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完結『あの夏、甲子園の裏で──名門野球部暴力事件の真実。甲子園常連校の暴力問題 腹が立つので書いてみました。』  作者: カトラス


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第八話『逃走──明け方の決断』

 夜が白み始めた清風寮の一室で、拓真は重いまぶたを押し開けた。頭が枕に沈むたび、ずきりと鈍い痛みが走る。頬が腫れあがり、枕には赤黒い血の跡が点々と残っていた。口の中にはまだ鉄の味が広がり、乾いた血が舌にざらつく。


 洗面台へふらつきながら立ち上がり、鏡をのぞき込む。映った顔に思わず息を呑んだ。右目は半ばふさがり、頬には殴打の痕が赤黒く広がっている。唇の端には固まった血がひび割れのように残り、そこから微かにまた血が滲んでいた。震える手でシャツをめくると、脇腹にくっきりと残った拳の跡。青黒い痣が皮膚を覆い、深く息を吸うと鋭い痛みが肋骨を突き刺す。思わず洗面台に手をつき、肩で荒く息をした。


 耳の奥で、昨夜の怒号や笑い声が何度も反響した。暗い廊下で囲まれ、殴られ蹴られた感覚が蘇る。恐怖に胸が締め付けられる。だが、その恐怖よりも強烈に心を支配したのは「このままここにいたら、本当に命を奪われる」という確信だった。


 拓真は鏡を睨み、唇を強く結んだ。震える手を握りしめる。逃げなければならない。ここを出なければ、生き延びられない。


 荷物をまとめる余裕はなかった。制服姿のまま、足音を殺しながら廊下を歩く。心臓が胸を破りそうなほど鳴り響き、静まり返った寮にその音が漏れるのではないかと恐れた。玄関の扉を静かに開けた瞬間、夜明け前の冷たい風が頬を打った。肌を刺す冷気に一瞬身を縮めるが、それでも前に出る足は止まらなかった。


 東の空がわずかに白んでいる。鳥のさえずりが遠くで混じり、街はまだ眠りの中にある。拓真は一度も振り返らなかった。背後に残っているのは、暴力と嘲笑が支配する地獄。戻ることは死を意味する。


 彼は胸いっぱいに冷たい空気を吸い込み、唇をかすかに震わせながら心に誓った。生き延びるために、この道を歩き続けるのだと。


 朝の通学時間、住宅街の道には制服姿の生徒たちが列をなして歩いていた。自転車のベルが鳴り、友人同士の笑い声が風に混じる。そんな明るい光景の中で、拓真だけが逆の方向へ歩いていた。足取りは重く、制服の裾は泥で汚れ、顔には隠しようのない腫れと痣が浮かんでいた。すれ違う生徒たちが一瞬、驚いたように目を止めたが、誰も声をかけようとはしなかった。拓真自身も、視線に気づきながら顔を伏せ、ただ歩き続けるしかなかった。


 冷たい朝の風が頬の傷に触れると、鋭い痛みが走った。呼吸のたびに胸が軋み、肋骨に残る鈍痛が足を止めさせようとする。だが頭の中で繰り返されるのはただ一つ、「帰らなければ」という思いだった。家の玄関を思い浮かべ、その扉を開く瞬間だけを支えにして、ようやく自宅の門にたどり着いた。


 震える手で扉を開けると、台所から母の声が聞こえた。「拓真? こんな時間にどうしたの……」


 振り返った母の視線が、玄関に立つ息子の姿を捉えた瞬間、驚愕の色に凍りついた。頬の腫れ、唇の裂け目、そして全身に散らばる青黒い痣。母の手からタオルが滑り落ち、乾いた音を立てた。次の瞬間には、慌てて駆け寄り、声を震わせていた。「どうしたの、こんな……」


 物音に気づき、居間から父も姿を現した。スーツの上着を片腕にかけたままの姿で玄関に立つ息子を見た瞬間、顔色を変える。「……おい、拓真! その顔はどうしたんだ!」


 父はスリッパも履かずに玄関へ駆け寄り、息子の肩を掴んだ。母は震える指で頬に触れ、「待って、水とタオルを持ってくるから」と言い残し、駆けていった。


 残された父の声は低く、しかし怒りと焦燥に揺れていた。「一体、誰にやられたんだ。何があったんだ!」


 その眼差しは鋭く、息子を守ろうとする必死の思いと、信じがたい現実への怒りが入り混じっていた。拓真は立ち尽くしたまま、その視線を受け止めた。胸の奥で何かが切れ、押し殺してきた痛みと恐怖を、ついに言葉にしなければならないと悟った。


 居間の空気は凍りつくように重かった。テーブルの上には母が慌てて持ってきた水とタオルが置かれ、まだ揺れるように震えている。拓真は喉を詰まらせ、何度も言葉を飲み込んでは唇を噛みしめ、ついに震える声を絞り出した。


