第四話 空の帝王は五番目
空島事業本部の壁には、俺の三年間より大きな地図が掛かっていた。
いや、比べるものが違うのは分かっている。
それでも、そう思った。
俺が一週間かけてたどり着いた港が、指の先ほどの印になっている。その隣には、行ったことのない島が幾つもあった。
空を結ぶ線は、王都へ集まっているようで、よく見ると途中で別れ、別の港へ伸びていた。
「こちらが、主な航路でございます」
クラインが言った。
「全部?」
「掲示してあるものは、定期便の主要航路です。季節運航や専用貨物便は、別にございます」
「まだあるの?」
「はい」
俺は地図へ近づいた。
ベルクを見つけた。
その隣の島には、鉱山の印。港のそばには倉庫の印。さらに別の色で、発電所や住宅地まで示されている。
「これ、島ごとうちのものってわけじゃないんだよな?」
「もちろんです。自治政府や土地をお持ちの方と契約し、事業を営んでおります。こちらの港は共同出資ですし、こちらの電力会社は当商会の子会社です」
クラインの指が動いた。
見覚えのある名前を通り過ぎる。
「待って。そこの電気の会社」
「ご存じですか」
「集金に来るおばちゃんがいた。俺、宿の親父と間違われて払えって言われた」
「……お支払いになったのですか」
「持ってなかったから、逃げた」
クラインは真面目な顔を保とうとしていた。
「親父が戻ってきて払ったよ。俺の宿じゃないし」
「それは何よりでございます」
「まさか、うちの会社だったとは」
地図の小さな印が、急に大きくなった気がした。
あの宿の灯りも。
俺が三回道を間違えた港も。
途中で財布をなくして、運賃をまけてもらおうとして断られた船も。
名前を変えたり、地元と一緒にやったりしながら、実家につながっていた。
知らずに文句を言った相手も、たぶん、かなりいる。
「ほかには、どちらへいらっしゃいましたか」
クラインに聞かれ、俺は順番に指した。
南の空島。地上の宿場町。海沿いの港。間違えて行った鉱山。
「そちらは、どうして?」
「船を間違えた」
「貨物の専用便ですが」
「だから、着いたとき、みんな俺を見てたんだな」
クラインは口元へ拳を当てた。
咳払いにしては、少し長かった。
「で、帰りの便まで働いた。飯は出たから」
「どちらで」
「荷捌き場。重いのは無理だって言ったら、軽いのをいっぱい運ばされた」
「現地に、事情をご説明になれば」
「乗り間違えたって言うの、恥ずかしいだろ」
「アルフォード家のお名前をお使いになれば、お困りにはならなかったかと」
俺は地図から目を離した。
「それ言ったら、面倒になるじゃん」
「面倒でございますか」
「偉い人が来たり、頭下げられたり。迷っただけなのに」
クラインは少し考えた。
「ただ、こちらとしては、お知らせいただいた方が助かりました」
「何で?」
「所在の分からないご子息を、お探しする方もおりますので」
まっとうな理由だった。
俺は首をすくめた。
「次は言う」
「ありがとうございます」
「乗り間違えた方を?」
「どちらも、お願いいたします」
*
それから、輸送の状況を取りまとめる部屋を見せてもらった。
窓際の長い卓に、電話が並んでいた。
壁の札が、次々に掛け替えられていく。出港。入港。待機。欠航。
そのたび、誰かが帳面を開き、別の誰かが電話を取った。
空を飛ぶ船が、こんな部屋で動いているとは思わなかった。
いや、飛ばしているのは操縦士だ。
でも、どの港で荷物を降ろすか。次にどの船へ乗せるか。遅れた客をどこへ案内するか。
ここで待っている人間がいる。
「北寄りの風が強くなっています。第四便は出港待ちです」
若い職員の声がした。
「次の港に連絡を。荷受けの終了時刻を確認してください」
「承知しました」
誰かが、赤い札を動かした。
地図の線が、一本止まった。
ほんのそれだけなのに、俺には港で暇を持て余す連中の顔が浮かんだ。
ああ、あれだ。
三年前、船が来なくて、丸一日何もできなかった日。
俺は酒場で文句を言っていた。
その間、ここでは電話が鳴っていたのか。
窓際の男が振り返った。
