第一幕 記録
シャッターを切るたびに、直人は思う。
美しいものは必ず腐る。
花は三日で首を垂れ、果実は糖度の頂点を過ぎた瞬間から傷み始める。人の顔も、肌も、同じだ。だから自分はカメラを持つのだと、水瀬直人は二十歳の頃から信じてきた。腐る前に閉じ込める。光と影の中に縫い留める。それがカメラマンという仕事に残された、数少ない誠実さだと思っていた。
篠原優子に出会うまでは。
三年前の秋、直人はフリーカメラマンとして食いつなぐため、ヌードの撮影モデルを募集した。芸術写真集の素材集めという名目は半分本当で、残り半分は家賃のためだった。古い撮影スタジオの賃料と機材のリース代が重なり、口座の残高は月末を越えられるかどうかというところまで減っていた。
募集フォームには「傷跡・タトゥー不可、二十代女性」とだけ書いた。説明を増やすと、かえって安く見える気がした。実際は、もう十分安かった。広告を出したのは、最低料金のウェブサービスだった。
返信は七件来た。
六人は送られてきた写真の時点で、直人の求めるものではなかった。何かが足りなかった。生々しさと言ってしまえば近いのかもしれない。毛穴の粗さ、皮下脂肪の揺れ、膝や肘に残るくすみ、肌のわずかな荒れ。人の体ならあって当然の、使われてきた痕跡。それ自体が悪いわけではない。ただ、直人が探しているものではなかった。何を探しているのか、直人自身にもまだ言葉にできなかった。
七番目が、優子だった。
スタジオのドアを開けて入ってきた瞬間、直人は息を止めた。
背が高いわけではない。際立って派手な顔立ちでもない。ただ、白かった。首筋から鎖骨にかけて、蛍光灯の光を柔らかく返す白さだった。手の甲に浮いた静脈の青みまで、意図して描いたように整って見えた。
「篠原優子です。よろしくお願いします」
声は低く、落ち着いていた。緊張の色がない。初めてヌード撮影の現場に来た人間なら、多少は出るはずの硬さがなかった。まるで何度も経験しているような、というより、そもそも恥じらうという反応が必要ないような落ち着き方だった。
「脱いでもらえますか」
直人はできるだけ事務的に言った。優子は「はい」とだけ答え、ためらいなくワンピースの背中のファスナーを下ろした。
直人はファインダーを覗いたまま固まった。
傷が、ない。
肩甲骨から腰のくびれにかけて、目立つ傷がないという程度ではなかった。手術痕も、ニキビ跡も、幼い頃に転んでできるような古い傷の痕跡もない。人間の皮膚には普通あるはずの、小さな乱れが見当たらなかった。均一すぎた。まるで、まだ一度も世界と擦れていない皮膚のようだった。
直人はシャッターを切った。
あとで思えば、あの音が始まりだった。
撮影は四時間に及んだ。
「少し顎を引いてください」
「はい」
「右肩だけ落として」
「はい」
優子はどんな指示にも淡々と従った。不満を言わず、疲れを訴えず、ポーズも乱さなかった。照明をずらすたびに肌の見え方が変わり、直人は気づけばフィルムを三本使い切っていた。予定は二本だった。
一度だけ、直人はファインダーから目を離した。
レンズ越しではなく、裸眼で優子を見たくなったのだ。
優子は窓際に立っていた。秋の西日が横から差し込み、顔の半分だけを金色に染めていた。影になった側の目が、まっすぐ直人を見ていた。何も読み取れない目だった。好奇心でも、警戒でも、媚でもない。ただそこにあるだけの、静かな目だった。
「撮らないんですか」
優子が言った。
「ああ、すまない」
直人は慌てて目を逸らし、またファインダーを覗いた。
シャッターを切る。だが指が震えていた。二十代から数百人のモデルを撮ってきて、指が震えたのは初めてだった。
撮影が終わり、優子が着替えを済ませてバッグを持った。ギャラの封筒を渡しながら、直人はできるだけ平静な声で言った。
「また撮らせてほしい」
プロとして失格だとわかっていた。それでも言わずにいられなかった。
優子は少し首を傾けた。感情の読めない目で直人を見た。
「いいですよ」
「何か条件はありますか?」
「条件?」
「また来てもらえる理由が、あなたにあるのかと思って」
優子は少し黙った。直人は失言だったかと思い始めた。その頃になって、優子が口を開いた。
「面白いと思ったから来たんです。最初から」
