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15話 死神の夢

鎌が振り下ろされた瞬間、俺の意識は肉体の(くびき)から解き放たれ、冷たく静かな暗闇へと沈んでいった。


 痛みも、焦りも、憎しみも、すべてが遠ざかっていく。


 これが『死』か。

 

 そう思ったのも束の間、俺の意識は不意に温かく懐かしい光に包まれた。


 目の前には、見たこともない花々が咲き乱れる、静謐な庭が広がっていた。淡い光を放つ苔、水晶のように澄んだ小川。

 

 ここはどこだ。


 俺はまるで透明な傍観者として、その非現実的な光景をただ眺めていた。


 これは夢だ。


 だが、俺自身の記憶ではない。


 流れ込んできた、誰かの大切な記憶なのだと、直感的に理解した。


 やがて、庭の奥から二つの人影が現れる。


 一人は、まだ幼い頃の月詠らしき少女。


 そしてもう一人は、夜の闇をそのまま切り取ったかのような、荘厳なローブを纏った男。


「お父様」


 少女は、男の前で深く頭を下げた。


 その声には、畏敬と、ほんの少しの親愛が滲んでいる。


「月詠よ。お前ももう、独り立ちの時だ」


 父と呼ばれる男――冥府の王ハデスの声は、厳格だが、どこか娘を想うような静けさを湛えていた。


 彼は、死神の「使命」について、娘に語り聞かせる。


「我らが定めた運命の理から、大きく逸脱しようとする人間の魂がある。それを元の流れに戻すこと。それが死神の務めだ」


「はい、お父様」


「良いか、月詠。奴らは所詮、弟のゼウスが気まぐれに作り出した、不完全な泥人形だ。自分勝手で、利己的で、すぐ道を踏み外す、醜い生き物なのだ」


「……ですが、書物で読んだ人間の中には、英雄と呼ばれる者や、美しい詩を紡ぐ者もおりました」


 少女が、おずおずと口を挟む。


 ハデスは、鼻で笑った。

「それもまた、奴らの利己的な一面に過ぎん。英雄は、己の名誉のために。詩人は、己の感情を満たすために。その根底にあるのは、常に己自身への愛だ。決して、我ら神々が持つような、秩序のための愛ではない」


 ハデスの瞳が、少女の心の奥を見透かすように細められる。


「お前が引き起こすであろう事象を知る必要はない。ただ、我が命に従い、定められた魂を刈り取れ。それが、お前に課せられた絶対の理だ」


「はい……」


「書物を通じて、人間の世界に興味を抱いているようだな。だが、過剰な興味は持つな。それは、お前の刃を鈍らせる毒となるぞ。我らは裁定者であり、観察者。決して、情に流されてはならん」


 少女は俯いたまま小さく頷いた。


 その表情は、父への畏怖と未知の世界への好奇心が複雑に混じり合っている。


 ふいに、庭の風景が歪み、別の場所へと切り替わる。


 夜の街。


 冷たい雨が降りしきる路地裏。成長した少女が、一体の人間の魂の前に立っていた。


 これが、彼女の初めての任務なのだろう。


 その表情は緊張に強張り、鎌を握る手が微かに震えている。


 父の教えを胸に――「人間は醜い生き物だ」と――彼女は意を決して鎌を振り下ろした。


 その瞬間、奔流のようなイメージが、俺の意識の中にも流れ込んできた。


 それは、刈り取られた魂の、最期の記憶。


 ―――生まれたばかりの、赤ん坊の泣き声。温かい腕の中で小さな手を握る、若い父親の姿。

 

 ―――『この子の未来を、ただ一目……』


 魂の記憶は、ただそれだけだった。


 我が子が無事に生まれてくる未来を、ただ一目見たかったと願う父親の切ない想い。


 少女は、呆然と立ち尽くしていた。


 父が言っていた「醜い生き物」の魂から放たれた、あまりにも温かく、あまりにも純粋な願い。


 その輝きに、彼女は胸を締め付けられるような衝撃を受けていた。


「これが……人間の……」


 彼女の呟きは、誰に聞かれることもなく、冷たい雨音にかき消されていく。


 父の教えと、自らが体験した現実。


 そのあまりにも大きな隔たりに、少女はただ戸惑うしかなかった。


 その光景が、ゆっくりと霧の中に消えていく。


 まるで、長いおとぎ話の第一章が終わったかのように。


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