かったのかな」
「ううん、そんなことはないよ。これはきっとしずく自身の問題なんだ。目には見えない大切なものが、しずくには分からなくなっているんだと思う」
「目には見えない大切なものが、分からなくなっている?」
「うん」
ここながしっかりと断言するように頷いた。そして、僕はやっと自分がずっとモヤモヤしている理由に気付いた。
そうか。ここなが《《分かっていること》》自体が、僕がスッキリしない理由なんだと。
あの物語を読み終えた後、ここなも隼人も、『目には見えない大切なもの』を分かっていた。それが何かが自分の中でちゃんと分かっているからこそ、あの本の内容を楽しめたのだ。
阿砂は、石膏像との間に、『目には見えない大切なもの』が《《ある》》と言った。父は母に、本を読まなくても、ちゃんと大切なものが分かっているから大丈夫だと言った。そして、目の前にいるここなは、しずくが分からなくなっている『目には見えない大切なもの』も分かっている。
僕には、その『目には見えない大切なもの』がどんなものなのか、しっくりこない。
僕としずくだけが置いてけぼりにされている。僕はしずくと話をしたくなっていた。
「ここな。良ければ僕がしずくさんと話してみたいんだけど、いいかな?」
「うん。結人くんも、しずくの話を聞いてあげて」
次回の更新は本日12時の予定です。




