8. 「あの日」
あの日、最後に話したのはなんだったか。
はっきりと思い出せない。
なぜか唐突に、僕の髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜた親友の手の感触。それだけが今も鮮明に、記憶に残ってる。
「駄目だ、一旦引くぞ!」
「無理よ! チャキが離脱できない!」
炎、氷、雷のブレスが、周囲に破滅の嵐を巻き起こす。
九頭大蛇――四天王はその名の通り、九つの頭を持つ龍だった。
僕たち勇者パーティーは、強敵相手に健闘していた。九つの頭のうち、すでに六つは戦闘不能。しかしこちらも満身創痍である。残り三つ首を前に、勝敗の目は五分五分だった。
チャキの負傷が痛い。特に足の深手のせいで、その場を動けそうにない。それでも両腕で盾を操り、無事な片足で九頭大蛇を相手にできるのは、彼の強靭な肉体がなせる技である。
ブレスの射程ぎりぎり圏外から、聖女が治癒の光を送る。守りの結界を同時展開しながらの回復魔法だ。どうしても時間がかかる。
舞うように、勇者が襲い来る三つ首たちと渡り合う。聖剣を振るい、氷炎の魔法を多重行使。きらきらと舞い散る雪の結晶は、触れれば凍る絶対零度の範囲魔法だ。
「しっかり合わせなさい!」
地面を縫うようにして、ディディが地上を駆け回る。騾馬のピニーが戦闘不能だ。機動力を欠いたディディは、それでも休まず動き回る。絶えず九頭大蛇の猛攻を一身に引き受ける勇者へ、横槍を入れようとするほかの魔獣を通さない。
「《薄明の蜃気楼》」
「《猫好き写真家の奇跡の一枚》」
僕にできる精一杯。戦う仲間に、ささやかな支援を送り続けているものの、
――あと一手。一手が足りない。
改めて戦場を見回した。
チャキの回復さえ間に合えば、アダムが合わせて押し切れる。
聖女が懸命に回復するが、歯がゆいほどに遅く感じる。魔物除けの結界を維持しながら、回復魔法を使う聖女。彼女の整った顔に、珍しく玉のような汗が浮かんでいた。
(僕しかない)
聖女のすぐ背後。もっとも結界の守りが強いこの位置で、僕は覚悟を決めて、愛用の魔法陣冊子を手放した。胸の隠しから、皮の巻物を引っ張り出す。くるくると開き、滑らかな皮の上に手を滑らした。
今から使うのは、より一般的な「魔法陣」。魔法陣とは本来、その場で希少なインクで描き、複数人が魔力を注ぐことで発動する儀式魔法。発動に数日かかることさえあり、確かな威力があるものの、実戦で用いられることはない。
(だけどこれは"特別製"だ)
旅の途中で集めた希少素材を全て注ぎ込み、羊皮紙に予め陣の下書きは済んでいる。あとは『描画』で残りを埋めて、魔力を込めて発動するだけ。言葉で言えば簡単だ――
戦場のど真ん中。僕は聖女の背後であぐらをかいて、地面に広げた羊皮紙へと向かった。
集中だ。
今は大蛇の咆哮も、剣戟も仲間の声も聞こえない。
ひたすらに無心で、魔法陣を描いていく。
「くそ……魔力が足りない!」
魔力増強剤をがぶ飲みし、さらに足りない分は指先を切って血液で直に補っていく。羊皮紙の上で淡く光る方陣に、真っ赤な線が足されていく。
――『携帯用の魔法陣? 無理に決まってるじゃろ』
かつて駆け出し冒険者の僕が、弱いあまりにどのパーティーにも入れてもらえなかった頃。偶然にも、僕は儀式魔法陣の祭司のお爺さんに拾ってもらった。
何時間もかけて、根気よく。巨大な儀式魔法陣を描く作業。僕の『描画』スキルと根気の良さを、お爺さんは褒めてくれた。
――『せっかくここで役に立ててるんだ。戦いなんて、できる者に任せなさい』
お爺さん。ごめんなさい。
親身になって後継に、と僕を教え込んでくれた師に、それでも僕は譲れなかった。
ある程度学び終えた僕は、師に別れを告げ、独学で研究した。
(あと、少し――!)
羊皮紙いっぱいに描かれた方陣が、強い光を放ち始める。あと少し、あと少しで、この状況を覆す一手を――
「キャーーーーーッ」
響いたのは聖女の悲鳴。
突如僕と聖女の背後から、目のない蛇が襲ってきた。
咄嗟に聖女が翳した掌の前で、のっぺりとした蛇の怪物の歯(――蛇なのに歯が生えてやがる!)が噛み合わされる。
ガチン、ガチンと打ち鳴らされるたびに、結界にヒビが入り、白い火花が飛び散った。
(ヤバい!)
元から張られていた僕らの周囲の結界が、崩れかけていた。光の粒子が舞い上がる中、守りが薄くなった箇所を狙ってもう一匹の怪物が――
(いま……動くわけにはいかない!)
燦々と輝く魔法陣は、発動まであと数秒。ここで魔力を切らせば、もう二度と発動できない。
すぐ近くで砕ける結界の音を聞きながら、僕は九頭大蛇――そしてその側で戦っているはずの勇者を見た。
「――っ!? バカアダム! 前を向け!」
三つ首と斬り結ぶ親友が、こちらを振り返った。
聖剣をもつ両手の片方が離されて、こちらに向かって伸びてくる。放たれたのは、守護の魔法。
「氷守」
刹那、すべてのことが同時に起こった。
――怪物から守るように、氷のドームが僕を包んだ。
――剣を握る力が弱ったところを、九頭大蛇の残った首のひとつが押し切り、反対側から別の首が勇者の肩に噛み付いた。
――辛うじて身をひねり深手を避けた勇者の元へ、三つ目の首が差し迫り、庇おうと聖女が飛び出した。
――チャキが勇者の前に体をねじ込もうと体を伸ばし、ディディが声高に何かを叫んでいる。
すべてが間に合わないと思われたその時、緑の閃光が炸裂。勇者を背後に庇う聖女の直前で、九頭大蛇の最後の首が停止した。
儀式魔法陣《其の者、御前にて動くこと能わず》
「はぁぁあああっ」
気合一閃。
聖剣のひとふりが、九頭大蛇を葬った。
どさりと落ちる三つの龍頭。
ふぁさりと着地を決めた勇者は、剣を振り、血飛沫をきる。
「アダムっ――!」
心配と安堵で駆け出した僕の足が止まる。
――親友の目は、虚ろだった。




