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第二幕 亀裂


 翌朝、直人は優子の背中を確認しようとした。


 しかし優子はすでに起きていた。シャワーを浴びて、キッチンで朝食を作っていた。白いシャツにジーンズ。背中は隠れている。


「おはよう」


 優子は振り返らずに言った。フライパンの上で目玉焼きが音を立てている。


「おはよう。……昨夜、背中に傷があったけど」


「うん」


「痛くないか」


「痛くない」


 優子は皿に目玉焼きを滑らせて、テーブルに置いた。直人の方を見た。その顔には心配の色がない。自分の体のことを話しているというより、天気の話をするような顔だった。


「皮膚科、行こう」と直人は言った。


「行かなくていい」


「なんで」


「治るから」


 優子はトーストを一口齧った。話は終わりだというように、窓の外に目を向けた。晩秋の朝の光が、優子の横顔を白く照らしていた。


 直人はそれ以上言えなかった。



 その日の夕方、直人はスタジオで優子を撮る予定があった。


 雑誌の仕事で、優子を使うのはもう十数回目になる。編集者からは毎回「この子、不思議な写り方をする」と言われた。褒め言葉なのかどうかわからないが、仕事は途切れなかった。


 優子が着替えのためにシャツを脱いだとき、直人は息を詰めた。


 線が、三センチは長くなっていた。


 昨夜は肩甲骨の間だけだった。今は背骨の上から、腰に向かってゆっくりと伸びている。青白い盛り上がりが、より鮮明になっていた。


「優子」


「なに」


「背中」


「うん」


 優子は鏡でちらりと自分の背中を確認して、それだけで視線を戻した。


「コンシーラー、貸して」


「……俺がやるよ」


「化粧品、持ってるでしょう。スタジオに」


 直人は引き出しからコンシーラーとスポンジを取り出した。優子は何も言わず、背中を向けたまま立っていた。


 直人は線の上に、慎重に色を置いていった。肌色には完全に馴染まなかったが、正面から見れば目立たない程度には隠れた。


 至近距離で見た線は、昨夜よりもはっきりと盛り上がっていた。傷というより、内側から何か細いものを押し上げているようだった。スポンジを滑らせるたび、その部分だけ微かに熱を持っているのがわかった。


「……前もやったことあるのか」


 優子は答えなかった。


「撮ろう」


 そう言って、優子は鏡から離れた。



 撮影中、直人は何度も気を散らした。


 優子の背中が気になっているせいだと、最初は思っていた。しかしそうではないと気づいたのは、撮影が一時間を過ぎた頃だった。


 匂いがする。


 スタジオに漂う微かな匂い。何の匂いかと問われると、うまく答えられない。甘いとも言えない。香水でも、シャンプーでもない。人工的な匂いではなく、もっと根源的な、何か生き物の体から滲み出るような、粘度のある匂い。


 不快かと言われると、そうとも言えなかった。


 ただ、嗅ぎ続けていると頭が少し重くなる。スタジオの換気が悪いせいだろうと思って窓を開けたが、匂いは消えなかった。それどころか、優子に近づくほど濃くなった。


「集中してる?」


 優子がファインダーの向こうから言った。


「してる」


「してないように見える」


「……お前から変な匂いがするんだよ」


 優子は少し目を細めた。怒っているのか、笑っているのか、判断できない顔だった。


「そう」とだけ言った。


「体調悪いんじゃないか」


「悪くない」


「でも——」


「撮って」


 優子はポーズを作った。話は終わりだという顔だった。


 直人はシャッターを切った。ファインダーの中の優子は完璧だった。しかし頭の重さが取れないまま、撮影は終わった。



 五日後。


 線は背骨の全体に伸びていた。


 直人がそれを知ったのは、優子が風呂上がりにバスタオルを巻いて出てきたとき、タオルの上端から覗いた首の付け根に、線の始点が見えたからだ。


「優子、ちょっと待て」


 直人はタオルの端を持った。優子は特に抵抗しなかった。


 背骨に沿って、頸椎から腰椎の下まで。完全に一本に繋がっていた。皮膚の盛り上がりが昨日より増していて、指を近づけると微かな熱を感じた。体温の低い優子の体なのに、その線だけが熱を持っていた。


