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26話 少女の記憶


 月詠の冷たい手を握り締めた瞬間、俺の意識は肉体という檻を飛び越え、色彩を失った静止した世界へと墜落した。


「……お父様」


 少女――かつての月詠が、黒い大理石の玉座を前に深く頭を垂れていた。


 玉座に鎮座するのは、夜の闇をそのまま形にしたような威厳を纏う男、冥府の王ハデス。彼は、その冷徹な双眸で愛娘を見下ろしていた。


 場所は移り、いつかの夢で見た王宮の庭。


「良いか、月詠。奴らは所詮、弟のゼウスが気まぐれに作り出した、不完全な泥人形だ。自分勝手で、利己的で、愛などという幻想で己を飾る醜い生き物に過ぎん。我ら死神がその魂を刈り取るのは、世界の秩序を保つための『掃除』に過ぎぬのだ」


「……はい、お父様」


 少女の返答は、感情を殺した機械的なものだった。


 だが、その胸の奥には、ハデスが「毒」と断じた好奇心の種が静かに根を張っていた。


 彼女は、任務で地上に降りるたび、数多の魂を刈り取ってきた。ハデスの言う通り、他者を蹴落とし、欲望に塗れた汚濁の魂も少なくなかった。けれど、その一方で、彼女は「例外」に触れてしまったのだ。


 自分の命を懸けて子を守る親。


 最後の一瞬まで、会えぬ恋人の幸福を祈る若者。


 そんな、非合理で、けれど眩いばかりの輝きに。


 ある時、少女は任務の合間に、誰もいない冥府の部屋で鏡の前に立った。


 そして、先ほど刈り取った母親の魂が見せていた「子供へ向けた微笑み」を、真似してみようとした。


 彼女には、頬を吊り上げる筋肉の使い方も、目を細める感情の熱も分からなかった。鏡の中に映るのは、不自然に口角を歪めただけの、歪な人形の顔。


 それでも彼女は、人間に憧れ、焦がれていた。あんなふうに、誰かのために光り輝く魂を持ってみたいと。


「……この輝きを、私の鎌で断ち切ることが、本当に正しいことなの?」


 その拭いきれない迷いが、彼女の鎌を僅かに、けれど決定的に鈍らせ始めていた。


 そんな中、ハデスから新たな『天命』が下される。


「次の標的だ。この男は、その深い悲しみの果てに、運命の理を大きく歪ませようとしている。狂気へと堕ちる前に、その根を絶て」


 ―――場面が、激しく入れ替わる。


 そこは誰かのお墓の前だった。


 神代浩二。


 まだ若く、けれどその貌は、今にも崩れ落ちそうな絶望の色に染まっていた。


 少女は黒い翼を広げ、彼の背後に音もなく舞い降りた。


 その手には、月光を反射する巨大な魂の鎌。


「こんばんは」


 少女の静かな声に、神代は弾かれたように振り返った。


 死の気配を纏う異形を前に、彼は目を見開き、喉を震わせる。


「お前は……なんなんだ……。化け物か?」


「私は、死神です。……申し訳ありませんが、貴方の魂を、刈り取りに来ました」


「死神……だと!? ふざけるな、何を言っているんだお前は!」


 神代の声は、恐怖と怒りが混ざり合い、ひどく掠れていた。


「信じられないのも無理はありません。……ですが、貴方には、ここで死んでもらいます」


 少女は一瞬で神代の背後に回り込んだ。その動きは物理法則を無視し、死そのものの速さだった。


「申し訳ありません」


 少女は目を閉じ、一気に鎌を振りかざす。


 だが、その刹那。


 神代は抗うことも逃げることもせず、天を仰ぎぽつりと独り言をこぼした。


「……そうか。私は……私のやろうとしていたことは……やはり、間違いだったのだろうか」


 少女の動きが、凍りついた。


「これが……天罰というものだろうか」


 神代は涙を流しながら、少女の方をゆっくりと振り返った。その瞳には、死を恐れる色ではなく、自分を許せないという底なしの後悔の色があった。


 少女は見ないようにしていた。人間というものの美しさを。


 だが、今この瞬間、月詠は見ずにはいられなかった。


 魂に触れ奔流のような記憶が、少女の中に流れ込む。


 この男、神代浩二は――美浜市の職員として、上層部が行っていた再開発計画の不正を、ジャーナリストと共に暴こうとしていた正義の徒だった。


 だが、真実に近づきすぎた報いとして、彼は口封じを企む者たちの手にかかった。


 大型車による追突。事故に見せかけた他殺。


 神代は一命を取り留めたが、その横に乗っていた愛する妻と、まだ幼かった娘は、逃げられない炎の中で息絶えた。


 この男は、二人を心の底から愛していた。


 家族を守れなかった自分。真実を追ったせいで家族を死に追いやった自分。


 その、焼け付くような悲しみと自己嫌悪が、濁流となって月詠の心象風景を塗り潰していく。


 ―――お父様は言った。人間は醜い生き物だと。


 ―――けれど、これほどまでに誰かを想い、悲しむ魂が、どうして「醜い」と言えるのか。


 理不尽な運命に翻弄され、全てを奪われた男。


 もし、この男がこの先、世界に災厄をもたらす運命にあるとしても。


 今の彼女には、この悲劇の果てにある魂を、死の鎌で断ち切ることなど、どうしてもできなかった。


 月詠の手から、禍々しい鎌が霧のように消えていく。


「…………気が変わりました。貴方の魂をいただくのは、やめにします」


「……見逃す、というのか?」


 神代は、信じられないものを見るように、少女を見つめた。


「ええ。これで、運命さだめは変わるでしょう」


「……神は、私のやろうとしていることを、許すとでも言うのか!? 」


 神代の魂が、急速に色を変えていく。


 深い悲しみの青は一瞬にして消えた。代わりに、この世の全てを焼き尽くさんとする、禍々しく赤い復讐の色が宿った。


 少女は、その不吉な予兆を感じ取っていた。けれど、それでも彼女は信じたかったのだ。人間が持つ、本来の美しさを。


「貴方の信じるもののために、生きてください」


 それが彼女にとって精一杯の、そして最も残酷な慈悲だった。


 少女はそれだけを言い残すと、夜の闇へと姿を消した。


 



 ―――っ!!


 強烈な、突き上げるような衝撃と共に、俺の視界は現実へと引き戻された。


 握り締めていた月詠の右手は、今や凍りつくように冷たく、俺の両手の中で力なく震えていた。


 俺の目の前。


 屋上の月光を浴びながら、彼女は顔を伏せ、ボロボロと大粒の涙を溢れさせていた。


 十年前。


 彼女が与えた「慈悲」が、神代という怪物に牙を与えた。


 「恐らく彼は、自分の手で全てを裁き、復讐を果たすために……不正を公にしようとした蓮さんのご両親を……」


 「ああ……多分それで間違いないな。両親は正義感が強かった。復讐を自分でやりたい神代にとっては邪魔だったんだろう」


 あまりにも残酷な因縁の連鎖。


「……蓮さん……。ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……っ」


 泣きじゃくる彼女の声が、静まり返った屋上に虚しく響く。


 俺は、その震える小さな身体を見つめ、静かに息を吸い込んだ。


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