「クラインさん。会長室からですか」
「本日は、ご見学のご案内です」
男が俺を見て、姿勢を正しかける。
そのとき、背後の電話が鳴った。
俺は先に手を上げた。
「そっち、出て。俺は見てるだけだから」
「失礼いたします」
男は受話器を取った。
それを見ていると、クラインが俺を少し横へ誘導した。
足元の床に、細い線が引いてある。
俺は通路の真ん中に立っていたらしい。
見学にも、技術が要る。
部屋を出たあと、クラインが説明した。
「会長がお休みの間も、運航に必要な判断は、それぞれの責任者が行っております」
「親父が全部決めてるわけじゃないんだな」
「全部となりますと、船が出港する前に、会長がお倒れになります」
俺は笑いかけて、やめた。
クラインも、少しだけ声を落とした。
「……ですから、皆でお休みいただけるようにしております」
俺は振り返った。
扉の向こうでは、まだ電話が鳴っている。
親父が寝ていても、実家は動く。
それが、初めて少し嬉しかった。
*
昼前、会議室へ案内された。
机には、五冊の薄い冊子が置いてあった。
見た瞬間、嫌な予感がした。
「勉強?」
「ご案内です」
「表紙に『概況』って書いてあるぞ」
「概要のご案内です」
逃がすつもりがない。
俺は椅子へ座った。
グライフェン。隆盛。ヴァルケン。マルベルク。アルフォード。
商業学院で、何度も聞いた名前だ。
卒業したのだから、もう試験には出ないはずだった。
「五大商会だろ。船、服、鉱山、食い物、空島」
「大変簡潔でございますね」
「駄目?」
「入口としては。ただ、どの商会も、一つの事業だけではございません」
クラインは五冊を横へ並べた。
俺は、自分の家の冊子を取った。
最初の比較表を見た。
戻した。
もう一度取った。
「……うち、一番下じゃん」
「売上高では、そのとおりです」
「さっきの地図で?」
「はい」
「空の帝王なのに?」
「空の帝王でございますので」
俺は窓の外を見た。
王都の向こうには、ずっと地面が続いていた。
畑も、町も、線路も、その先にある。
空は広いが、住んでいる人間は、地上の方が多い。
「名前負けしてない?」
「空島の分野では、十分な基盤がございます」
「五番目の帝王か……」
「ほかの四商会以外からは、そのようには見えないでしょう」
言われてみれば、そうだった。
ベルクの酒場で、俺の名字を聞いた連中の顔を思い出す。
でも、その実家より大きいものが四つもある。
それが、不思議にわくわくした。
「ヴァルケン、増えてるな」
数年分の数字を追う。
「地上の資源開発を中心に、投資を拡大しております」
「ああ。鉄道の駅で見た。鉱石の貨車がずっと並んでた」
「製錬や貨物輸送にも、大きな事業がございます」
「うちも、もっと船増やせば?」
クラインは、次のページを開いた。
「こちらは、当商会の輸送事業です」
空島の航路と、地上の都市を直接結ぶ航路で、数字の様子が違っていた。
島の方は、黒い数字が多い。
地上の方は、赤が目立つ。
「……逆じゃね?」
「何がでしょう」
「人が多い方が、儲かりそうなのに」
「地上には、鉄道がございます」
俺は黙った。
安いから、何度も乗った。
「重い荷物を大量に運ぶ場合、飛行船が価格で競うのは難しい路線もございます。急ぐもの、壊れやすいもの、鉄道で行きにくい場所へ運ぶもの。条件が合えば、価値を認めていただけますが」
「何でも空へ上げればいいわけじゃないんだ」
「はい」
島に線路は引けない。
だから、うちは強い。
地上には線路がある。
だから、同じやり方では勝てない。
単純に聞こえるのに、目の前の赤い数字は、その単純なことに大金を使った跡だった。
「これ、親父が始めたの?」
「会長の代で、拡大した路線が含まれております」
クラインは、そこをごまかさなかった。
俺はページへ目を戻した。
あの親父にも、うまくいかなかった仕事がある。
それは少し安心する話で、同時に、あまり安心できない話でもあった。
「借金、平気なの?」
「当商会の資金繰りに、差し迫った問題はございません。設備の更新に備えた資金も確保しております」