「……俺、ずっと殴られてたんだ。寮で……四人に囲まれて。何度も謝れって迫られて……言うことを聞かないと殴られて。昨日の夜は、頭を強く打たれて……このまま死ぬんじゃないかって、本気で思った」


 途切れ途切れの言葉が落ちるたびに、母の目からは堪えきれぬ涙があふれ出した。彼女は震える手で拓真の手を握り、嗚咽を抑えながら「どうして、そんな……」と声を震わせた。


 父は血走った目で拳を握りしめ、肩を震わせていた。低く押し殺した声で「主将に相談したんだろ……それなのに、お前が疑われたのか?」と問いかける。その声には怒りと悔しさが混じり、床を響かせるほどの重さがあった。


 拓真は苦しげに息を吐き、小さく頷いた。「信じてもらえなかった……。でも、本当に死ぬと思ったから……逃げてきたんだ」


 その言葉が放たれた瞬間、居間の空気はさらに沈んだ。母は声を失い、父は歯を食いしばって視線を逸らす。息子の弱さと、なお勇気を振り絞って帰ってきた強さ。その矛盾する姿が、二人の胸を深く抉った。


 母は涙で濡れた頬を拭いながら、拓真の背を優しくさすり続けた。父は荒い息を一つ吐き、怒りを押し殺すように深くうなずきながら言った。「もう大丈夫だ。これ以上、お前を一人にさせたりはしない」


 拓真はその言葉を聞いた瞬間、張りつめていた胸の奥がようやくわずかに解けていくのを感じた。


 父の顔は紅潮し、額の血管が浮き上がっていた。握りしめた拳がわずかに震え、居間全体に重く張り詰めた空気が広がっていく。母は涙に濡れた目で息子を抱きしめ、その震えを自分の体で必死に受け止めていた。


「……学校で、こんなことが起きているのか」


 押し殺した低い声に、母はただ唇を噛んで俯いた。父は椅子を押しのけて立ち上がると、ポケットから携帯を取り出し、短く会社へ電話を入れる。「本日は休ませていただきます」と丁寧に告げ、そのまま通話を切った。その動作一つ一つに、怒りと決意がにじみ出ていた。


 学校に電話をかける前、父は受話器の横に腰を下ろし、深く息を吐いた。その目には怒りと悲しみが混じり合い、燃えるような光が宿っている。母は拓真を抱きしめたまま、震える声を抑えようと必死だった。時計の針の音が、重苦しい沈黙の中でやけに大きく響いていた。


「拓真……正直に、全部話してくれ」


 低く落ち着いた声だったが、底に震えを含んでいた。拓真は母の胸元に顔を押しつけ、喉の奥から搾り出すように言葉を吐く。


「……やったのは、二年の……黒田、村井、高森、江藤……四人」


 その名が一つひとつ口にされるたびに、父の拳は膝の上で固く握りしめられ、血が引くほど白くなる。母は涙に顔を歪めながらも、拓真の背を撫でて支え続けた。


「監督とコーチの名も教えてくれ」


 父の問いは刃のように鋭く、部屋の空気を切り裂いた。拓真は小さく息を吸い込み、怯えながらも答える。


 「……監督は、尾上哲史さん。コーチは、その息子の……尾上翔さん」


 父の目がぎらりと光り、噛み締めた歯の隙間から荒い息が漏れた。母は震える指で涙を拭いながら、夫の背中に揺るぎない覚悟を見て取った。


「……わかった。お前をこんな目に遭わせた相手を、絶対に許さん」


 その声は怒号ではなく、静かで、地の底から響くような決意を帯びていた。拓真の胸の奥に、小さな安堵の灯がともる。父は受話器へと手を伸ばし、これから始まる戦いに向けて、固い決意を胸に刻み込んでいた。


 すぐに父は黒い受話器を掴み、強い力でダイヤルを回した。呼び出し音が静まり返った部屋に不気味に響き渡る。母の嗚咽と拓真の早鐘のような鼓動が、その音に重なり合って聞こえた。


「もしもし……至急、野球部の監督を出してください」


 父の声は鋼のように硬く、怒りを抑え込んだ響きが一言ごとに伝わってくる。受話器を握る手は血の気が引くほど白くなり、テーブルに置かれたコップの水面が小刻みに揺れた。


 母は拓真の頭を胸に引き寄せ、涙で濡れた頬を彼の髪に押し当てる。その温もりが伝わるたび、拓真の胸の奥に、ほんのわずかな光が差し込むような感覚が芽生えた。


(……もう、隠さなくていいのだろうか)


 拓真は心の中で小さく呟いた。父の怒りと母の涙に包まれて、初めて自分が守られていると実感できた瞬間だった。



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