「俺の広告が?」
「あなたが」
それだけ言って、スタジオを出ていった。
直人はしばらく、閉まったドアを見ていた。面白い、という言葉の意味を考えた。褒め言葉なのか、観察対象として興味を持たれたのか。
結局、わからなかった。
次の撮影は二週間後だった。その次は一週間後。気づけば直人は、優子以外のモデルを撮る仕事を断るようになっていた。
優子の何が自分をここまで引きつけているのか、直人はうまく言語化できなかった。美しいことは確かだ。しかし美しいモデルなら他にもいた。体の整い方も、撮影への従順さも、それだけなら理由にならない。
問題は、優子がつかめないことだった。
ある撮影の休憩中、直人は紙コップにコーヒーを二つ淹れ、優子の隣に腰を下ろした。雑談のつもりで「出身はどこですか」と聞いた。
「遠いところ」と優子は言った。
「遠いって、どのくらい?」
「ここじゃないところ」
冗談なのかどうかもわからない口調だった。優子はコーヒーを一口飲み、それ以上は何も言わなかった。直人も追及できなかった。
別の日には、撮影の合間に優子が窓の外を見ていた。何を見ているのかと思って隣に立つと、駐車場の隅に生えた雑草を見ていた。
「何か気になるものでも」
「抜かれないなあと思って」
「雑草が?」
「毎回ここに来るたびに、同じ場所で生きてる。踏まれても、除草剤を撒かれても」
優子は少し目を細めた。
「しぶといですね」
その言い方は、羨ましがっているようにも、値踏みしているようにも聞こえた。
優子は笑うし、怒るし、悲しそうな顔もする。表面だけ見れば、感情はちゃんとある。けれど、どれも奥まで届かない感じがした。悲しい話を聞けば眉を寄せるのに、目は濡れない。面白い話には声を立てて笑うのに、笑い終えた瞬間には何も残っていない。感情に余韻がなかった。
ある夜、撮影後に酒を飲みながら、直人は聞いた。
「あなたって、悲しくなることはあるんですか」
「あるよ」と優子はすぐに答えた。
「どんなときに?」
優子はグラスを持ったまま少し考えた。
「きれいなものが、終わるとき」
「たとえば?」
「夕焼け。花火。写真」
「写真が終わる?」
「シャッターを切った瞬間、もうその時間は終わるでしょう。あなたはそれを残したと思うのかもしれないけど、私は少し悲しい」
直人は言葉に詰まった。
優子は何事もなかったようにグラスを口に運んだ。その横顔に、いま口にしたはずの悲しさの痕跡は、もうなかった。
直人はその届かなさに、ひどく惹かれた。
届かないから撮りたかった。フィルムの中に閉じ込めれば、あの皮膚の白さも、感情の薄さも、変わらないまま残せると思った。腐らない。失われない。自分だけのものになる。
そういう歪んだ理屈で、直人は優子との距離を縮めていった。
同棲を始めたのは、出会いから八ヶ月後だった。
優子の方から「一緒に住もう」と言い出した。理由を聞くと「便利だから」とだけ言った。愛の告白でも、情熱的な誘いでもなかった。それでも直人には充分だった。断れるはずがなかった。
二人で暮らし始めると、優子の薄さは日常の中ではっきり見えるようになった。
彼女は、痛みをほとんど訴えなかった。
ある夜、台所で優子が包丁で指を切った。直人が気づいたのは、まな板の上に血が垂れていたからで、優子は声一つ上げていなかった。
「痛くないのか」
「あら、切れてた」
優子は水道水で洗い流しながら、自分の指をまじまじと見た。痛みをこらえる顔ではなかった。本当に、今気づいたという顔だった。他人の指でも眺めるような目つきだった。
「絆創膏、貼れよ」
「うん」
優子は素直に頷いたが、翌朝にはもう外していた。見ると、傷はほとんど塞がっていた。
「もう治ったから」と優子は言った。
自慢でも冗談でもなく、事実を伝える声だった。
体温も低かった。
眠る前に抱き寄せるたび、直人はその冷たさに気づいた。心臓は動いている。呼吸もある。けれど肌の表面だけが、どこかひんやりしていた。
ある夜、直人は「体温を測ってみろよ」と体温計を渡した。
優子は脇に挟み、しばらくしてそれを見た。
「35度2分」
「低いな」
「そう?」
優子は体温計を眺めた。
「いつもこのくらいだと思う」
「病院行った方がいいんじゃないか」
