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完結『あの夏、甲子園の裏で──名門野球部暴力事件の真実。甲子園常連校の暴力問題 腹が立つので書いてみました。』  作者: カトラス


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第十話『脅迫』

 拓真が校門をくぐったのは、事件から三日後の朝だった。まだ冬の冷たい風が残る季節で、吐く息が白く漂う。通い慣れたはずの道も、今はどこかよそよそしく感じられた。足取りは自然と重くなる。


 昇降口のガラス扉を開けると、すぐに響いてくるのは同級生たちの笑い声や談笑。それなのに、自分に向けられる視線は冷たく、好奇と距離の入り混じったものだった。靴箱から上履きを取り出す手がわずかに震えた。


(戻ってきた…でも、居場所は残っているのか…)


 廊下を歩くと、ちらちらと横目で見られる。すれ違ったクラスメイトは小声で「……あれ、戻ってきたんだ」「大丈夫なんか?」と囁いている。聞こえないふりをしても、耳にはっきり届いてくる。


 教室の扉を開けると、朝のざわめきが一瞬だけ静まり返った。窓際の席に座っていた友人だったはずの男子が、目を逸らすようにノートを見つめる。女子の小さな笑い声が後ろから漏れる。誰も声をかけてこない。机に置いたカバンの音が、やけに大きく響いた。


(ただ野球がしたいだけなのに……どうしてこんな視線を浴びなきゃいけないんだ)


 椅子に腰を下ろしたものの、落ち着かない。視線が背中に突き刺さり、教室の空気は重苦しくまとわりつくようだった。拓真は窓の外に視線を逃がし、白い雲の流れをぼんやりと追う。


 その時、廊下からコツコツと革靴の音が近づいてきた。扉が開き、監督が姿を見せる。教室中がざわめきを止める。監督の目は真っ直ぐに拓真を射抜いていた。


「三浦、監督室に来い」


 短い言葉に、クラスの空気が再びざわつく。拓真の心臓が早鐘を打ち、喉がからからに乾いた。立ち上がる足は思うように力が入らない。


(逃げたい…でも、もう逃げるわけにはいかない)


 小さく息を呑み、拓真は無言で廊下へ出た。背後ではクラスメイトたちのささやきが、波のように押し寄せていた。


 職員室の一角、重々しい扉の前に立つと、拓真の心臓は早鐘のように鳴っていた。三日ぶりに戻ってきた学校、教室で浴びたあの冷たい視線の余韻がまだ胸に残っている。今から会う相手は、あの事件のときに最初に相談した監督。果たして何を言われるのか、拓真の喉は乾き、息は浅くなっていく。


 扉の表面は古びており、幾度となく開閉された跡で取っ手は黒光りしていた。向こうからは書類をめくる音や低い笑い声がかすかに漏れてくる。その声の中に、聞き慣れた広島弁の響きが混ざっているのを感じて、拓真の指先は震えた。


 ノックをしようと拳を作ったが、指先が扉を叩く前に止まってしまう。頭の中で父の言葉がよみがえる。「あとは拓真が決めたらええ」。だから今ここにいる。だが足は鉛のように重く、一歩が踏み出せない。


 そのとき、中から監督の声がした。


「おう、そこにおるんは拓真か? はよ入ってこんかい」


 その一言に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。逃げたい気持ちと、応えなければという義務感がせめぎ合い、拓真は小さく唇を噛んだ。手のひらに汗がにじみ、制服の裾をぎゅっと握りしめる。


「……はい」


 蚊の鳴くような声で返事をし、震える手でようやく扉をノックする。木製の扉に響く音が、妙に大きく耳に届いた。


「入っといで」


 監督の低い声が再び響く。拓真は深く息を吸い込み、覚悟を決めて扉の取っ手を握った。冷たい金属の感触が、現実を突きつけるように指先に食い込む。教室に戻ったときのあの視線、そして今から向かう監督の言葉。それらすべてを受け止めねばならないと、拓真は心の中で自分に言い聞かせた。