「これ、絶対に皮膚科に——」


「いい」


「よくない。見てみろ、こんなに」


「直人」


 優子が振り返った。


 真剣な顔だった。いつもの感情の薄い顔ではなく、何かを真剣に伝えようとしている顔だった。それが余計に怖かった。


「心配しなくていい」


「なんで言い切れる」


「わかってるから」


「何が?」


 優子はしばらく直人を見た。答えを選んでいるような、あるいは答えを持っているけれど渡さないでいるような、そういう間だった。


「大丈夫だから」


 それだけ言って、寝室へ歩いていった。


 直人は廊下に立ったまま、閉まったドアを見た。


 匂いがした。さっきよりも濃い、頭が重くなるような粘度のある匂いだった。不快なはずなのに、足が動かなかった。ドアを開けて追いかけることも、このまま踵を返すこともできず、ただ立っていた。



 七日後。


 優子は背中の開いた服を着なくなった。


 もともと露出の少ない服を好む方だったが、それでもこの季節に首元まで詰まったシャツを着ることはなかった。直人が「暑くないか」と聞くと、「ちょうどいい」と言った。


 スタジオでの撮影も、衣装が変わった。


 編集者から送られてきたスタイリング案には、背中の大きく開いたドレスが含まれていた。直人はそれを自分の判断で差し替えた。理由を聞かれたら何と答えようかと思っていたが、編集者は特に気にしなかった。優子も何も言わなかった。


 ただ、着替えのときに一度だけ目が合った。


 ありがとう、とは言わなかった。しかし視線に、ふだんにはない何かがあった。感謝とも違う。もっと静かな、もっと遠い、まるで直人の全部を一瞬で測ったような目だった。


 その目が、どういうわけか直人には心地よかった。



 九日後。


 コンシーラーでは隠せなくなった。


 優子は洗面台の前で髪をまとめ、黙って背中を向けた。直人は背後に立ち、スポンジに取ったファンデーションを線の上へ何度も重ねた。薄く叩いても、塗り込んでも、光の角度によっては輪郭が浮いた。皮膚の盛り上がりが大きくなりすぎて、化粧品で平らにできる限界を超えていた。


「写真、服で撮ろう」


 直人は言った。

 優子は鏡越しに直人を見た。


「仕事は?」


「俺が調整する。当分、ポートレートとランジェリー系の仕事は断る」


 優子はしばらく鏡の中の直人を見ていた。


「なんで」


 と優子は聞いた。


「見せたくない」


 正確には、見せたくないというより、あの線を他人に見られることへの、説明できない拒絶感があった。嫉妬に近い感情かもしれなかった。優子の異常を、自分だけが知っていたかった。自分だけが見ていたかった。


 その歪さに、直人は自分で気づいていた。気づいていても、止められなかった。


「……そう」


 優子は鏡から視線を外した。ファンデーションのブラシを置いた。


「じゃあ、服で撮って」



 十日目の夜。


 匂いが変わった。


 それまでの匂いは頭を重くさせるような、粘度のある匂いだった。ところが深夜、直人が目を覚ますと、寝室に違う匂いが漂っていた。


 腐乱した魚介類と、焼けた鉄と、甘ったるい何かが混ざり合った——人間が本能的に「ここから逃げろ」と判断するような悪臭。


 体の芯が冷えた。


 隣を見た。優子がいない。


 枕に、体温の残滓がなかった。いつから起きていたのか。


 匂いはドアの隙間から流れ込んでいた。廊下の向こうから。浴室の方から。


 直人はゆっくりと、ベッドから足を下ろした。


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