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第五幕 記録、再び


 翌朝、直人が目を覚ますと、隣に優子がいた。


 背中を向けて眠っていた。背骨に沿って、線はなかった。ただ白い、傷一つない背中があった。


 直人はしばらく、その背中を見ていた。


 昨夜のことを夢だったと思いたかった。しかし体の感覚が覚えていた。冷たい指の感触。浴室に満ちた匂い。湿った音。殻の口が限界まで開いた形。


 夢ではなかった。


 優子からは、粘度のある匂いがした。


 直人は静かにベッドから出た。



 浴室に入った。


 清潔だった。


 白いタイルに染みはなかった。排水口に詰まったものもなかった。シャワーヘッドは定位置に掛かっていた。石鹸置きに石鹸があった。シャンプーがあった。何もかもが、昨夜と同じ場所にあった。


 何も残っていないように見えた。


 だが、排水口のあたりに、まだ匂いが残っていた。

 鉄を舐めたときのような金属臭に、内臓を裂いたあとの生臭さが混じっていた。昨夜、浴室いっぱいに満ちていたあの匂いが、薄くなりながらも、そこにだけ張りついていた。


 直人は蛇口を捻り、冷水で顔を洗った。鏡の中の自分の顔を見た。目の下に隈があった。頬が少し削げていた。それ以外は、いつもの自分だった。


 何も変わっていない顔だった。



 キッチンに行くと、優子がいた。


 背中を向けてコンロの前に立っていた。フライパンが音を立てていた。


 振り返った優子を見た瞬間、直人の足が止まった。


 昨夜の優子ではなかった。


 身長が、戻っていた。


 昨夜より明らかに高かった。肩の位置が上がっていた。首の長さも、腕のつき方も、いつもの優子の輪郭に近づいていた。


 腹も、戻っていた。


 昨夜、肋骨の下に不釣り合いに張り出していたふくらみは消えていた。薄いシャツの下に、見慣れた平らな線があった。


「おはよう」


 優子が言った。


「……おはよう」


 顔も、昨夜ほど若くは見えなかった。二年間、朝ごとに見てきた優子の顔に近かった。


「食べる?」


 フライパンを傾けて皿に盛った。目玉焼きだった。白身がきれいに固まっていた。何もかもが普通だった。


 直人はダイニングの椅子を引いて座った。


 優子が皿を置いて、向かいに座った。


 直人は優子を見た。優子は窓の外を見ていた。晩秋の朝の光が、横顔を白く照らしていた。毎朝見てきた横顔だった。


 直人は目玉焼きにフォークを刺した。



「食欲あるな」


 直人は言った。


 優子の皿が、すでに空になっていた。優子は立ち上がり、冷蔵庫を開けていた。昨日買ったばかりの肉のパックを取り出した。ラップを外して、そのままかぶりついた。


 生肉の赤い断面に、優子の歯が沈んだ。咀嚼する音がした。あの静かで規則的な、日常的な咀嚼音だった。昨夜浴室で聞いた音と、同じ音だった。


 優子は食べながら直人を見た。


 目が合った。


 優子は何も言わなかった。直人も何も言わなかった。優子はまた肉に歯を立てた。


 三パック目を食べ終えた頃、優子は冷蔵庫を閉めた。


 口元を手の甲で拭った。


「お腹空いてた」


 それだけ言った。


 説明ではなかった。謝罪でもなかった。ただの事実だった。


 直人は頷いた。直人が何に頷いたのか、よくわからなかった。



 その日の夕方、直人はカメラを持った。


 優子はソファに座って本を読んでいた。膝を抱えて、ページをめくっていた。これまで何度も見てきた姿勢だった。二年間、何度も撮ってきた姿だった。


 ファインダーを向けた。


 優子が気づいて顔を上げた。レンズと目が合った。


 シャッターを切った。


 音が鳴った瞬間、直人の指が止まった。


 ファインダーの中の優子は、これまでで最も美しかった。


 傷一つない肌。完璧な左右対称の顔。感情の薄い、静かな目。二年前にスタジオで初めて見たときよりも、さらに均一で、さらに冷たい光を持っていた。腐敗の気配が、どこにもなかった。


 腐らない、と直人は思った。


 この優子は、腐らない。


 それが喜びなのか、恐怖なのか、直人にはもうわからなかった。



 夜、寝室に入ると優子がすでに横になっていた。


 直人はベッドサイドに座って、壁の写真を眺めた。


 床から天井まで、二年分の優子が貼り付けられていた。昨日撮った写真もあった。一昨日も。同棲を始めた頃の優子も、初めてスタジオに来た頃の優子も。


 全部、同じ顔だった。


 しかし全部、違う優子だったのかもしれなかった。


 直人はその考えを、頭の端に追いやった。


「消して」


 優子が言った。


 間接照明を消した。


 暗くなった寝室で、直人は横になった。


 優子の体温が低かった。いつもより、さらに低い気がした。しかし直人はそのまま優子の背中に手を回した。背骨に沿って指を滑らせた。


 なめらかだった。


 何もなかった。線も、盛り上がりも、硬質感も。完璧になめらかな背中だった。


 直人は目を閉じた。



 眠れなかった。


 暗闇の中で、直人はひとつの問いを転がし続けていた。


 次の脱皮まで、何年ある。


 その問いが浮かんだとき、直人は何を考えているのかに気づいた。恐怖ではなかった。逃げようとする気持ちでもなかった。


 次まで、この優子を撮り続けられる。


 直人は目を開けた。天井を見た。暗くて何も見えなかった。


 隣で優子が寝息を立てていた。規則的な、静かな呼吸だった。


 直人はまた目を閉じた。


 いつかこの優子も、床に落ちる。殻になって、溶けて、排水口に消える。そのとき直人は何を思うのか。悲しむのか。


 この優子も、いつか表情を歪めて、「痛い、直人、助けて」と叫ぶのだろうか。そう思った瞬間、直人は自分が何を待っているのかに気づきそうになった。


 でも、答えは出なかった。


 出したくなかった。


 優子の体温が、指先に触れていた。冷たかった。しかし直人は手を離さなかった。



 朝になった。


 直人は起き上がり、カメラを手に取った。


 優子はまだ眠っていた。背中を向けて、白い背中を見せていた。


 ファインダーを覗いた。


 優子の背中が、レンズの中に収まった。


 傷一つなかった。


 シャッターを切った。


 その音が鳴る前の一瞬、直人はふと思った。


 この写真の中の優子は、いったい何度目の優子なのか。


 シャッターが鳴った。


 優子が目を覚ました。振り返って、直人を見た。


 微笑んだ。


 その笑顔を、直人は知っていた。知っていた。知っていたはずだった。


 しかしその笑顔が、いつから続いているものなのか、直人にはもうわからなかった。


 美しさは必ず腐る。けれど、優子は腐る前に新しくなる。


 直人はカメラを下ろし、次のフィルムを装填した。

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