第十一話『後悔』
監督室の窓からは、鉛色の冬空がのぞいていた。冷え切った風が校舎の壁を揺らし、外からは部員たちの掛け声すら聞こえない。冬休み明けのキャンパスは静まり返り、ストーブの小さな唸り声だけが室内に漂っていた。
机の向こうに腰掛けた尾上監督は、組んだ腕を解き、椅子を軋ませながら前へと身を乗り出す。目は笑っていない。重たい視線が拓真の頭上に覆いかぶさってくる。
「……で、ええんか? 高野連には報告せんでええんやな?」
低く、抑えた声。それでも棘が混じり、胸の奥に突き刺さるように響く。
拓真は唇を噛んだ。冷えた空気が肺を刺し、喉が詰まって言葉にならない。しばしの沈黙のあと、かすれるように声を絞り出す。
「……はい」
監督は眉を動かさず、冷ややかに首を傾ける。
「声が小さいわ。そがぁなもん、誰も聞いとらん言うのと一緒じゃ。はっきり言えや」
机に手を置いて身を乗り出す。その圧に押され、拓真は肩を震わせながら、喉を必死に開いた。
「……高野連には言わないでください。お願いします」
その言葉を聞いた瞬間、監督はふっと口角を上げた。しかし笑みは温かみの欠片もなく、ただ勝ち誇ったような影を落としていた。
「……ほうか。じゃあこの話は、これで終わりいうことにしとこかのう」
監督は椅子に深く腰を下ろし、腕を組み直すと、吐き捨てるように続けた。
「二年の四人は、お前と違う。あいつらはルール守っとる優等生じゃ。お前とは同じ部員でも比べもんにならん」
胸の奥が締め付けられる。拓真の目には涙がにじみそうになるが、唇を噛みしめて必死にこらえた。凍えるような冬の空気よりも冷たい言葉が、心を突き刺して離れない。
何も変わっていない。いや、むしろ悪くなっているのかもしれない。そう思いながら、拓真は重い足取りで監督室の扉を開けた。外の廊下に出ると、冷たい風が吹き込んできて頬を刺す。背後で扉が閉まる音が、やけに大きく耳に響いた。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音が確かにした。
授業が終わり、拓真は鞄を肩にかけたまま、足を重く引きずるようにグラウンドへと向かった。冷たい一月の風が制服の隙間から入り込み、背筋を震わせる。校舎からグラウンドへ抜ける通路はいつもなら部員の笑い声や掛け声で満ちているはずだった。しかしその日は、まるで空気ごと凍りついているかのように静まり返っていた。
ベンチ裏に鞄を置いても、誰も「おう」「おつかれ」と声をかけてくる者はいない。同じ一年の顔を見ても、皆わざと視線を逸らし、拓真が近づくと足早に立ち去る。まるで自分の存在だけが“ここにあってはいけないもの”のように扱われているのだと、ひしひしと感じ取れた。
数日前まで一緒に汗を流していた仲間が、今は壁のように冷たく沈黙している。いや、壁というより、存在そのものを透き通る空気に変えてしまう。拓真は、声を発するのも憚られるような居心地の悪さに、胸の奥が焼けるように痛んだ。
唯一、声をかけてくるのは、あの四人だった。黒田、村井、高森、江藤――自分に暴力を振るった上級生たち。
黒田がキャッチボールの手を止め、薄笑いを浮かべて言った。
「おう、幽霊が帰ってきとるで。見えとんの俺らだけなんじゃねぇか?」
その言葉に、村井がすぐさま追い打ちをかける。
「おい、拓真。お前と話したら俺らまで呪われるらしいぞ。なぁ?」
笑い声が空気を裂いた。高森がバットを肩に担ぎながら、わざと拓真の目の前で素振りを始める。バットの風切り音が耳を打ち、拓真の背筋に冷たい汗が伝った。
「監督に告げ口したんじゃねえのか? “配慮する”とか言うとったけど、結局お前の居場所なんかここにはねぇんだよ」
江藤は水筒を握ったまま、吐き捨てるように呟いた。
「ほんまに邪魔なんよ。空気なんじゃけ、消えたらどうなん?」
その言葉に、拓真は拳を握りしめた。悔しさで唇が震え、目の奥が熱く滲む。しかし声を上げることはできなかった。反論した瞬間、また何をされるかわからない。無視されるより、嘲笑われる方がまだ存在を認められている気がする――そんな錯覚すら生まれそうになる。
グラウンドの夕焼けは赤く燃えているのに、拓真の心には色がなかった。監督が言った「配慮する」という言葉は、たしかにあったはずなのに、今はただの幻のように遠ざかっていく。
声をかけてくれる仲間は誰一人いない。聞こえてくるのは四人の冷笑と、風に吹かれて転がる砂のざわめきだけ。
拓真は俯いたまま、自分がどんどん透明になっていくような感覚に囚われていた。
夜の寮の廊下はひどく冷え込んでいた。蛍光灯の白い光がコンクリートの床を照らすが、その光の下に立つ拓真の影は、やけに小さく見えた。練習を終えて戻ってきたばかりのはずなのに、胸の奥には鉛のような重さが沈んでいた。
監督が父に言った「配慮する」という言葉は、まるで幻だった。暴力をふるった二年生たちとは顔を合わせないようにすると約束されたはずなのに、この狭い寮では到底無理な話だった。風呂場の前でも、食堂の入り口でも、トイレに向かう途中でも、いつもあの連中の影がある。たった今戻ったばかりでも、どこかから視線と威圧の気配が突き刺さるように感じる。
拓真は立ち止まり、荷物を置いた自分の部屋のドアを見つめた。そこもまた、安らげるはずの場所ではない。同じ一年生でさえ、彼と関われば罰を受けるかのように視線を逸らす。誰も話しかけてこない。声を出せば、その声が寮中に響き渡ってしまいそうで、息を潜めるしかなかった。
――ここには、俺の居場所はない。
胸の奥でそうはっきり言葉になった。野球を続けたい気持ちはある。グラウンドに立ちたい気持ちもまだ残っている。だが、この寮にいる限り、その願いは暴力の影に押し潰されるだろう。監督の言動を思い返せば、また同じことが繰り返されるに違いない。そう遠くない未来に、再び暴力が再燃する。その確信めいた予感が、拓真の背中を強く押した。
彼は静かに部屋に入ると、カバンを引き寄せた。引き出しから衣服を掴み、洗面用具を無造作に放り込み、ノートや筆記具も押し込む。荷物をまとめる手は震えていたが、それは恐怖だけでなく、決意の震えでもあった。
窓の外からは冬の冷たい風の音が微かに届く。蝉の鳴き声などない一月の夜。息を吐けば白く広がり、その冷たさが現実を突きつけてくる。
拓真は最後に寮の部屋を見渡した。そこに未練はなかった。ドアを静かに閉め、廊下に足を踏み出す。夜の寮は不気味なほど静まり返っている。だが、その静けさの中を進む彼の足取りには、迷いはなかった。
――もう家に帰ろう。野球を捨てることになるかもしれない。それでも、ここで心と体を壊すよりはましだ。
拓真は荷物を背負い、寮の出口に向かった。冷たい空気が迎えるその先に、彼の選んだ道が広がっていた。




