第0部 第3話「市場と酒場、経済を回す一家」
第0部 第3話「市場と酒場、経済を回す一家」
朝の市場は、今日も威勢のいい声で溢れていた。石畳の両脇に並ぶ露店からは、焼きたてのパンの匂いや、新鮮な野菜の青臭さが漂ってくる。荷馬車の車輪が石を踏む音、商人たちの威勢のいい呼び込み、鶏の鳴き声。ハジマーリの朝は、いつもこうして賑やかに始まる。城壁の外から吹き込む風は、まだ夏の名残を含んで暖かかった。
「ヒャッハー!姐さん!魔猪の肉があるぜぇ!!!」
肉屋の店先で声を張り上げるヒャッハーに応えたのは、腰に手を当てて品定めをしていたツマモだった。籠を抱えた市場の主婦たちが、遠巻きにその様子を眺めている。
「それじゃ一頭丸ごと貰おうかな。皆良く食べるからね」
周りにいた客たちが目を丸くする中、ツマモは涼しい顔で財布から金貨を取り出す。ワルーイ一家は五十人を超える大所帯。日々の食事の量も並大抵ではない。それを一手に賄うのが、この肝っ玉母ちゃんの役目だった。
「ヒャッハー!親父さん!この辺マルっと包んでくんな!!!」
肉屋の親父は嬉しそうに肉を切り分けながら、笑みをこぼした。慣れた手つきで骨から肉を削ぎ落とし、大きな包みをいくつも作っていく。
「ありがとよ!それじゃ魔鶏の卵をオマケしちゃう!」
「ヒャッハー!ありがてぇ!!お礼に護衛は俺たちに任せてくれぇ!!!」
肉屋の親父は毎晩の売上金を持って帰る道すがら、追いはぎに遭うことをずっと恐れていた。何年か前には実際に金を奪われたこともある。だがワルーイ一家が買い付けに来るようになってから、その日の帰り道だけは安心して歩けるようになっている。持ちつ持たれつ、というやつだった。
「そういや姐さん、隣町から流れてきた奴らが、うちの店に因縁つけようとしたって話、聞いたかい?」
肉屋の親父が声を潜めて言った。ツマモは片眉を上げた。
「おや、それはうちの若い衆が世話になったみたいだね」
「あぁ、あんたんとこの若いのが颯爽と追い払ってくれてよ。おかげで大した被害もなく済んだんだ」
「そりゃよかった。また何かあったらすぐ言っておくれよ」
ツマモは大量の荷物を抱えたヒャッハーたちを引き連れ、次の店へと向かっていく。八百屋、パン屋、香辛料の店――どこでも同じように、店主たちはツマモの姿を見ると笑顔で迎え入れた。市場の人々にとって、この「姐さん」の買い物風景は、もはや朝の見慣れた光景の一つになっていた。
八百屋の店先では、老いた店主がツマモに深々と頭を下げていた。
「姐さん、いつもうちの野菜を買ってくれてありがとうよ」
「なぁに、美味いから買ってるだけさ。それに、あんたのとこの野菜は子供らの好みなんだよ」
「そりゃ嬉しいこと言ってくれるねぇ」
老店主は目を細めながら、山盛りの野菜を包んでいく。ツマモはそれを構成員たちに手渡しながら、次の店へと足を進めた。
パン屋の前では、焼きたてのパンの香ばしい匂いに誘われて、既に列ができていた。
「姐さん、今日も大量注文かい?」
「あぁ、いつもの通り頼むよ。子供らの分も忘れないでおくれ」
「合点承知の助だ!」
パン屋の主人は威勢よく答えると、奥の窯へと戻っていった。市場を一巡りする頃には、構成員たちの腕は荷物でいっぱいになっていた。それでも誰一人として不満を漏らす者はいない。この賑やかな買い出しもまた、一家の日常の一部だった。
*
夜、酒場「金の麦亭」。昼間の喧騒が嘘のように、店内は暖かな灯りに包まれ、仕事を終えた男たちの笑い声で満ちていた。
「ヒャッハー!飲みすぎちまったぜぇ!!」
カウンターに突っ伏すように座ったヒャッハーの背を、店の主人が心配そうに叩いた。
「大丈夫かい?お前さん達なら酒代はツケで良いよ?」
その申し出に、ヒャッハーは勢いよく顔を上げた。
「ヒャッハー!!そいつはいけねぇ!お代はキッチリ払うぜぇ!!頭領の教えだ」
千鳥足になりながらも、懐から銀貨を取り出してカウンターに置く。店主は驚いた顔をしながらも、どこか嬉しそうに笑った。
「相変わらず律儀だねぇ、お前さん達は」
「ヒャッハー!!筋を通さねぇと頭領に怒られちまうぜぇ!!」