「なんで」
「低体温とか、そういうの」
「元気でしょう」
優子はそう言って体温計を返し、枕に頭を戻した。五分後にはもう眠っていた。
直人はしばらく、その寝顔を見ていた。抱くと冷たいのに、部屋にいると妙に存在感がある。そのちぐはぐさを、うまく説明できなかった。
朝、優子がキッチンに立つ音で目が覚めることが増えた。包丁の音、やかんの音、食器の触れ合う小さな音。直人は布団の中でそれを聞きながら、今日も優子がいる、と思うことがあった。それで十分だった。
食の好みも、少しずれていた。
ある夜の夕食で、優子はフライパンから取り出したステーキを皿に載せた。断面は赤いというより、生に近かった。血の混じった肉汁が皿の底に広がるのを、優子は満足そうに見ていた。
「火、もっと通さなくていいのか」
「旨味が逃げる」
「食中毒になるぞ」
「なったことない」
優子は一切れ切り分けて口に運んだ。静かに咀嚼する。その横顔に、ふだんの食事のときにはない満ちたものがあった。感情の薄い彼女が、生に近い肉を食べるときだけ、わずかに表情が濃くなる。
「美味しそうだな」
直人は思わず言った。料理のことではなかった。
優子は顔を上げて、直人を見た。
「食べる?」
赤い断面をフォークで差し出した。直人は少し迷ってから、口を開けた。
生臭さと鉄の味が舌に広がった。美味いとは思わなかった。しかし優子が「どう?」と聞いたとき、直人は「悪くない」と答えた。
優子は微かに笑った。その笑みは、一秒ほど遅れて消えた。
直人はその一秒のために、口の中の生臭さを飲み込んだ。
同棲から二年が経った。
寝室の壁一面は、優子の写真で埋まっていた。優子が「リビングには貼らないで」と言ったから、その一面だけに集めた。床から天井まで、二年分の優子が貼り付けられていた。
ある夜、優子がその壁をじっと見ていた。
「自分の写真って、不思議な感じがする」と優子は言った。
「どんな風に」
「知ってる顔なのに、知らない人みたい」
直人は最初、よくある照れだと思った。しかし優子の目は真剣だった。本当に、写真の中の自分を他人のように見ている目だった。
「これ、全部俺が撮ったお前だぞ」
「うん、わかってる」
「わかってるのか?」
「わかってる。でも」
優子は少し首を傾けた。
「昔の私って、今の私と同じなのかなって、たまに思う」
直人には意味がわからなかった。当たり前のことを言っているようで、どこかずれている。冗談にも、独り言にも聞こえる。優子の言葉はいつもそうだった。つかんだと思った瞬間に、指の間から抜けていった。
その夜、直人は眠れなかった。
異変に気づいたのは、二年と三ヶ月目の11月の夜だった。
深夜2時。優子は先に眠っていた。直人は眠れなかった。こういう夜はいつも、眠る優子の横でカメラを手に取る。
寝室の間接照明だけをつけ、直人はレンズを向けた。
優子はキャミソール一枚で横を向いて眠っていた。背中がこちらを向いている。
ファインダーを覗いた瞬間、直人の指が止まった。
肩甲骨と肩甲骨の間、背骨に沿って、一本の線があった。
縫い目のような。あるいは、皮膚の内側から何かが押し広げているような。青白く、わずかに盛り上がった細い縦の線だった。
傷ではない。傷跡でもない。
直人はカメラを下ろした。手を伸ばし、その線に指先で触れた。
硬かった。
柔らかいはずの皮膚が、妙な抵抗を返してきた。爪の先を当てたような、いや、それよりももっと内側に別の層があるような感触だった。
優子が目を開けた。
「……最近、体が軽いの」
振り返りもせず、眠ったままの声で言った。夢の中で喋っているようなのに、発音だけは妙にはっきりしていた。
「軽い?」
返事はなかった。
優子はもう目を閉じて、また眠っていた。
直人はしばらく、その背中を見つめていた。線はたしかにそこにあった。間接照明の角度によっては見えなくなる、細い細い亀裂。
ストレスか、乾燥か、皮膚の異常だろう。そう自分に言い聞かせた。皮膚科に行けば、何か説明がつくはずだ。
カメラをベッドサイドに置き、直人は横になった。
だが、暗闇の中でも、指先に残ったあの硬い感触が消えなかった。
それからふと、優子が昨夜言った言葉を思い出した。
「昔の私って、今の私と同じなのかな」




