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完結『あの夏、甲子園の裏で──名門野球部暴力事件の真実。甲子園常連校の暴力問題 腹が立つので書いてみました。』  作者: カトラス


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第九話『父の怒り、監督の言い逃れ』

 朝のリビングはまだ薄暗く、窓から差し込む光が床に淡い影を落としていた。壁時計の針は始業前の刻を告げ、家全体が重たい沈黙に包まれている。その静けさを切り裂くように、父は電話の受話器を力強く握りしめた。拳の関節が白く浮き出し、手は小刻みに震えている。母はソファの端で泣きそうに胸元を押さえ、拓真は息をひそめてその光景を見守っていた。


 プルルル……と乾いた呼び出し音が数度響き、監督の声が受話器越しに流れた瞬間、父の声が弾けるように飛び出した。


「息子が……ただコンビニ弁当を食べただけで、二年に暴力を受けたんです! 始業前のまだ薄暗い寮で、監督やコーチに“告げ口した”と決めつけられて、一方的に殴られたんです! 打ち所が悪ければ……死んでいたかもしれないんですよ!」


 怒りに震える声は、言葉を吐くたびに鋭さを増し、リビング全体に響き渡った。父の頬は紅潮し、目尻には怒りと悔しさが混じった涙がにじむ。声の奥には、ただの叱責を超えた切迫した恐怖と焦りが滲んでいた。


「拓真は……小さい頃から野球が大好きで、毎日ボールを握ったまま眠るような子だったんです。その素質があったからこそ、名門と呼ばれるそちらの高校に入れた。なのに……野球と何の関係もないことで、寮の中で命を脅かすような暴力を振るわれて……一体、どんな指導をしてるんですか!」


 父の声は、リビングに烈火のように燃え広がった。母は嗚咽をこらえて拓真を抱きしめ、拓真は唇を噛みしめながらも、胸の奥で小さな安堵を覚えていた。父の叫びは、自分が背負い込んでいた恐怖と苦しみをようやく大人の言葉にしてくれたように思えた。


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、重たく低い広島弁だった。


「そがぁな言い方はやめてつかぁさい。そもそも規律を破った息子さんにも非がないとは言えんのんじゃ」


 監督の声は静かに響きながらも、どこか威圧感を含んでいた。父の胸に積もった怒りの火が、さらに煽られるように揺らぐ。拳を握りしめ、言葉を返そうと口を開きかけたその瞬間、監督は続けた。


「ほいじゃが暴力はいけん、これはわしも認めるけぇ。まずは事実をこちらで把握させてもろうて、また後日連絡させてもらうけぇ」


 その言葉を言い終えるや否や、監督は強引に電話を切った。プツリと途切れた受話器からは、無機質な電子音だけが無情に響く。


 父はその場に立ち尽くした。受話器を握る手は強張り、白く変色している。返すべき言葉も、怒りをぶつける相手も、もういない。口の中は乾き、舌がうまく回らないほどだった。


 横にいた母は、両手で顔を覆って泣いていた。肩が小刻みに震え、堪えていた嗚咽が漏れ出す。普段は家族を支える母の涙が、リビングに重苦しい影を落とす。


 拓真はその光景を見つめながら、胸の奥に複雑な感情を抱いた。監督が暴力を否定してくれたことに、一瞬だけ安堵がよぎる。しかし同時に、「事実を把握する」という言葉に、何もかもがうやむやにされる不安が押し寄せる。父の怒り、母の涙、自分の恐怖――それらが渦を巻き、押し潰されそうになる。


 静まり返った部屋には、ただ時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。


 数日後の朝。まだ外の空気が冷たく、吐く息が白く立ち上る時間帯だった。食卓には温かい味噌汁の湯気が立ちのぼっていたが、父はほとんど手を付けずに電話機の前に座っていた。拓真も箸を動かしながら、父の硬い横顔を横目で見ていた。家の中には妙な緊張感が漂っている。


 受話器が鳴り響くと、父は迷いなく立ち上がり、力強くそれを掴んだ。


「はい、三浦です」


 相手の声は学校の職員のものだった。どこか抑揚がなく、緊張を帯びているように聞こえた。父は一呼吸置き、低い声で尋ねる。


「監督さんはおられますか」


 電話口の向こうで少しの沈黙があり、それから職員の声が申し訳なさそうに返ってきた。


「ただいま、どうしても外せない用事でして……本日は監督が対応できません。そのため、私が監督の意向をお伝えさせていただきます」


 父の眉間に深い皺が刻まれる。握った受話器に力がこもり、節くれ立った手が白くなる。拓真は食卓に座ったまま、息を潜めて父の背中を見つめていた。


「……そうですか。監督さんは、直接話す気がないということですね」


 父の声は静かだが、その奥に抑えた怒りが滲んでいる。電話口の職員は慌てたように言葉を継いだ。


「い、いえ、そういうわけでは……。ただ、監督の考えとしては、部内での話し合いと指導で解決を図っていくべきだと……。今回の件についても、加害生徒たちには厳しく指導を行ったと聞いております」


