第三幕 脱皮
浴室のドアが、半開きになっていた。
隙間から白い光が漏れている。電球色のはずの照明が、なぜか青白く見えた。直人はドアに手をかけた。
押し開けた。
最初に来たのは匂いだった。
腐った魚の臓物を煮詰めたような、鉄錆を舌の上で溶かしたような、それでいてどこか甘ったるい——外敵から逃げるときに必要な、原始的な恐怖を呼び起こす匂いが、密閉された浴室に充満していた。直人は反射的に口を手で覆った。胃の底が持ち上がってくる感覚があったが、足は止まらなかった。
優子が、浴槽の前の床に座り込んでいた。
膝を前に折り、足は左右に開かれていた。人形を床に置いたような、関節の力が完全に抜けた座り方だった。そして上体だけが不自然に反り返っていた。喉がむき出しになり、顎が天井を向いていた。
背中が、割れていた。
肩甲骨から腰まで走っていた線が、完全に裂開していた。縁から——黄色みがかった透明な液体が、糸を引きながら床に垂れている。液体の中に、崩れかけた何かの断片が混じっていた。脂肪のような、繊維のような、人間の体の内側にあるはずのものが、形を失いかけたまま流れ出していた。
それが床に落ちる、ぐちゃ、という音が聞こえた。
直人は声が出なかった。
優子の背中が、動いていた。
裂け目が、内側から押し広げられていた。
ゆっくりと、しかし確実に。まるで繭の合わせ目が開くように。優子の皮膚が左右に押し開かれていく。キャミソールの布が引っ張られて、縫い目が音もなく裂けた。
裂け目の奥に、何かがいた。
白かった。
傷一つない、完璧な白さ。優子の肌と同じ色をしていたが、もっと均一で、もっと冷たい光を持っていた。それが裂け目の中で、ゆっくりと身動きをしていた。
直人は壁に背中をつけた。逃げようとした。足が動かなかった。
次に首筋が押し出された。
後頭部が裂け目から現れた。うつむいたまま、殻の優子と同じ向きだった。濡れた黒髪が、背中に貼りついていた。
裂け目の中の体は、小さく折り畳まれていた。
肩が抜けた。続いて腕が滑り出した。細い白い腕が床に手をつき、白い胴が少しずつ、少しずつ外へ出てきた。急いでいなかった。苦しんでもいなかった。ただ、出てきた。まるで当然の手順を踏むように、粛々と。
新しい優子は床に両手をつき、自分の体を殻の背中から引き抜くように前へ出た。
殻の皮膚が、裏返しになりながら前へ残されていった。
そのとき初めて、顔が見えた。
優子だった。
だが、同じではなかった。
顔の造作は同じだった。目の形、鼻の高さ、唇の厚み——全部、優子だった。しかし何かが根本的に違った。
若い。
同棲を始めた頃の優子よりも、さらに若かった。二十歳そこそこか、あるいはもっと下か。肌に一切の陰りがなかった。シミも、毛穴の開きも、目の下のわずかな翳りも、すべてが消えていた。完璧に均一な、生まれたばかりの肌だった。
そして、背が低かった。
元の優子より頭一つ分ほど低い。細い首、細い肩、縮んだというより、まだ完成していないような——これからまだ伸びていくような、そういう若さだった。
新しい優子は無表情だった。
恐怖も、安堵も、痛みも、何もなかった。ただ眼球が直人の方を向いた。認識しているのかどうかもわからない、静かな目だった。
直人は新しい優子から視線を外せないでいた。
床に何かが広がっていることには、もっと前から気づいていたのかもしれない。
それを優子だと認めるのが、遅れただけだった。
正確には、優子の「外側」が落ちていた。
抜け殻だった。
キャミソールがまだ袖に通ったまま、皮膚が裏返しになって床に広がっていた。中身がなくなった手袋のような、奇妙に平たい形をしていた。優子の顔がそこにあった。目が半開きのまま、天井を向いていた。
液体が殻の縁から染み出し続けていた。排水口に向かって、ゆっくりと流れていた。
内臓の匂いが、また濃くなった。
新しい優子が、立ち上がった。
足元には液体が溜まっていた。
無表情のまま、殻の顔を見下ろしていた。何かを確認するような目だった。感情がなかった。哀悼も、懐かしさも、何もなかった。
殻の前で、しゃがんだ。
