第七話 届いた箱と届かない注文
出荷の前日、ダリオから電話が来た。
『一軒、増えた』
「何が?」
『工房。ついでに送ってほしいって。釦の親方が、隣へ喋ったらしい』
俺は、思わず笑った。
ちゃんと需要がある。
そう言いかけたところで、机の上の紙が目に入った。
箱の大きさ。重さ。品目。出荷する人間の名前。
昨日、全部確かめてもらったばかりだ。
「今回に入れられるか、聞く」
『そこを何とか』
「聞くから。まだ、いいって言ってない」
自分の口から、その言葉が出るとは思わなかった。
ヘルマンへ電話すると、向こうはすぐに尋ねた。
『何を、どのくらい追加なさいますか』
「今、聞く」
ダリオへかけ直す。
返ってきたのは、工房へ行かないと分からない、だった。
俺は窓の外を見た。
夕方だった。
ベルクでは、もう荷を閉じる頃だ。
「次にしてもらって。今回の箱は、このまま出そう」
『……だよな』
ダリオの声が、落ち着いた。
『悪い。増えるって聞いたら、乗せたくなった』
「俺も」
電話の向こうで、あいつが笑った。
『次の分を、先に聞いとくわ』
「うん。欲しい日も、聞いて」
受話器を置くと、クローディアが書類を持って立っていた。
「お決まりになりましたか」
「増やさないことが決まった」
「では、こちらの表はそのままですね」
「それ、持って待ってたの?」
「はい」
俺は初めて、誰かが俺の返事を待って仕事をしていることを、ちゃんと意識した。
*
最初の荷物が来た朝、俺は約束の時刻より早く倉庫へ着いた。
女将さんは、俺を見て片眉を上げた。
「伯爵家の坊ちゃんは、朝が遅いんじゃなかったかい」
「誰に聞いたんだよ」
「先代様もそうだったからね」
じいちゃんのせいだった。
箱はまだ来ていなかったので、俺は荷札を並べる仕事を手伝った。
しばらくすると、外から荷車の音がした。
ダリオの商館名が書かれた木箱を見つけた瞬間、俺は立ち上がった。
「それ!」
「分かったから、そこに立つな。邪魔だよ」
怒られた。
少し下がって待つ。
釘が抜かれ、蓋が持ち上がった。
中には、見慣れた銀細工と革財布と、紙にくるまれた飾り釦が入っていた。
それぞれに荷札がつき、数も書いてある。
ダリオの字だった。
「来た」
「来たね」
「本当に来たな」
女将さんが俺を見た。
「送ったんだろ?」
「そうなんだけど」
笑われた。
でも、仕方がない。
昨日までベルクにあったものが、ここにある。
俺とダリオが電話で話し、ヘルマンが手配して、知らない誰かが船へ積んで、また誰かがここまで運んだ。
その最後の箱を、今、俺が見ている。
荷札の端には、小さな字で余計な一文が書いてあった。
『髪留めを勝手に抜くなよ』
あいつ。
女将さんが荷札を並べ、俺に届け先を読み上げさせた。
同じ通りの二軒は、店の名前まで似ていた。
「箱の上に置いとくよ。途中で入れ替えるな」
「分かった」
配達の男が来たとき、俺は銀細工の箱を先に渡しかけた。
女将さんの手が止めた。
「そっちは午後。店主が戻る時刻を聞いただろ」
「あ」
「今行ったら、また持って帰ることになる」
昨日の電話で、俺が聞いたことだった。
俺は箱を下ろした。
「ごめん」
「次の札を見な」
怒鳴られはしなかった。
だからこそ、少しこたえた。
船に積めば終わりではない。
ここから先にも、待つ人と、都合がある。
俺は午後の札を、よく見えるように立て直した。
*
夕方には、三軒とも品物を受け取った。
電話口のダリオは、俺と同じような声を出した。
『おお』
「送ったんだろ?」
『そうだけどよ!』
俺は笑った。
『銀細工の親方、さっきから二回も来てるんだ。受け取ったかって』
「受け取った。代金は約束の期日で払うって」
『そっか』
その声が少し静かになった。
「何?」
『いや。あの親方、前の買い手に金を払ってもらえなかったことがあってさ』
「初耳なんだけど」
『言わねえよ。格好悪いと思ってるんだろ』
俺は机の上の荷札を見た。
ベルクでは、あの親方はいつも威張っていた。
値切ると怒るし、触り方が悪いと怒る。俺が工房で昼飯を食っていたら、机に油がつくと怒った。
あの人も、金が入るのを待つのか。
当たり前なのに、考えていなかった。
「また送れるようにしよう」
『おう』
数日後、約束の代金がダリオのところへ入った。
あいつは、わざわざ電話をくれた。
『運賃と荷受けの分、ちゃんと引いても残ったぞ』
「幾ら?」
聞いた額は、正直、大金ではなかった。
親父の部屋で見た数字と比べるものではない。
でも、あいつの声を聞いていると、同じ紙に書く数字だとは思えなかった。
『親方へも、残りを払った。財布の工房も、次を考えるって』
「よかったな」
『お前もだろ』
「俺、まだ金はもらってない」
『じゃあ今度、飯おごる』
「酒も」
『飯だけ!』
切る前に、俺は次の荷物の予定を聞いた。
今度は、きっと話が早い。
そう思っていた。
*
ところが、次の注文は思ったほど来なかった。
銀細工の問屋を訪ねると、主人は俺を店の奥へ案内した。
「品はいいですよ」
「じゃあ、何で」
「いい品が、すぐ全部売れるわけでもありません」
棚には、もっと単純な形の髪留めが並んでいた。
