16話 揺れる天秤
再び、俺の意識は光に満ちた庭へと誘われる。
だが、今度は情景が目まぐるしく移り変わっていった。
流れる時間の中で、少女が数多の人間の魂を刈り取っていく様が、走馬灯のように映し出される。
父の言う通り、醜くおぞましい魂も数多くあった。金と権力に溺れ、他者を踏みつけにすることしか考えない魂。嫉妬と憎悪に狂い、他人の不幸を願うだけの魂。
それらを刈り取る時、少女の心は何も感じなかった。それはただの「作業」だった。
だが、温かい光を放つ魂に触れるたび、彼女の心は激しく揺さぶられた。
父の教えでは説明のつかない、不可解でそしてあまりにも美しい感情の奔流。
彼女は、魂を刈り取るたびに、まるで人間の短くも輝かしい一生を追体験しているかのようだった。
いつしか少女は、人間が持つ三つの輝きに、心を奪われていた。
一つは、「誰かを想う恋心」。
自分の全てを捧げても、ただ一人の相手と共にありたいと願う、切なくも美しい感情。ある魂は、愛する人に贈るはずだった指輪を握りしめ、プロポーズの言葉を伝えられなかったことだけを悔いていた。
「来世でも、必ず君を見つけ出すから」。そのひたむきな想いに触れるたび、少女は胸の奥が温かくなるのを感じた。永遠の時を孤独に生きる彼女にとって、誰かを想い、想われるという関係は、遠い星の光のように眩しかった。
一つは、「何かを守ろうとする決意」。
家族や仲間、あるいは己の信念のために、自らの命すら顧みない鋼のような意志。ある魂は、燃え盛る家の中から子供を救い出し、自らは力尽きた。
しかし、その魂は恐怖ではなく、小さな命を守れたという誇りと安堵の光で眩いほどに輝いていた。
「これでよかったんだ」と、満足げに微笑む魂の記憶。少女は、自分の命を賭してまで守るべきものが何もない自分自身と、その魂を比較せずにはいられなかった。
そしてもう一つは、「ありふれた日常にある幸福」。
特別なことでなくとも、友と笑い、食卓を囲む。そんな温かくささやかな喜びの記憶。ある魂が最期に思い描いたのは、夕暮れの食卓で、家族の「おかえり」という声を聞く、ただそれだけの光景だった。
その何気ない一瞬が、その人間にとって、何物にも代えがたい宝物だったのだ。少女は、そんな温かな光景を知らなかった。彼女の世界には、ただ使命と静寂があるだけだったから。
魂を刈るだけの、永遠に続く灰色の日々。
そんな自分の世界には存在しない、色とりどりの輝きに、少女は密かな憧れと、羨望を抱くようになっていた。
「この輝きを、私が摘み取ってしまって、本当に良いのだろうか?」
彼女の中で、父から与えられた「使命」と、自らが魂から学んだ「感情」が、天秤のように激しく揺れ動き始めていた。
場面は再び、ハデスのいる冥府の庭へと戻る。
すっかり成長し、憂いを帯びた表情を浮かべるようになった少女が、父の前に立っていた。
「月詠よ、顔色が優れぬな。まだ人間の魂に惑わされているのか」
ハデスの声は、以前よりも冷たく響いた。
彼は、少女の心の揺らぎに気づきながらも、非情に次の任務を告げる。一つの魂が映し出された水鏡を、彼は無感情に指し示した。
「次の天命だ。この男の魂を刈り取ってこい。彼の魂は、深い悲しみの果てに、運命の理を大きく歪ませようとしている」
水鏡に映し出された光景に、俺は息をのんだ。
それは、ガードレールのひしゃげた、夜の山道。崖下に転落し、激しく炎上する一台の乗用車。その惨状を、雨に打たれながら見下ろす、一人の男の姿があった。
彼の顔は絶望に染まり、その口は声にならない叫びを形作っている。
―――安全性を無視した工事が引き起こした、崖崩れによる事故。だが、その実態は、計画の不正の証拠を掴んだ男を、家族もろとも消し去ろうとした、冷酷な口封じ。金の力で、真実は闇に葬られた。
水鏡に映るのは、その全てを知りながら、愛する妻と娘が炎に焼かれていくのを、ただ見ていることしかできなかった男の、地獄そのものだった。
少女は――月詠は、見ていた。
その男の魂から放たれる、あまりにも深く、あまりにも純粋な光を。
失われた家族への「愛」と、その全てを奪った世界への「絶望」が、矛盾したまま混じり合った、彼女が今まで見たこともない、禍々しくも美しい輝きだった。
彼女は、その魂に、任務を受ける前から心を奪われていた。
ゴクリ、と息を飲む音が静かな庭に響く。
少女は、自らの運命を変えることになるその任務へと、静かに赴いた。
その光景を最後に、俺の意識は、激しい衝撃と共に、現実へと引き戻された