直人はその光景を見ながら、体が動かないことに気づいた。逃げなければならない、と頭では思っていた。しかし壁から背中が離れなかった。足が床に根を張ったように動かなかった。
その理由が、恐怖だけではないことに、直人は薄々気づいていた。
新しい優子が、美しかったからだ。
異常な状況の真ん中で、直人のどこかが——その完璧な白さを、撮りたいと思っていた。
声が聞こえたのは、そのときだった。
「……痛い」
低く、掠れた声。浴室の反響で、どこから来たのかわからなかった。直人は新しい優子を見た。口が動いていない。
視線を落とした。
床の殻が、動いていた。
正確には、口が動いていた。半開きだった口が、微かに開閉を繰り返していた。溶けかけた眼球が、ゆっくりと直人の方を向いた。
「痛い」
また声がした。今度ははっきりと、殻の口から出ていた。
優子の声だった。
同棲していた二年間、毎朝聞いていた優子の声だった。
「寒い、痛い——」
口の動きが少しずつ大きくなっていく。けれど表情は動かなかった。泣き顔でもなく、苦悶の形でもない。ただ口だけが言葉を吐いていた。そのことが余計に直人の背筋を粟立たせた。
「なおと」
たしかに、名前を呼んだ。
「なおと、助けて。痛い。寒い」
直人の喉が引きつった。
「なおと……たすけて……」
その一言で、胃の底が冷えた。
「優子」
声が出た。
「優子、俺がわかるか」
殻の口は動き続けた。
「痛い助けて痛い痛い——」
問いには答えなかった。だが、言葉だけは止まらなかった。痛みと寒さと、助けを求める言葉だけを、壊れた装置みたいに繰り返していた。
直人は一歩、前に出ようとした。
腕を掴まれた。
新しい優子だった。
いつの間にか立ち上がっていた。直人の腕を、細い指で掴んでいた。冷たかった。同棲していた優子よりも、さらに低い体温だった。
顔を上げると、新しい優子が直人を見ていた。
無表情だった。
しかし目が、直人をまっすぐ見ていた。
止まれ、と言っているような目だった。言葉はなかった。ただその目が、直人の足を床に縫い付けた。
「たすけ——」
殻の声が、小さくなった。小さくなりながら、しかし止まらなかった。
「なおと、たすけて、痛い、痛い、痛い——」
直人は新しい優子の手を振り解こうとした。指の力が、見た目に似合わず強かった。振り解けなかった。それとも、本当は振り解けたのに、自分が止まっていたのか——後になっても、直人にはわからなかった。
新しい優子が、手を離ししゃがんだ。
殻の頭の前で。無表情のまま。
「痛い痛い助けて痛い痛い——」
殻の口が動き続けていた。溶けかけた眼球が、天井を向いたまま、しかし声だけは止まらなかった。痛いという言葉と、直人の名前と、助けてという言葉だけを、壊れた機械のように繰り返していた。
新しい優子の両手の指が、頭頂部の皮膚に差し込まれた。
「痛い、なおと、痛い——」
指が、左右に引き裂いた。
音がした。
湿っていて、硬いものが割れる音だった。熟れすぎた果実を両手で押し潰すような音に近い。だがもっと密度があり、もっと鈍かった。骨と組織が一緒に裂ける音だった。
殻の口が、その瞬間に限界まで開いた。
叫んでいる形だった。顎の関節が外れるほど、ありえない角度まで。苦悶の表情ではなかった。表情は何もなかった。ただ口だけが、声の形を作っていた。
声があるのかないのか、直人にはわからなかった。
耳には何も届かなかった。しかし口の形は確かに、何かを叫んでいた。痛いと言っているのかもしれなかった。助けてと言っているのかもしれなかった。直人の名前を呼んでいるのかもしれなかった。
あるいは、もう何も言っていないのかもしれなかった。
新しい優子の両手が、割れた頭頂部に深く沈んだ。
直人はそのとき初めて、壁から背中が離れた。
しかし逃げられなかった。
足が、前に出た。
一歩だけ。ほんの一歩だけ、前に。
それ以上は動けなかった。動けなかったのか、動かなかったのか、自分でもわからないまま、直人はその場に立ち尽くした。
けれど、その地獄を「最高の一枚」として完璧にフレーミングするべく、直人は虚空で何度もシャッターを切っていた。
殻の口は、まだ開いたままだった。