値札も安い。
「こちらは同じ形をまとめて揃えられます。地方の店へ卸すには、扱いやすい」
「ベルクのも、同じ形を作れると思うけど」
「ええ。ただ、この細工のよさを、お客様へ説明して売る店の方が合うでしょうね」
主人は銀の葉を持ち上げた。
「贈り物にするなら、箱が欲しい。普段使いなら、留めやすいか試したい。うちでは、そこまで一つずつ売りませんから」
俺は、しばらく棚を見ていた。
運べれば売れると思っていた。
ようやく船から降ろした箱が、今度は店の棚で止まっている。
問屋を出ると、クローディアが俺の顔を見た。
「いかがでしたか」
「売る相手、違ったのかも」
「そうなのですか」
「うん。でも、品が悪いわけじゃないって」
自分に言い聞かせるようになってしまった。
クローディアは、慰める言葉を探す代わりに、歩く速さを俺へ合わせた。
それが少しありがたかった。
屋敷へ帰るまで、俺はあまり喋らなかった。
売れたという電話を聞いたときには、全部うまくいくような気がしていた。
王都には人がたくさんいる。
親方の細工は、よくできている。
だったら、売れる。
その二つの間に、まだ何かがあるらしい。
玄関で上着を脱ぐと、クローディアが受け取った。
「お茶をお持ちしましょうか」
「うん。あと、紙」
「紙、でございますか」
「問屋の人が言ってたこと、忘れそうだから」
彼女は頷き、机の上を空けてくれた。
箱が欲しい。
留めやすいか、試したい。
説明して売る店が合う。
書くと、ただ断られたわけではないと分かった。
俺は、一番下へもう一つ足した。
誰が使うか。
ベルクでは、工房の中ばかり見ていた。
使っているところを、ちゃんと見たことがなかった。
*
その晩、屋敷にはまさ兄が来ていた。
長兄は政治家だ。俺が旅をしている間に、議会で発言する姿が新聞に載るようになった。
久しぶりに並んで食事をすると、昔より背筋がよく見えた。
いや、俺がだらしなくなっただけかもしれない。
「本社へ行っているそうだな」
「まだ何もしてないけど」
「荷受け業者を探して歩いたんだろう」
「何で兄貴まで知ってるんだよ」
「お前の靴の話が、屋敷で有名だ」
クローディアを見た。
彼女は無言で俺の杯へ水を注いだ。
「俺の靴、そんなにひどかった?」
「お洗濯を担当した者が、頑張っておりました」
「今度お礼言っとく……」
まさ兄が笑った。
兄は、俺の顔を少し長く見た。
「何?」
「日焼けしたな」
「三年、外にいたから」
「顔つきも変わった」
「格好よくなった?」
「食事の前に手を洗ったか、確かめたくなる顔だ」
「洗ったよ!」
クローディアが、横で小さく頷いた。
証人がいた。
まさ兄は、それで満足したように杯を取った。
「むらまさからも、帰ったと聞いたら連絡をよこせと言われている」
「元気?」
「元気だ。お前を見つけたら、逃げないように縛っておけと」
「軍のやり方を家へ持ち込むなよ」
「その言い方で伝えておく」
「そこは伝えなくていい」
兄が声を立てて笑った。
昔と同じだった。
俺は、少しだけ安心して、肉を切った。
兄の袖口には、外したばかりの手袋の跡が残っていた。食事の前まで、どこかへ出ていたらしい。
「忙しいんだろ。来て平気なの?」
「飯は食う」
「それだけ?」
「父上に会う。お前にも会う。それで、十分だろう」
俺は肉を切る手を止めた。
まさ兄は、もう次の皿へ手を伸ばしていた。
そういうことを、何でもない顔で言う。
子供の頃から、兄にはかなわない。
「何か、面白いことがあったか」
尋ねられて、俺は鞄を取りに立った。
俺は銀細工の話をした。
運べたこと。代金が入ったこと。次の注文が思ったほど来ないこと。
兄は食事をしながら、最後まで聞いていた。
「春の見本市へ出してみたらどうだ」
「見本市?」
「地方の小売店も来る。装身具や日用品の売り場があるはずだ」
「出られるの?」
「空きがあるか聞くくらいならできる。買ってもらえるかは、お前たち次第だぞ」
「それでいい」
兄は俺を見た。
「何?」
「いや。以前なら、誰か買ってくれそうな人を紹介しろと言っただろうと思って」
「それも紹介してくれるなら」
「台無しにするな」
俺たちは笑った。
食事が終わる頃、まさ兄は紙へ名前を書いて寄越した。
見本市の運営担当者だった。
「明日、連絡しておく」
「ありがと」
「父上にも、話してやれ。お前が何をしているのか、気にしていた」
「毎日話してるよ」
「なら、いい」
兄は俺の肩を軽く叩いた。
それだけで、何となく、見本市へ出られるような気がしてきた。
兄が帰る前に、玄関で少しだけ二人になった。
「父上のこと、聞いた?」
「医者から、話は聞いている」
「本当に、休んでれば大丈夫なのか」
まさ兄は、すぐには頷かなかった。
「今、できることをしている。だから、お前まで顔色をうかがって黙るな。話を聞くのを楽しみにしているから」
「うん」
「お前が戻る前は、手紙を読み返していた」
「……知ってる」
兄が俺を見た。
それから、少しだけ笑った。
「なら、いい」
車へ向かう背中を見送りながら、俺は見本市の担当者の名前をもう一度確かめた。
今度は、報告できる話を増やしたかった。