隣の席に座っていた常連客が、興味深そうに口を挟んだ。
「なぁ、お前さんたち、そんなに頭領が怖いのかい」
「怖い……って言うより、な。あの人の前で情けねぇ真似はしたくねぇんだよ」
「ほう、そりゃまた律儀な話だ」
「ヒャッハー!!!頭領はよ、俺たちを拾って、飯食わせて、居場所をくれた人なんだぜ!!!その恩を仇で返すような真似、できるわけねぇだろうがぁ!!!」
ヒャッハーはそう叫ぶと、また上機嫌に酒を呷った。常連客はその様子を見て、どこか感心したように頷いた。
「拾ってくれた、ねぇ。お前さん、前は何してたんだい」
「ヒャッハー……それはまぁ、色々あってな。今の俺は、あの人に拾われる前の俺とは別人みてぇなもんだぜ」
珍しくヒャッハーが声のトーンを落とした。カウンターの向こうで、店主も何も言わずに耳を傾けている。
「昔の俺は、それこそ本物のろくでなしだったんだよ。行くとこもねぇ、食うもんもねぇ、そんな時に頭領が声かけてくれたんだ」
「へぇ、そんなことがあったのかい」
「ヒャッハー!!!だから俺たちは、あの人の教えを守るんだぜぇ!!!筋を通す、それだけがよ、俺たちの誇りなんだ!!!」
声のトーンは元に戻り、また豪快な笑い声が店内に響いた。常連客はその豹変ぶりに苦笑しながらも、どこか温かい気持ちでヒャッハーの背中を見つめていた。
この街の酒場や商店の間では、ワルーイ一家がツケを許されるほど信用されていながら、決してそれに甘えない、という評判がひそかに広まっていた。信用があるからこそ甘えられるはずなのに、その信用に応え続けようとする。それがこの一家の律儀さだった。
*
翌朝、冒険者ギルドの扉が勢いよく開いた。
「ヒャッハー!邪魔するぜぇ!!」
ギルド内にいた冒険者たちが一斉に身を強張らせる。掲示板の前にいた若い冒険者などは、思わず持っていた書類を落としそうになった。
「ヒイィィ……ワルーイ一家だ……」
当のヒャッハーは周囲の反応など気にも留めず、受付カウンターへとまっすぐ向かっていった。
「ヒャッハー!塩漬けの依頼はどこだァ!受付さん!」
受付嬢は慣れた様子で書類を取り出す。もう何年もこうしてワルーイ一家とやり取りしてきた彼女にとって、この光景はいつものことだった。
「いつもありがとうございます。こちらをお願い出来ますか?」
「ヒャッハー!イナーカで魔鹿が畑を荒らし回ってるだァ!?」
「はい、イナーカまで徒歩三日、往復だけでほぼ赤字で誰もやりたがらなくて……。もう半年近く、掲示板に貼りっぱなしなんです」
受付嬢の言葉に、ヒャッハーは胸を張って大きく頷いた。
「ヒャッハー!!俺たちにお任せだぜぇ!!!こういう依頼こそ、俺たちの出番だぜ!!!」
「助かります。報酬は銀貨三枚です」
その額を聞いた瞬間、ヒャッハーはますます上機嫌になった。周りで様子を窺っていた冒険者たちが、呆れたような、それでいてどこか困惑したような顔でその様子を見つめている。
「ヒャッハー!見事な赤字だぜぇ!!こういう依頼をこなしてこそワルーイ一家の矜持が保たれるってもんだぜぇ!!受付さん、行ってきます」
「お気をつけて」
意気揚々と出て行くヒャッハーの背中を見送りながら、その辺の冒険者が小さく呟いた。
「……悪い……?」
誰も彼の言葉には答えなかった。ただギルド内には、いつものように、ワルーイ一家に対する困惑と、拭いきれない違和感だけが残っていた。
「あいつら、いつもああなのか」
「あぁ、誰もやりたがらねぇ依頼ばっか率先して受けるんだよ。金にならねぇのに」
「なんでだろうな」
「さぁな……。だが、あいつらが受けた依頼は、必ずやり遂げるって話だぜ」
「そういや、以前、竜が出たって騒ぎになった依頼も、結局あいつらが片付けたんだったか」
「あぁ、報酬はほとんど無かったって噂だが……律儀っつうか、酔狂っつうか」
その場に居合わせた冒険者たちは、しばらく顔を見合わせるだけで、答えを見つけられずにいた。ギルドの隅では、若い新人冒険者が先輩にこっそりと尋ねていた。
「あの、ワルーイ一家って、本当に悪い人たちなんですか?」
