51:宿場町④(ゆうき視点)
――ゴゴゴゴゴゴゴ。
頭の上から見えない手で押さえ付けられているような圧迫感を感じている。
宿場町の住人、それから今日たまたま通り掛かっただけの旅人にしたって、怪物に変わった後はまだ変化していない人間を食べて、それから一人残らずボクの力で粉々にされてしまった。
浄化の力を練り込んだ水に押し潰され、ただの腐った肉片へと変えられてしまったんだ。
それを行ったのは間違いなくボクだ。
でも、だからこそ許せない。
名前も素性も知らない人々であっても、だからといって殺して良い理由にはならない。
ほんの数日前まで普通に暮らしていたはずの人々が、ワケも分からないうちに怪物になって人を喰らい挙げ句あっけなく殺されてしまう。
これが理不尽でなくて何だというのか?
ボクに彼らを殺させた奴には必ず報いを受けさせてやる。
そんな気持ちで無人となった宿場町の大通りを歩き続ける。
「居るね」
本能が、直感が自然と言葉を織りなした。
足下にはスモークでも焚いたように靄が立ち籠めていて敷き詰められた石畳も、それ以外の剥き出しとなった地面もうっすらとしか見えない。
町全体が暗く、なのに建物の輪郭線がやけに鮮明に浮き上がって見えた。
空で瞬いているのは無数の星々、或いは丸くて大きな二つの月。
月を見る度に、ここが異世界なのだと痛感してしまう。
そんな視界の隅っこ。建物の屋根の上にずんぐりとした巨体が鎮座している事に気付いた。
恐ろしいまでの存在感。
悍ましい気配。
コイツは今ここで、何が何でも殺さなければいけないと本能が燃えたぎる怒りと共に叫んでいる。
そいつは、屋根の上に留まっている塊は、全長二メートルにも及ぶ巨大な蝿だった。
「ああそうか、お前が毒を撒いていた元凶か。……テメエはボクを怒らせた。地獄以外に行けると思うなよ?」
奴が聞こえるであろう位置まで近づいて行って、声高に宣言する。
すると巨大な蝿は「キシシシ」と笑い声らしき不愉快な音を奏でた。
『やってみろ人間。我は“バアル・ゼブル”、六魔将軍の一柱にして古の町エクロンを一夜にして滅ぼした邪悪なる神である!』
「蝿が神を騙るなっ!」
自分で邪悪とか言っちゃうあたり相当に拗らせた魔物であるらしい。
そして魔王バハネルに仕えている、つまり魔王軍の幹部であるという言葉が事実であるのなら、やはり生きては帰せない。
「お前はぶっちめる! この拳でっ!!」
熱血系主人公らしき言葉を吐きつつ、地面を蹴って跳躍したボクは瞬きほどの時間の後にはもう蝿のすぐ目と鼻の先まで迫っていた。
「オラオラオラオラオラオラオラオラァァっ!!」
『ナリナリナリナリナリナリナリナリィィっ!!』
水の力を纏い付かせた拳による連打は、しかし同等の手数で繰り出された前足によって堰き止められた。
「くっ?!」
苦々しげに呻くと押し出されるように真後ろへと吹っ飛ばされる。
パンチは地に足が付いていないとどうしたって力が乗らないものだ。
慣性の法則に従って落下する体で、それでも綺麗に着地したボクは褒められても良いはず。
仰ぎ見た先に浮かんでいるシルエットに向けて、水の槍を飛ばす。
カツカツカツッ。
槍は建物の屋根を串刺しする。
けれど肝心の蝿には届かない。
僅かに羽根を振動させ、自らの巨躯を宙に浮かせていたからだ。
「それならっ!」
――《水の束縛》。
屋根の表面に水溜まりが浮き上がって、そこから触手のような縄が飛び出し蝿を絡め取ろうとする。
だが蝿は『ふんっ!』などと声を上げたかと思えば水を文字通りに飛散させてしまった。
