10. 闘技場へ
すん、と寝床が緩む感覚に、ボクの意識は浮上した。目を開くと、黄ばんだ白い小さな空間に閉じ込められている。
もう慣れたもので、両腕を上げ軽く伸びをすると、手探りで柔らかな壁をまさぐった。
「よいしょっと」
壁にある亀裂を、まるでカーテンのように両脇へ開き、隙間から外へ出る。ひょいと飛び降りて振り返ると、巨大な球根のようなものが、天井から吊り下がっていた。
「あら、おはよう」
同じような球根が、いくつも天井からぶら下がっている。すぐ近くの球根からちょうど、リリィの声が聞こえてきた。桃色の長い髪は、いつもよりウェーブが強く波打っている。
「よく眠れた?」
「……まったく、狭くてろくに身支度もできないわぁ」
病み上がりの彼女が心配だったが、良かった。眠そうにしながらも、憎まれ口を叩いている。
ぶら下がる球根たちは、簡易宿泊所だ。くるりと身体を包み込む寝心地に、最初はまるで捕食されてるような気分で落ち着かなかった。
「慣れるとハンモックみたいで、意外と眠れましたよ」
「はあ?」
ボクの宿泊レポが気に入らなかったのか、冷たい視線が返された。
「はぁ……そんなことより、さっさとここを出るわよ」
スタスタと球根の群れを避けて建物を出るリリィを、ボクは慌てて追いかけた。
「待ってリリィさん、どこへ?」
するとリリィはくるりとこちらを振り返る。危うく衝突するところだった。
「逆に聞くけど、あんたこれからどうするつもり?」
厳しい表情で問われ、ボクは思わず怯んでしまう。
「どうって……」
とりあえず鬼族のミサに言われたとおり、挑戦者としての等級を上げる。だからまずは、ボクの今の等級に合った闘技場へ――
「はぁぁ……」
ボクの回答に、リリィは盛大なため息をついた。そしてボクに人差し指を突きつけた。
「いい? あんた」
きっと桃色の瞳が細められる。
「行き先も分からない、敷かれたレールに乗るのはやめなさい」
彼女は切実な表情で、早口に囁いた。
「私は治療してもらった。そのことに感謝はしてる。だけどそれとこれとは別。私たち、魔王討伐に来たのよ? 魔族の敵なのよ?」
外はまだ日が昇らない、薄暗い早朝だ。幸い人通りはないものの、それでもリリィはできるだけ声を抑えていた。
「その魔族に言われたまんまに、従っててどうすんのよ?」
「それは――」
リリィの言う通りである。
もちろんボクだって、そんなことは考えた。
だけどリリィを助けてくれて、人族と大して変わらない会話を交わし、入国手続きもしてくれて。
そこでいきなり、魔王に急襲をかける? とてもボクにはできそうにない。そもそも、想像よりもずっと広そうな魔族の国だ。魔王を見つけることすらままならないだろう。
「ああ、もう。まったく。これだからお坊ちゃんは」
何度目になるか分からないため息をつき、リリィはボクの耳に顔を近づけた。
「逃げるのよ」
「逃げ――!?」
思わず大きな声が出て、すぐに口を塞がれた。綺麗な眉を吊り上げて、リリィはボクと互いの鼻が触れ合わんばかりの距離で囁いた。
「逃げるなら今しかないわ。いい? 魔王は見つからなかった。負傷し、敵の規模も想定外。戦略的撤退、とでも言えば国のジジイ共も――」
「おや。お早いですね。何かお探しですか?」
ビクリとリリィの肩が跳ねた。
大きく揺れた桃色の髪の向こうに、特徴的な赤と青のオッドアイ。鬼族のミサが立っていた。
「……おはようございます。ミサさん」
「おはようございます。ドライアスさんに、オレイネンさん」
どうしたのだというのだろう。リリィはすかさずボクの背後に隠れると、ミサと目を合わそうとしない。
「おや、また隠れられてしまいましたね」
「……あの、リリィと何かありました?」
尋常でないリリィの反応に、ボクは思わずそう尋ねると、ミサはぱちりと目を見開いた。
(やっぱり人族のボクらを嵌めようと――それでリリィさんが何か気づいて彼に……?)