「さぁな……俺にも分からねぇよ。ただ、悪い噂ばっかり聞くわりに、こうして目の前で見る姿は、なんつーか、ちぐはぐなんだよな」
先輩冒険者はそう言って、肩をすくめた。若い新人は釈然としない顔のまま、掲示板へと視線を戻した。
「俺が駆け出しの頃、依頼で失敗して大怪我したことがあってな。誰も助けてくれなかった時に、通りすがりのワルーイ一家の連中が担いで治療院まで運んでくれたんだ」
「え、そうなんですか」
「あぁ。金なんて一切取らなかったし、名乗りもしなかった。ただ『しっかり治せよ』って言い残して去っていったよ」
先輩冒険者はそう言うと、遠い目をして掲示板を見つめた。若い新人は、その言葉を胸に刻むように、しばらく黙り込んでいた。
*
その日の夕方、ワルーイ一家の事務所では、インテリ・ワルーイが帳簿を眺めながら小さく息を吐いていた。窓の外はすでに橙色に染まり始めている。
肉の仕入れ、酒場での支払い、イナーカへの赤字依頼――今日一日だけでも、一家の懐からは相当な金が出ていっている。それでもインテリの表情に曇りはない。
(今月も、赤字と黒字がちょうどいい塩梅ですね)
金貸しの利息を取らず、依頼の採算も度外視し、それでも一家の財政が破綻しないのは、街の人々との間に築き上げてきた信頼という、目には見えない資産があるからだ。
部屋の扉が開き、ツマモが顔を覗かせた。
「おや、インテリ。まだ帳簿とにらめっこかい」
「ええ、ツマモ殿。今日も肉を随分と仕入れましたね」
「皆よく食べるからねぇ。それより、赤字は大丈夫かい?」
「ご心配なく。この赤字も、いずれ形を変えて返ってきますから」
ツマモは首を傾げた。
「どういう意味だい」
「街の人々の信頼、というものです。目には見えませんが、確かにこの一家を支えている財産ですよ」
インテリはそう言うと、ペンを置き、窓の外に目をやった。市場の喧騒も、酒場の賑わいも、冒険者ギルドの困惑も、すべてはこの街という一つの生き物の中で、静かに巡り続けている。
「私たちが誰かを助ければ、その誰かがまた別の誰かを助ける。そうやって、この街は少しずつ回っているのだと思いますよ」
「あんたは相変わらず、難しいことを言うねぇ」
「なぁ、インテリ。あんた、この一家に来る前は、随分と苦労したんだろう」
「ええ、まぁ。今となっては昔話ですが」
「あの子――ユーシャも、いずれこの一家を離れる日が来るかもしれないねぇ」
インテリはペンを止め、しばし黙り込んだ。
「……そうですね。あの子の器は、この一家に収まりきるものではないと、私も感じています」
「頭領は何か言ってたかい」
「いいえ、頭領は多くを語りません。ですが、その目を見れば分かります。あの方は、誰よりもユーシャ殿の未来を案じておられますよ」
ツマモは小さくため息をつくと、椅子から立ち上がった。
「まぁ、今はまだ考えても仕方のないことか。さて、あたしはそろそろ夕飯の支度をしなくちゃね」
「お手伝いが必要でしたら、いつでもお申し付けください」
「あんたは帳簿と格闘してな」
ツマモは軽く笑うと、部屋を出ていった。一人残されたインテリは、再びペンを取り、帳簿に向き直る。窓の外、夕日はすっかり沈み、街には夜の帳が下りようとしていた。市場の喧騒も、酒場の賑わいも、冒険者ギルドの困惑も、今日という一日の終わりと共に静かに眠りにつく。
だがこの街のどこかでは、今この瞬間も、風を纏った誰かが夜空を駆けている。誰にも気付かれぬまま、遠く離れた場所へと情報を運び、そしてまた戻ってくる。この街を陰で支える営みは、太陽が沈んでも決して止まることはなかった。
窓辺に置かれたランプの灯りが、インテリの横顔をぼんやりと照らしている。その静かな時間の中で、彼はふと筆を止め、独りごちた。
「今日という一日も、無事に終わりましたね」
誰に聞かせるでもない、その一言だけが、静まり返った事務所に小さく響いた。窓の外には、いつの間にか満天の星が広がっていた。今日もまた、この街の一日は静かに幕を閉じようとしていた。そしてまた、明日という新しい一日が、この街に訪れることだろう。
ワルーイ一家は、その血脈の一部として、今日もこの街を回していた。
(了)




