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23話 市民ホール~月詠side~


 不気味なほどの静寂が、市民ホールの周囲を包み込んでいた。


 かつては文化や芸術が集う華やかな場所だったはずの建物は、今や煤と火薬の匂いに汚れ、死を待つ巨大な棺のように沈黙している。


 裏口の分厚い扉の影で、蓮さんが私の肩を強く掴んだ。その手のひらから伝わってくる熱が、今の私にとって唯一の安らぎだった。


「……ここからは別行動だ。一時間、時間をくれ」


 蓮さんの低い声に、私の心臓が小さく跳ねる。


「一人で行くのですか? 私も一緒に行きます。今の私なら、直接触れずとも近くにいる敵の殺意くらいなら……」


「いい。お前にしかできない仕事がある」


 蓮さんは私の言葉を遮り、空いた手で私の頬に付いた泥の汚れをそっと拭った。指先のざらついた感触が、ひどく愛おしく感じてしまう。


「中に入って、生存者の状況を見てきてくれ。」


「……でも」


「励ましたり、元気づけたりすることは俺にはできない仕事だ。現場の士気が上がれば、それだけ状況が有利になる可能性だってある」


 蓮さんの瞳の奥には、迷いのない、鋼のような決意が宿っていた。


「一時間後、必ず戻る。……いいな?」


 私は小さく頷くことしかできなかった。


 蓮さんの背中が暗がりに溶け込んで見えなくなると、私は肺に残った彼の残り香を一度だけ深く吸い込み、重い鉄の扉を押し開けた。


 ホールの内部は、言葉を失うほどの絶望で満ちていた。


 メインロビーから大ホールにかけて、数百人の避難民がひしめき合っている。空いたスペースには毛布が敷かれ、疲れ果てた人々が重なり合うようにして身体を寄せ合っていた。


 霊体だった頃、私にとって人間は「魂」という光の塊に過ぎなかった。


 けれど、今の私には分かる。


 彼らが発する、微かな震え。赤く腫れた目の奥にある恐怖。混じり合う汗の匂いと、誰かが啜り泣く低い声。


 人間は、こんなにも脆く、不自由な器の中に、これほどまでに大きな「生」への執着を抱えて生きている。


 私はホールの隅を歩き、倒れているお年寄りの背中をさすったり、乾いた喉を訴える若者に僅かな水を分け与えたりして回った。


 ふと、ホールの最前列、ステージの階段に腰掛けて、膝を抱えている小さな女の子が目に留まった。


 七歳か、八歳くらいでしょうか。


 彼女は周囲の喧騒から取り残されたように、ただ一点を見つめて、声を殺して泣いていた。


「……こんばんは。お一人ですか?」


 私が膝をついて声をかけると、その子はびくりと肩を揺らし、濡れた瞳で私を見上げた。


「……お母さんが、お外に……。パパが、様子を見てくるって言ったきり、戻ってこないの。お外、大きな音がして、怖いよ」


 ミオさん、と名乗ったその子の小さな手は、驚くほど冷たかった。私はその手を自分の両手で包み込み、ゆっくりと温める。実体を持ったからこそできる、ささやかな救済。


「大丈夫ですよ、ミオさん。泣かないでください」


「お姉ちゃん……パパたちは、死んじゃったの?」


 その直球の問いに、私の胸が鋭く痛んだ。以前の私なら、「命には終わりがあるものです」と冷淡に答えていたかもしれない。


 けれど、今は違う。


「いいえ。……今、すごく頼もしい方が、皆を助けるための準備をしてくれています。その方は少しだけ怖そうに見えますが、誰よりもお優しい方なんです。だから、信じて待っていてくださいね」


「……その人、強いの?」


「ええ、とても。死神にだって勝てるくらい、強い方ですよ」


 ミオさんは、私の言葉に縋るように、私の首に細い腕を回して抱きついてきた。


 トクン、トクン、と。


 私の胸に伝わってくる、ミオさんの心臓の鼓動。


 それは、今にも消えてしまいそうに儚く、けれど必死に明日を求めて脈打っていた。


 ―――これなんだ。


 私はミオさんの頭を優しく撫でながら、確信した。


 蓮さんが、自分の魂を削ってまで。


「人殺し」という消えない業を背負ってまで。


 そして、余命四日間という残酷な運命を突きつけられてなお、彼が守ろうとしているのは、この小さな、尊い鼓動なのだ。


 私は、自分が刈り取ってきた数多の魂を思い出した。


 彼らにも、こうして守りたかった誰かがいた。


 お父様は「人間は利己的で醜い生き物だ」と言ったけれど、この温もりまで「醜い」と断じることは、私にはもうできない。


 ミオさんを安心させるように、私が静かな歌を口ずさみ始めてから、ちょうど一時間が経過した。

 

 その時。


 私の背筋に、氷のような鋭い戦慄が走った。


 肉体を通して、伝わってくる。


 外から近づく、圧倒的な「殺意」の奔流。


 赤黒く濁り、獲物を食い散らかそうとする、獣のような魂の波動が、ホールの外壁を包囲するように広がっていく。


「……来ました」


 私が呟くと同時に、ホールの正面玄関が、外側から激しい衝撃を受けた。


 ドォォン! と重厚な音が響き渡り、避難民たちが悲鳴を上げて立ち上がる。


 混乱が頂点に達しようとしたその瞬間、私のすぐ隣に、影のように一人の男が降り立った。


「……蓮さん!」


 煤汚れ、僅かに血の匂いを纏った蓮さんが、私の前に立っていた。


 彼は荒い息を整えながら、私の瞳を真っ直ぐに見つめる。


「来るぞ。奴ら、予定より早めに仕掛けてきやがった」


 蓮さんは腰のホルスターから、予備の拳銃を引き抜くと、そのグリップを私の手に押し付けた。


「……蓮さん、これは?」


「最悪の事態になったら、これを使え。お前はもう死神じゃない。自分の身は、自分で守るんだ」


 冷たい金属の重みが、私の掌に沈む。蓮さんは一度だけ私の手を強く握り締め、それからホールの入り口、そして避難民たちに視線を向けた。


「月詠。……みんなを、頼む」


 その言葉は、命令ではなく、一人の戦友への信頼だった。


「はい。……お任せください」


 蓮さんはそれ以上何も言わず、再び闇の中に消えていった。


 自分の持ち場――敵を迎え撃つための、死線へと。


 私は震える手で銃を握り直し、背後にいるミオさんを、そして怯える人々を庇うように一歩前へ出た。


 正面玄関の扉が、再び激しい音を立てて軋む。


 地獄の猟犬どもが、ついにその牙を剥こうとしていた。


 残り、三日と半日。


 私は、私にできる戦いを始めようと決意した。


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