リリィを庇おうと、一歩前に出たボクに対し、ミサは想定外の反応を見せた。彼は真ん丸に見開いた目を徐々に細め、くつくつと笑い始めたのだ。
「クク……私と、彼女に?」
小刻みに肩を揺らしながら、喉の奥を震わせるミサの笑い方は、昨日見せた笑いとはまた別物だった。
(なんというか……本当に、楽しそう?)
しばらく肩を揺らしたミサは、ようやく落ち着いたのだろう。
「何かあったかと言えば、ありましたね」
青い瞳に浮かんだ涙を軽く拭いながら、ボクの背後に視線を向けた。
「心配なさらずとも、僕は彼女と仲良くなりたいだけですよ」
「ですよね」と投げられた言葉に、リリィはなぜか顔を赤くして、頑なにそちらを見ようとはしなかった。
「さて、」
赤髪の鬼はすっかり元の調子で、仕切り直しとばかりに手を打った。
「まずはどちらに向かわれますか? 僕が案内いたしますよ」
「え? 案内って……ミサさんは入国審査のお仕事があるのでは?」
予想外の提案に、ミサはゆるゆると首を横に振った。
「入管はあくまで手伝いです。僕の本来の仕事は、異邦人のサポートなんですよ」
「おお……トンネルばっかりだ」
ミサの案内で、ボクは魔界の町を歩いていた。
入管からはしばらく乗り物(足がたくさんついた平たい虫みたいな怪物だ!)に乗って、乾いた橙色の大地を横切った。
辿り着いたのはクリーム色の建物がいくつか集まっただけの小さな町。
――――と思ってました。
本丸は地下だった!
「今は数少ない晴天ですが、元より、生きづらい環境ですので」
前を歩くミサの声が、周囲の壁で反響している。
うねうねと続く地下トンネルは、幅も広いし天井も高い。今も地響きのような足音を立て、岩の塊みたいな巨人がボクらのすぐそばを過ぎていった。
「ひぃ……化け物だらけじゃない」
ぎゅっとボクの上着の裾を握ったリリィは、くっつくようにボクの背後に身を寄せた。
光源は天井に開いた小さな窓。それとところどころに松明が設けられているものの、トンネル内は全体的に見通しが悪かった。
薄暗い中を、様々な異形が行き交っている。
ズリズリと通り過ぎたのは、下半身を切り取ったような不気味な形態の獣。腕だけの力で歩みながら、自身に繋いだ荷車を引きずっていく。
壁際には簡素な露天のようなものもいくつか並ぶ。
布の天幕越しに見えた店主は、肌がすべてめくれ上がったような人型だった。尾が蛇になった猿の集団が騒いでいる。ちょうど店で買い物を終えたようで、カゴの中は白い骨のようなものでいっぱいだった。
「大丈夫ですよ。町中での無闇な殺生は、禁止されていますから」
先を行くミサが振り返り、柔らかく微笑んだ。
だけどそう簡単に気を緩めるわけにはいかない。ボクはいつでも剣を抜けるよう気を張って、背後のリリィに声をかけた。
「リリィさん。何があっても、ボクが守りますからね」
もう二度と繰り返さないと反省の気持ちを込めて、ボクはリリィに誓いを立てた。
「ふふ。素敵な意気込みですね。だけど本当に、大丈夫ですから――」
ふと、喧騒が強まって、ボクらの視線は自然と通路の先へ引き寄せられた。
「第3部大乱闘、間もなく締め切りだよーん♪」
トンネル通路が大きく拡張された空間に、ドーム状の大きな建物が建っていた。その前にうぞうぞと魔族が集まって、声を上げる小さな人影から順に何かを受け取っている。
「おや、ちょうど始まりそうですね」
ミサは足を早めながらボクたちを手招きした。
「あれが下級向けの闘技場。10等級のドライアスさんたちには、まず大乱闘に参加していただきます」