 監督室に一歩足を踏み入れた瞬間、拓真の背筋に冷たいものが走った。狭い部屋の空気は妙に重く、閉ざされた窓から差し込む午後の日差しさえ、埃を浮かび上がらせるだけで温もりを感じさせなかった。古びた机の上には散らかった資料やペン立てが置かれ、その奥に腕を組んだまま監督が座っている。


 尾上監督の目は、まるで拓真を射抜くかのように鋭かった。机の向こう側に座るその姿は、威圧感そのものだった。拓真は喉が渇き、思わず唾を飲み込む。心臓の鼓動が耳の奥で大きく鳴り響き、自分の足音までがやけに響いて感じられた。


 監督はしばし沈黙を保ち、じっと拓真を見据えていた。その視線が痛いほど突き刺さり、拓真は視線を逸らしたくなる。しかし逸らしたら最後、すべてを否定される気がして、必死に耐えて前を向いた。


 やがて監督が低く、押し殺した声で口を開いた。


「……今、どう思っとるんじゃ」


 その一言は、室内の空気をさらに重くした。言葉の響きは鋭く、問いかけというよりも断罪のように響いた。拓真の心は一気に揺さぶられる。何を答えるべきか、どこまで本音を言っていいのか、頭の中で言葉が空回りする。


 自分がここに戻ってきた意味、本当に耐えられるのかという不安が胸を締め付けた。しかし、両親の期待や将来のことを考えると、逃げ出すわけにはいかない。監督の視線に耐えながら、拓真は震える唇を開こうとした。


「だから、お前の考えが聞きたい」


 その問いに、拓真の胸はぎゅっと締めつけられる。言葉が見つからず、数秒、いや何十秒もの間が空いた。心臓の鼓動が耳の奥で大きく響く。


 やっとの思いで口を開く。


「……野球がしたいだけです」


 搾り出すようにそう言った瞬間、監督の視線が鋭さを増した。重い沈黙のあと、監督は机に肘をつき、低い声で言葉を続ける。


「お前の親父さん、高野連に報告する言うとったらしいのぉ」


 その一言に、拓真の呼吸が一瞬止まった。父の顔が脳裏に浮かぶ。憤りに震える声、握り締められた拳。守ってくれるはずの言葉が、今は自分の未来を揺るがす脅威に聞こえる。


 監督はゆっくりと身を乗り出し、言葉に重みを込めて畳みかける。


「言うてもええ。けんどなぁ、そしたらお前の望む野球はできんかもしれんぞ」


 静かな圧力が、言葉よりも重くのしかかる。拓真の唇が震え、声にならない息だけが漏れた。目の前の監督の顔がぼやけ、視界の端で机の木目が妙に鮮明に見えた。


 心の中で、二つの声がせめぎ合う。父の言葉を信じて告発するか、それともここで黙って野球を続けるか。どちらを選んでも、失うものがある――その恐怖が胸を締め付ける。


 拓真は返答を探したが、声は喉に貼りついたまま出てこなかった。沈黙だけが、監督室に重く積もっていった。


 監督室に漂う重苦しい空気は、鉛のように拓真の肩へとのしかかっていた。机に肘をつき、腕を組んで座る尾上監督の鋭い視線が、まるで動くことを許さぬ檻のように少年を縛りつけている。


 しばしの沈黙のあと、監督は唸るように声を低く落とした。


「ええか。対外試合もできんようになるしの。暴力は確かにあかん。じゃが、お前にもルールを破った責任はあるんじゃ」


 その語気を強めた響きが、静まり返った部屋に異様な重みを残す。拓真の喉が、ごくりと鳴った。反論したいのに、言葉が形を成さない。頭の中では、あの夜のこと、そしてカップ麺の残り香さえ蘇ってくる。


 監督はなおも畳みかけるように、身を前へと乗り出した。


「で、どうするんじゃ。高野連に報告してもええんか?」


 問いはまるで拷問のように繰り返され、監督の目は細く、射抜くように光っていた。その目を前に、拓真は声を失ったまま硬直する。何かを言えば、すべてが崩れる。けれど沈黙すれば、この重圧に押し潰される。


 心臓の鼓動だけが、やけに鮮明に耳の奥で響く。拓真はうつむいたまま、必死にその視線を受け止めていた。やがて、沈黙の闇が部屋を覆い尽くすように広がる。

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