 父はしばし黙り込み、深く息を吐いた。吐息は苛立ちと諦念が入り混じった重さを帯びていた。やがて、低く響く声で職員に告げる。


「職員さん。もし、監督さんがこの件を真剣に受け止めず、誠意ある対応をしてくれないのなら……私はこの暴力事件のことを、高野連にも、マスコミにも話します。そう監督さんに、はっきり伝えてください」


 電話口の向こうで、職員が小さく息を呑む気配がした。返答に詰まり、言葉を探す沈黙が流れる。


「……承知いたしました。必ずお伝えいたします」


 ようやく絞り出された職員の声は震えていた。


 父はゆっくりと受話器を置いた。部屋の空気は冷えたまま、時計の針の音がやけに大きく響いた。拓真は胸の奥に、不安とわずかな希望とが入り混じった重い塊を抱え、父の横顔をじっと見つめていた。


 午後の職場。蛍光灯の白い光に照らされる事務所の一角で、父の携帯が震えた。

 着信画面に浮かんだのは「東雲学園」の文字。胸がざわめく。椅子を引き、周囲に聞こえないように廊下へ出て、慌てて応答ボタンを押した。


 受話器越しに響いた職員の落ち着いた声。

「ご心配をおかけしております。今後は寮内で暴力を起こした二年生と顔を合わせんよう、配慮いたします。暴力を起こした二年生には厳重注意をしましたけぇ、もう心配はいりません。息子さんも落ち着かれたら、また寮に戻って野球に打ち込んでもらいましょう」


 父は受話口を握る手に汗を感じた。言葉だけを聞けば、誠意ある対応のように思える。

 しかし胸の奥底では、もやもやとした影が消えない。


「……そうですか。配慮してくださるんですね」

 努めて静かに答えながらも、声はかすかに震えていた。


 廊下の窓から差し込む午後の光が、灰色のカーペットに細い筋を描いている。父はその光を見つめながら、心の内で必死に自分に言い聞かせた。

 これで、あの子も少しは安心できるかもしれない。きっと学校も本気で考えてくれているはずだ、と。


「ええ、息子も野球を続けたい気持ちは強いですから……。また戻れるなら、それに越したことはありません」


 電話の向こうから「安心してください」という職員の声が重ねられる。

 父は深く息を吐き、胸の奥にまだ残る不安を押し込めた。

 完全に信じ切ることはできない。それでも、今は学校の言葉にすがるしかなかった。


 廊下の時計の秒針が静かに進む音が耳に残る。

 父は受話器を置いたあとも、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 夜、居間の蛍光灯の白い光が静かに照らす中、父はテーブルの上に置いた携帯を見つめていた。昼過ぎに職場にかかってきた学校からの電話の事を考える。長い受話器越しの会話を終えてから、父の顔にはまだ緊張と迷いが残っている。


 拓真はその様子を正面から見ていた。父の口が開く。


「……学校からな、提案があったんだ。まずは俺の口から伝えようと思った」


 拓真は姿勢を正し、父の言葉を待つ。心臓が鼓動を早めていた。


「寮内で、二年生と顔を合わせんように配慮するって言うとった。加害した連中には厳重注意も下したと。それで……落ち着いたら、もう一度寮に戻って野球を続けてほしい、そういう話じゃ」


 父の声は硬かったが、最後にわずかな希望を含んでいた。学校を信じたいという親心がにじみ出ている。テーブルの上で組まれた父の両手が、わずかに震えていた。


「お前がどう思うか……決めるのはお前自身だ」


 その言葉に、拓真は視線を落とした。父の真剣な瞳を直視できなかった。胸の奥に、あの寮で受けた恐怖や屈辱が蘇ってくる。足元から冷たい影が這い上がるような感覚に襲われ、喉が渇く。


 本音では戻りたくない。もう二度とあの寮の廊下や、押し殺した笑い声を聞きたくはなかった。だが、父や母の不安げな顔が頭に浮かぶ。これ以上心配をかけたくなかった。私立校の学費、将来の進路、積み上げてきた野球への努力……すべてを今ここで投げ出すわけにはいかない。


 深く息を吸い込み、拓真は静かに顔を上げた。


「……もう一度、戻ってみるよ」


 その声はかすかに震えていた。だが、父には力強い決意に聞こえたらしい。父は小さくうなずき、拓真の肩に手を置いた。


「そうか……無理はするな。お前がそう決めたなら、俺は信じる」


 父の声に安堵が混じる。拓真はその笑みを見て、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。自分の本心を偽ってでも笑顔を返すしかなかった。



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