「よかった」
「ただ、資金があるから、どの仕事でも続けてよいわけではございません」
おっさんみたいなことを言う。
俺がそう言うと、クラインは微笑んだ。
「長くお仕えしておりますので」
*
午後は、倉庫や港の仕事を見せてもらった。
どの部門にも、詳しい人がいた。
俺が馬鹿な質問をすると、少し考えてから答えてくれる。
船を増やしたい人。
修理に回したい人。
倉庫を早く空けたい人。
雨がやむまで荷物を動かしたくない人。
みんな、違うことを言っている。
でも、話を聞くと、それぞれ理由があった。
船には船の都合があり、箱の中身には箱の中身の都合がある。
「小さい箱だと、やっぱり難しい?」
倉庫の担当者へ聞くと、彼は手元の伝票を見せてくれた。
「大きさより、扱う回数で費用がかかる場合もございます。確認して、登録して、置き場所を決めて、出庫するときに、もう一度確かめますので」
「銀細工が五個でも?」
「五個でも、なくしたら困りますから」
そりゃそうだった。
俺は、ダリオの箱を思い出した。
小さいんだから安くできるだろう、と簡単に思っていた。
箱を軽くしても、名前を書く仕事は減らない。
じゃあ、名前を一つにしたらどうだろう。
昨日、ダリオに言ったことが、少し形を変えた。
工房の箱を、誰か一人がまとめて出す。
船の中では、大きな一箱にする。
王都で、また分ける。
「そういうの、できない?」
「集約してお送りする方法は、ございます」
「もうあるのか」
俺は少し恥ずかしくなった。
すごいことを思いついた気分だったのに。
担当者は、嫌な顔をしなかった。
「ただ、まとめる側と、分ける側が必要になります。それぞれに手間賃がかかりますので、荷物が少ないと、合計では割高になることも」
「だったら、もう別の荷物でやってる人に、ついでに頼めないかな」
「その相手が見つかれば」
クラインが、俺を見た。
明日の予定表の端へ、小さく何かを書き込んだ。
俺も、紙をもらった。
忘れないうちに、ダリオへ聞くことを書いた。
帰るまでに、その紙は表も裏も埋まった。
*
その晩、親父へ冊子を見せた。
「うち、五番目なんだな」
「帰って二日で順位を上げられても困る」
「そうじゃなくて。すごい大きいと思ったのに、ほかはもっと大きいって」
親父は、俺が開いたページを見た。
地上の航路だった。
少しだけ、目が細くなる。
「そこも見たのか」
「見た」
「失敗の見本としては、金がかかっている」
「自分で言う?」
「俺が言わなくても、数字が書いてある」
それはそうだった。
俺は椅子を寄せた。
「何で増やしたの」
「空島で育てたものを、地上でも使えると思った。整備の腕も、操縦士も、港で扱う技術もある。地上の都市は伸びていたし、早く運べるものを求めていた」
「でも、鉄道の方が安かった」
「安いだけじゃない。出る時刻が読みやすく、既に使い慣れている相手がいた。速さが欲しい荷物ばかりでもなかった」
親父は頁の端を指で押さえた。
「欲しいと言われた。だが、こちらが続けられる値段で、毎週使ってもらえるかは、別だった」
ダリオの髪留めが頭に浮かんだ。
いい品なのは、分かる。
でも、欲しがる人が何人いて、いつ、いくらで買うか。
そこまでは、俺も知らない。
「おっさん、止めなかったの?」
「止めた案もあった。進めた案もあった。決めたのは、俺たちだ」
「怒られた?」
「今でも、会議のたびに数字が出てくる」
「それ、怒られるより嫌だな」
「よく分かっている」
親父は笑った。
俺は冊子を閉じずに、そのまま見ていた。
失敗するかもしれない。
親父でも。
グランツのおっさんが隣にいても。
なのに、寝台の上の親父は、見知らぬ港へ着いた俺みたいな目で、地図を見ている。
「またやる?」
「何を」
「新しいこと」
親父はすぐには答えなかった。
窓の外の暗い空へ目を向けてから、俺を見た。
「お前は、明日も本社へ行くのか」
「行く。聞きたいことがある」
「なら、その話を先に聞こう」
俺は鞄から、書き込みだらけの紙を出した。
親父は、また新聞を脇へ置いた。




