第八話 俺の秘書は昼飯を忘れない
借りられる卓は一つだった。
壁際。柱の横。正面入口から少し離れている。
人気の場所ではないらしい。
会場を見た俺は、窓から入る光が卓へ当たるのを確かめて、悪くないと思った。
銀細工なら、明るい方がいい。
ダリオへ電話すると、あいつも来ると言った。
『ただし、旅費を稼ぐぞ』
「稼いでくれ」
『泊まるところは』
「探す」
『伯爵邸に泊めてくれないのか』
「うちの朝飯、上着着て食える?」
『安い宿を頼む』
話が早い。
そのあと俺は、出店料を払うための書類と、ヘルマンへ持っていく荷物の一覧と、問屋へ返す見本を一つの鞄へ入れた。
見事に混ざった。
翌朝、ヘルマンの前で革財布を出した。
「こちらは?」
「違う」
俺は慌てて鞄へ戻した。
代わりに出した紙は、宿屋の料金表だった。
ヘルマンは、何も言わずに待ってくれた。
その気遣いが、つらかった。
*
「クローディア。頼みがある」
屋敷へ戻ると、俺は机の上の紙を全部広げた。
彼女はそれを一目見て、椅子を引いた。
「順番に伺います」
「まだ何も説明してない」
「説明が必要な状態なのは、分かります」
反論できない。
俺は明日までに返すもの、来週使うもの、既に終わったものを話した。
クローディアは別々に揃え、小さな紙を挟んでいく。
「こちらのご面会は、何時ですか」
「午後」
「午後の何時でしょう」
「……聞いてない」
「では、確認いたしましょう」
すごく当たり前のことを言われているのに、なぜか救われる。
彼女は最後に、手帳を開いた。
「今後、お約束をなさった際は、私にもお知らせくださいませ」
「予定、見てもらっていい?」
「ええ」
「仕事の電話とか、手紙とかも」
「私で分かることであれば」
俺は机へ肘をついた。
「秘書みたいだな」
「でしたら、まず一つ、お約束を」
「何?」
「昼食のお時間を空けてください」
「秘書の最初の仕事、それ?」
「今日も召し上がっていらっしゃらないでしょう」
黙った。
ちょうど扉を開けて入ってきたミリスが、俺を見て笑った。
「ばれてるっす」
「入ってくるタイミング狙ってる?」
「お茶持ってきただけっす」
ミリスは卓へ菓子を置き、広げられた紙を覗き込んだ。
「坊ちゃま、仕事してるっすね」
「意外そうに言うな」
「じゃあ、もう旅に出ないんすか?」
「今のところは」
「よかったっすね、クローディアさん」
「ミリス」
「お砂糖取ってくるっす!」
逃げた。
今日も速い。
ミリスの足音が遠ざかってから、俺はクローディアの手帳を見た。
「屋敷の方、大丈夫?」
「明日の買い出しは、ミリスに頼みました。納品の確認は、別の者がいたします」
「俺のせいで、仕事増えてない?」
「増えております」
即答だった。
俺は背筋を伸ばした。
「ごめん」
「ですので、先ほどお願いをいたしました。お約束をなさったら、私にもお知らせくださいませ」
クローディアは手帳を俺へ向けた。
空いている時間と、既に埋まっている時間がある。
「急に全部を、とは参りません。お返事をお待ちいただくこともございます」
「うん」
「ます様ご自身でなさった方がよいお話も、ございます」
「ダリオの電話とか?」
「ええ。私が代わりにお話ししても、ます様が気になさったことまでは伺えませんので」
俺は頷いた。
何でも任せていいわけではなかった。
それなのに、何でも一人でやれと言われたときより、ずっと楽だった。
「じゃあ、明日の宿屋は俺が聞く。工房の返事が来たら、紙を渡す」
「お願いいたします」
「お前が休みの日は?」
「休みます」
「そこも即答か」
クローディアは笑った。
「ただし、ます様がまたお食事を抜いていらっしゃいましたら、気になります」
「食う。ちゃんと食うから」
「お約束ですよ」
仕事の予定を話していたはずなのに、最後はまたそこへ戻った。
俺が笑っていると、クローディアは少しだけ目を伏せて、書類を揃え直した。
*
見本市の準備について、グランツのおっさんへ報告することになった。
財務管理のヴァイスという男も同席した。
細い銀縁の眼鏡をかけた、見るからに数字を間違えなさそうな男だった。
俺はいつもより丁寧に紙を置いた。
「品物は、ダリオが工房から買う。見本市で売った金から費用を払う。売れ残った分も、あいつのもの」
「ます様は?」
「会場で手伝う。あと、王都での手配」
「費用のご負担は」
「卓の半分は、自分で出すつもり」
「その理由は?」
「俺が誘ったから」
ヴァイスはペンを止めた。
グランツのおっさんも、こちらを見た。
「ダリオ一人なら、来なかったかもしれない。だから、それくらいは」
「では、ご自身の財布でお支払いください。商会の経費とは分けます」
ヴァイスはそう言って、紙へ書き込んだ。
俺は頷いた。
個人の財布と会社の財布が違うくらいは、分かっている。
ただ、財布の中身が思ったより少なかったので、その日の昼は安い店にしようと思った。
「なお、商会としては、小口貨物の試行を継続します」
ヘルマンが口を開いた。
「ます様には、ベルクの各工房が、どの程度の頻度で荷物を出せるかを調べていただきたい」
「俺が?」
「ダリオ殿へ聞いていただければ、助かります。品物の季節性も」
仕事を頼まれた。
俺は思わず姿勢を直した。
「うん。聞く」
「お願いいたします」
おっさんは、そのやり取りを黙って見ていた。
俺が紙を片づけ始めると、一言だけ尋ねた。
「見本市には、何を持っていく予定ですか」
「銀細工と財布と釦」
「売れた場合、同じ品を追加できますか」
「……工房に聞く」
「では、ぜひ」
その一言が、あとで思った以上に役に立つことになった。
部屋を出たあと、ヴァイスに呼び止められた。
何か間違えたかと思って振り返る。
「ます様。こちらを」
一枚の紙だった。
支出を書く欄と、受け取った金を書く欄が分かれている。
「出店料の領収書は、保管をお願いいたします」
「自分で払うのに?」
「ご自身で払ったことを、あとで分かるようにしておくためです」
なるほど。
紙を受け取ると、ヴァイスは少し言いにくそうに続けた。
「なお、私の部下に、最近ご結婚なさった方がおります」
「え。おめでとう?」
「ありがとうございます。私ではありませんが」
言ってから、ヴァイスは眼鏡を直した。
「奥様への贈り物を探しているそうです。見本市の案内ができましたら、一部いただけますか」
「もちろん」
「買うかどうかは、その者が決めますので」
「分かってる」
俺は笑った。
この人には、値段と領収書しか見えていないと思っていた。
どうやら、違ったらしい。
クローディアに話すと、彼女は俺の鞄を指した。
「では、案内をお忘れなく」
俺は、その場で紙に書いた。
仕事のために書いたのか、喜んでもらいたくて書いたのか。
たぶん、両方だった。