『貧弱なり、水使いの娘よ!』
「ちぃっ!」
余裕綽々の返答に思わず舌打ちしてしまったじゃあないか。
巨大蝿は尚も羽根をばたつかせて高度を上げようとする。
逃がすまいとするボクは足下から迫り上がってくる水龍に跨がると追い掛けるように空へと昇る。
『キシシシ、しつこい客引きは嫌われるぞ』
「余裕こいてるつもりかい?」
更に地表と距離を取る蝿、その頭上に水の網を生成するとそのまま落とす。
粘度の高い水に羽根を濡らされた蝿は頭を押さえ付けられたように一段高度を落とした。
「後悔も懺悔も、やりたきゃ地獄でやれっ!」
そして水龍ごと突っ込んでいく。
引き絞られたその拳には天をも穿つドリルのように、圧縮され超高圧に達している浄化の水が渦を巻いていた。
「歯ぁ食いしばれぇ!!!」
そして渾身の力を込めてぶん殴った。
バキャン、なんて音と共に蝿の頭部の半分が粉々に砕け散り、そいつは咆吼を上げながらきりもみ状に墜落し、石畳を砕く勢いで地面に叩き付けられる。
『おのれ小娘ぇぇ!! 脆弱な脆弱な脆弱な人間の分際でぇぇぇ!!!』
一転して怒りに満ちた怨嗟の声を迸らせる。
その頭上でボクは天へと手を掲げ、開いた指の一本一本を確かめるように順に握り絞めていく。
反撃のつもりなのか蝿が羽根をばたつかせ、この上に無数の黒い針が出現し飛来する。
だがさっきとは逆に、今度はこちらが出した流水の一薙ぎによって消滅させた。
意趣返しというやつだ。
「随分と余裕が無くなったじゃあないか。安心しろ、お前に逃げ出す余裕なんて与えてやらない。速やかに確実にぶち殺してやる」
『キシャアアァァ!!!』
冷淡な物言いにキレたようで巨大蝿が浄化水に濡れた羽根をそれでも震動させて舞い上がる。
ボクは奴の軌道を慎重に見極めつつ、水龍の上で腰を落とし拳を引き絞り、急降下した。
「消し飛べぇぇ!」
『喰らってやる!!』
ズドンッ、と轟音は一度きり。
二つが交わった瞬間に周囲の家々が爆圧に吹き飛ばされた。
激突で出現した光が、ほんの数秒だけ太陽のように煌めいて宿場町全体を照らし出す。
光が失われた時にはもう、蝿の姿はどこにも見当たらなかった。
「終わったか……、アレクさん達と合流しなきゃ」
周囲の気配を探ってもそれらしき気勢は感じられない。
肩から力を抜いたボクは、こうして水龍の機首を馬車の方に向け飛んで行くのだった。
◆ ◆ ◆
――バアル・ゼブル。
蝿の王を謳い、古の世にあっては神と崇められた存在は、しかし死んではいなかった。
随分と離れた遺跡らしき建造物の最奥に鎮座するのは人間がスッポリ収まってしまうほど大きな卵であり。
ある瞬間に卵の表面に亀裂が走り音を立てて砕ける。
すると新たに一匹の蝿が固い殻の奥から這い出してきた。
『ぬかった……まさかあれ程のものとは……』
魔王バハネルに仕える六魔将軍の一つ。
そんな肩書きは持っているものの、バアルは魔王に忠誠心など欠片ほども抱いていなかった。
太古の昔に神であった自分が、何故に魔王ごときに付き従わねばならぬのか。
魔王に従っていた理由はただ一つ、力を取り戻すための生け贄を欲していたからだ。
幾百億の人間が抱く恐怖はそれ自体が甘美なる蜜であり、その命の終焉は己が身に取り込まれ力を成す。
だから戦争により死という災厄を撒き散らすに違いない魔王バハネルの臣下となった。
力を取り戻した暁には魔王を屠る腹づもりだった。
それが現実はどうだ。
たった一人の人間の娘にすら打ち勝てず、それどころか体の一つを失ってしまったじゃあないか。
