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27話 正義とは何か

 月詠の記憶から引き戻された俺の脳内には、まだ激しい雨の音と、燃え盛る車の爆音、そして絶望に濡れた神代浩二の叫びが木霊していた。


 握り締めていた彼女の手は、驚くほど細く、そして冷え切っている。


 俺の両親を殺した神代。その神代に、生きる理由という名の「牙」を与えたのは、皮肉にも俺が今、この命を懸けて守ろうとしている死神の少女だった。


 もし十年前、彼女が死神としての使命を全うしていれば。


 もしあの日、神代浩二という魂を彼女が迷わず刈り取っていれば。


 親父も、母さんも、今もどこかで笑っていたのかもしれない。


 俺もこんなふうに銃を握り、死体の山を築くような人生を歩むことはなかっただろう。


 様々な感情が、濁流となって胸の奥で渦巻いた。怒り、悲しみ、やり場のない喪失感。だが、それらを一つひとつ深呼吸と共に沈め、俺は目の前で崩れそうになっている少女を凝視した。


 彼女は顔を伏せ、耐えきれない罪悪感に押し潰されそうになりながら、嗚咽を漏らしている。


 その姿は、世界の理を司る死神などでは断じてなかった。ただの、あまりにも繊細で心優しい、一人の少女だった。


「……泣かなくていい、月詠」


 俺の絞り出した声に、月詠が弾かれたように顔を上げた。その瞳は涙で潤み、絶望的な謝罪の言葉を紡ごうとしていた。


「……蓮さん……。私は……私は貴方の……」


「確かに、十年前にお前が神代を殺していれば、俺の両親も死ななかったのかもしれない。この町の地獄も、始まってはいなかっただろう」


 俺の冷徹な言葉に、月詠が「……はい。その通りです」と、断頭台に立つ罪人のような声で応じる。


「だがな、月詠。実際に親父たちを殺害し、今この町を破壊しているのは奴だ。……月詠、お前じゃない」


「ですが……!! 私のせいで、運命が変わってしまいました! 私が余計な情けをかけなければ、こんな過酷な運命を貴方に強いることはなかったのに!」


 必死に自分を責める彼女に対し、俺はふっと、自嘲気味に軽く笑ってみせた。


「そもそも、俺は目に見えない『運命』なんて代物は信じちゃいない。たとえそんなものが実在したとしても、その行き先を決めているのは神でも死神でもない。……自分自身だ」


 月詠は涙を拭うのも忘れ、呆然として俺の話を聞いている。


「俺は元々、お前に出会って、その日のうちに死ぬ運命だったんだろ? だが俺は諦めなかった。お前に猶予を乞い、あの日死ぬはずだった運命を、自力でねじ曲げた。だからこうして、今ここで生きている。違うか?」


「そう……かもしれませんね。蓮さんは、いつだって私の想像の外側にいました」


 少しの間、屋上に夜風の音だけが流れた。


 俺はライフルの銃身を指でなぞりながら、銀色に輝く月を仰ぎ見た。


「月詠。お前は、正義とはなんだと思う?」


「正義……ですか? 例えば、多くの人を救うこと、あるいは……この世の中を少しでも良くしようとする心、でしょうか」


「理屈ではそうだ。学校の教科書なら、それが満点だろうな。だが、現実は違う。……正義とは、己の信念だ。そして、それを信じて疑わない心のことだ」


 俺の言葉に、月詠は怪訝そうな表情を浮かべた。


「神代……奴の過去には、同情する部分もある。奴もまた、理不尽な巨悪に家族を奪われた被害者だ。……許すわけじゃないが、奴は奴なりの、歪みきった正義に従っているんだろう。この腐った町を浄化するという、奴自身の信念にな」


「だからって、こんな非情なことが許されるわけがありません! 罪のない人々まで巻き込んで……!」


「言っただろ? 正義は理屈じゃないんだよ。それは時として、人を、世界を滅ぼす化け物にだって変える。……奴にとっての正義は、俺たちにとっての悪でしかない。ただそれだけのことだ」


 俺は一度言葉を切り、ゆっくりと月詠に向き直った。彼女の瞳を、逸らすことなく見つめる。


「……俺の正義は、神代を殺すことだけだった。それ以外の奴らがどうなろうと、この町がどうなろうと、知ったことじゃなかった。……だが、今は違う」


「……蓮さん」


「他人のために戦いたい……。無様に見えても、救える命を救いたい。そう思っている今の自分を、悪くないとも思ってるんだ。……俺に、そんな『人間らしい』正義を思い出させてくれたのは、月詠、お前だ」


 復讐という黒い炎で焼き尽くされていた俺の魂に、彼女の温もりが、青い小さな灯を灯した。人殺しとして死ぬはずだった俺に、守るべきものを与えてくれたのだ。


 俺は、彼女の細い手を取り、力強く握り締めた。


「……一緒に終わらせよう、月詠。この地獄を。お前の後悔は、すべて俺が引き受けてやる」


 そのセリフを聞いた瞬間、月詠の目から再び涙が溢れ出した。だが、それは先ほどまでの絶望の涙ではなかった。


 彼女は震える手で涙を拭い、力強く頷いた。


「はい……! はい、蓮さん。最後までお供させていただきます」


 俺たちは、月光の下で静かに見つめ合った。


 やがて、東の空が白み始め、夜の帷がゆっくりと剥がされていく。


 見張りの交代時間が来た。俺たちは屋上を後にし、避難民たちが身を寄せるホールの中へと戻った。


 薄暗い控室の隅、予備の毛布を分け合い、俺たちは寄り添うようにして横になった。生身になった彼女の体温と、かすかな寝息が、戦場の緊張をわずかに解かしてくれる。


 数時間の、浅い、けれどかけがえのない眠り。


 ―――だが、その安らぎは長くは続かなかった。


 ザッ、ザザッ……!!


 午前七時。


 静まり返ったホールに、耳を劈くようなスピーカーのノイズが響き渡った。


「――親愛なる市民諸君。おはよう。実にいい朝だとは思わないか?」


 眠りから強制的に引き戻された俺たちは、瞬時に意識を切り替えた。


 スピーカーから流れる神代の声は、昨日よりもさらに冷酷で、鋭利な響きを帯びていた。


「さて…………罪深き者たちへ、さらなる裁きを与える時間だ」


 運命の二日目が、今、幕を開けた。

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