第四幕 継承
新しい優子の両手が、ゆっくりと殻の頭頂部から引き抜かれた。
濡れた音がした。
直人は見ていた。見続けていた。目を逸らすべきだとわかっていた。しかし瞼が動かなかった。
背中を向けたまま、しばらく動かなかった。細い肩が、静かに呼吸していた。浴室の換気扇が回っている。排水口に液体が流れ込む音がしている。それ以外は、何も聞こえなかった。
殻の口は、まだ開いたままだった。
新しい優子が振り返った。
直人と、目が合った。
一秒にも満たない時間だった。しかし直人には、その一瞬がひどく長く感じた。
新しい優子の目は、無表情だった。喜びも、悲しみも、罪悪感も何もなかった。ただ直人を見ていた。品定めをするような目でもなかった。ただ、確認するような目だった。
次の瞬間、その目が伏せられた。新しい優子は、殻の頭部に顔を近づけた。
咀嚼音が聞こえた。
規則的な、静かな音だった。急いでいなかった。乱れていなかった。まるで朝食をとるような、日常的な所作だった。それがかえって、直人の胃を締め上げた。
直人は壁に手をついた。膝が笑っていた。
嚥下の音がした。
また咀嚼音。また嚥下。
新しい優子の腹が、わずかに膨らんでいた。
さっきまで平らだった下腹が、ゆっくりと前へ張り出していた。食べたものがそのまま内側に落ちているのがわかる膨らみ方だった。
新しい優子は、床に残った液へ目を落とした。
しゃがみ込み、指先でそれを集めるように撫でた。暗い液と透明な液が、指の腹にぬめって絡んだ。
その指を、口へ運んだ。
一度では終わらなかった。床に残ったものを、何度か静かに掬い、舌で啜った。
啜るたび、喉が小さく上下した。
腹の張りが、さらに少しだけ増した。
直人は壁に手をついたまま、それを見ていた。
目を逸らすことができなかった。吐き気は残っているのに、その光景から目だけが離れなかった。
浴室の白いタイルに、暗い染みが広がっていた。排水口に向かって、ゆっくりと流れていた。
やがて音が止んだ。
新しい優子が立ち上がった。
腹だけが、さっきより重そうに見えた。細い肋骨の下に、不似合いなふくらみが乗っていた。
水が流れ始めた。シャワーの音だった。
直人はゆっくりと顔を上げた。
新しい優子がシャワーを浴びていた。背中を向けて、髪を濡らしていた。背中は完璧に滑らかだった。線は消えていた。裂け目も、盛り上がりも、何もなかった。まるで最初から何もなかったかのような、傷一つない白い背中だった。
床の殻が、シャワーの水に流されていた。
形を失いながら、排水口に向かっていた。
直人はそれを見た。二年間、毎朝隣で目を覚ましていた優子が、白いタイルの上で溶けていくのを見た。
足が動かなかった。声も出なかった。
シャワーが止まった。
新しい優子が振り返った。濡れた髪が頬に貼りついていた。体についた水滴が、蛍光灯の光を受けて光っていた。
直人を見た。
さっきとは違う目だった。さっきの目は「確認」だった。今の目は、違う。
あなたがいる、と言っているような。
あなたを知っている、と言っているような。
そんな目だった。
「……見てたの」
優子の声だった。
イントネーションも、声の低さも、語尾の消え方も——二年間、毎日聞いていた優子の声だった。
直人は壁に背中をつけたまま、答えられなかった。
「ごめんね、驚かせて」
新しい優子は言った。
謝罪の言葉だったが、表情は動かなかった。申し訳なさそうな顔ではなかった。ただ言うべきことを言っているような、そういう口調だった。
「……お前は」
直人はかろうじて声を出した。
「誰だ」
新しい優子は少し首を傾けた。
「優子」
「優子は——」
「私が優子」
一歩、近づいてきた。
直人は壁をつたって後ずさろうとした。しかし新しい優子は足を止めた。直人との距離を、1メートルほど残して。
「怖い?」
聞き方が、優子だった。感情を乗せない、ただ事実を確認するような聞き方。
直人は答えられなかった。
怖いのかどうか、自分でもわからなかった。膝は震えていた。胃は今にもひっくり返りそうだった。しかし目は、新しい優子から離れなかった。
小さくなった優子を、直人は見ていた。
頭一つ分低い、若い優子を。傷一つない白い肌を。探し続けて、ついに辿り着けなかった、あの完璧な均一さを。
シャッターを切りたいと思った。
この瞬間、この浴室で、そう思った自分が、直人には恐ろしかった。
「覚えてる」
新しい優子は言った。
「何を」
「全部」
直人を見たまま言った。
「初めて会った日。あなたが私を撮った、スタジオの西日。初めて一緒に食事をしたこと。一緒に住もうと言ったこと」
淡々とした声だった。感情の余韻がない、薄い声。
しかし内容は、確かに優子だった。
「好きって言ってくれた夜のこと」
新しい優子は続けた。
「覚えてる」
直人には、反論できなかった。
全部、本当のことだった。直人しか知らないことだった。
「……どうして」
「ここにあるから」
新しい優子は、お腹に手を添えてそれだけ言った。
直人は何も言えなかった。
ここにあるから。その言葉の意味を、頭が理解することを拒んでいた。しかし拒みながらも、理解していた。
新しい優子がまた一歩、近づいた。
今度は直人も後ずさらなかった。
新しい優子の手が、直人の手に触れた。
冷たかった。同棲していた優子よりも、さらに低い体温だった。しかし指の形は同じだった。骨の細さも、指の長さも、爪の形も——全部、優子だった。
「直人」
名前を呼ばれた。
二年間、毎日呼ばれていた声で。
直人は手を引き抜けなかった。引き抜こうとしたのかどうかも、もうわからなかった。
浴室の匂いが、変わっていた。
悪臭は消えていた。代わりに——あの粘度のある、頭を重くさせる匂いが、また戻ってきていた。
直人は深く息を吸った。
止めるべきだと思いながら、吸った。