バアルは慎重で狡猾だった。
故に死んだら終わりなんて事にはしない。
実働する肉体が滅んだ次の瞬間に自身の意思を転送しすぐさま復活できるよう予備の肉体を別の場所に残しているのだ。
そんな蝿の王ではあるが、しかし自分の浅はかさに思い至ったのはそこからきっちり十秒が経過した後だった。
『なんだ……?!』
生まれたての蝿の前で空間が歪んだかと思えば、そこから新たな影が躍り出てきたじゃあないか。
驚愕と戦慄に身を震わせたバアル。
「あらあら、何を怯えて震えているのかしらね?」
出現した穴から出てきたのは人間の少女。
瑠璃色の艶髪と、手にしたやたらとゴツい金属杖が印象的な、美しい娘。
少女は神であってもゾッとさせるような悪意に彩られた笑みを口元に浮かべ、まだ力を取り戻していないバアルを見下ろしていた。
『何者だ貴様っ!!』
「黙れよ虫けら」
『っ!?』
虚勢を張ったつもりが一声に制され言葉を失う蝿。
バアルは身体の奥から湧き上がる恐怖に身を竦ませジッと仰ぎ見るしかできない。
「新しく組み上げた二号機……“ダリア”の試験運用はまずまずといった所かしらね。並列双核演算機構も安定しているし、指定した対象の魂を補足追跡する機能、それから魂の位置を即座に割り出して転移するマルチリンク・ゲートシステムだって正常に動作してる。あとは高負荷にどこまで耐えられるかの実地試験だけといったところかな?」
ゆっくりとした口調で言ってからジロリと蝿に目を向ける少女。
「丁度良いところに実験体が居るわね。バアル某といったかしら? せっかくだからちょっと実験に付き合ってちょうだい」
蝿の王は全身が金縛りに遭ったように身動き出来ない。
圧倒的な、あまりに格の違う気配に押し潰されそうになっていた。
ガツンッと音を立てて割り開かれた魔法杖の内側。
鋼の装甲の奥から二つの真っ赤な球体が覗き。
或いは排気ノズルからボッ、ボッ、と不定期的に吐き出される赤い炎が不気味さを際立たせている。
少女はおもむろに手をかざす。
蝿の全身を鷲掴みするように指を握り込む。
それだけでバアルは魂を掌握されてしまった。
「解析開始、……終了。魂の書き換え開始」
ズズズズズズ……。
蝿の全身が黒々とした光に覆われた。
気も狂わんばかりに悲鳴を上げ身を捩ろうとする蝿の王。
しかし惑星をも飲み込まんとするかの如き威圧感に逃げること能わず。
間もなくして暗黒の檻から解放された蝿は、最早それまでとは全く別の存在に置き換えられていた。
「気分はどうかしら、私の可愛い虫けら」
『はっ、至高にして究極なる我が主よ。我が身と魂は全て貴女様の物でございます』
バアルは何の疑いも無く、そう返していた。
幸福感に冒され絶対の忠誠心を植え付けられた蝿は、ただただ愛されたくて恭順の意を表す。
少女はニンマリ笑むと踵を返した。
『どちらへ?』
「家に帰るわ。貴方は、そうね。世界征服のための計画でも練ってなさい」
『っ!? それが貴女様のご意志とあらば、喜んで身命を賭しましょうぞ』
蝿は我が意を得たりとばかりに理解の言葉を発すると平伏するように姿勢を低くした。
再び空間が歪み、穴が出現する。
少女が穴の向こうへと消え失せれば後に残されたのは暗闇と静寂。
『至高の御方。我が愛しき乙女よ。全ては貴女様の為に――』
かつて神だった“バアル・ゼブル”は元の体躯と比べれば随分と縮んでしまった蝿の体で、視界から失われてしまった背中と揺れる瑠璃色髪を思い出しては魂までもが震えるほどの恍惚感に身を委ねるのだった。




