第三話 おっさんと呼んではいけない人
翌朝、俺は八時に起きた。
正確には、七時半から起こされ続けて、八時に諦めた。
「約束と違う」
「お約束どおり、八時でございます」
「七時半に耳元で名前呼んだだろ」
「そのときお起きいただければ、朝のお時間を長く使えましたね」
クローディアはカーテンを開けた。
逃げ場のない光が差し込む。
俺は枕を抱えたまま、敗北を認めた。
旅先では、船を逃したこともある。仕事の始まる時刻を間違えたこともある。
だが、今朝ほど確実に寝台から追い出されたことはない。
「屋敷、厳しくなってない?」
「三年前と変わりません」
「俺が弱くなったのか」
「ご自由にお暮らしでしたから」
朝食を終えると、今度は服装の点検が始まった。
濃紺の上着。白いシャツ。結び目の大きさがどうにも決まらないネクタイ。
クローディアは何も言わず、俺の指から布を受け取った。
「三年ぶりだから」
「昨日も、そのように伺いました」
「昨日は髪だろ」
「はい。今日はお首元です」
指が襟の内側へ入り、結び目が少しずつ上がっていく。
近い。
子供の頃には何とも思わなかった距離なのに、目の前の睫毛が妙に気になった。
「苦しくありませんか」
「大丈夫」
「では、こちらを」
手袋まで出てきた。
「俺、仕事見に行くだけだよな?」
「はい。まずは見ていただきます」
「まずは、って何」
答える代わりに、クローディアは俺の肩の埃を払った。
「本社では、グランツ様を『おっさん』とお呼びにならないように」
「何で?」
「副会長でいらっしゃいます」
「知ってるけど」
「でしたら」
「向こうも、俺がそう呼ぶの知ってるぞ」
「ほかの方が、ご存じありません」
それはそうだった。
鏡の中には、見知らぬ立派そうな男がいた。
服というのは恐ろしい。
*
本社がでかい。
見上げた俺を、クローディアが待っていた。
石造りの壁に、縦長の窓が幾つも並んでいる。中央の塔には時計。正面玄関の上には、翼を広げた鷲の紋章があった。
旅先で見慣れた青い翼は、あの紋章を簡略にしたものだ。
同じ印なのに、ここではずいぶん威張って見える。
「入口は、こちらです」
「見れば分かる」
「別の方角をご覧になっていたので」
「逃げ道じゃないよ」
「何も申し上げておりません」
負けた気がした。
玄関の手前で、彼女は足を止めた。
「では、お迎えは夕方に」
「え。一緒に来ないの?」
「屋敷の仕事がございます。旦那様のお薬の件で、お医者様もいらっしゃいますので」
「ああ……そっか」
自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。
どこまでも付いてきてもらうつもりだったらしい。
クローディアは、それを笑わなかった。
「何かございましたら、屋敷へお電話ください」
「何もなくても?」
「昼食を召し上がったご報告でも、結構です」
「そっちが心配なのかよ」
彼女は俺の襟を、最後に一度だけ直した。
「行ってらっしゃいませ、ます様」
いつもより少し、丁寧な声だった。
俺は頷いて、玄関をくぐった。
中は、駅みたいだった。
受付の前には、取引先らしい人が何人もいる。書類を抱えた若い社員が階段を駆け上がり、先輩らしい女性に歩きなさいと止められていた。
どこにでも、クローディアはいるらしい。
「ます様でいらっしゃいますね」
背の高い男が、こちらへ近づいてきた。
「会長室のハロルド・クラインと申します。本日のご案内を担当いたします」
「ますです。よろしく」
名乗ってから、向こうは知っているんだったと思った。
クラインは深く一礼した。
俺もつられて頭を下げる。
二人で入口を塞いだ。
「……先へ参りましょうか」
「お願いします」
上の階へ行く途中、クラインは壁の絵を簡単に説明してくれた。
古い飛行船。雲の上の港。まだ道もない島の斜面へ、人間が木材を運んでいる。
子供の頃にも見たはずだった。
あの頃は、帆の形や大きな船にしか目が行かなかった。
今は、絵の隅で木箱を担いでいる男が気になった。
あの傾斜で、その積み方はきつい。
「こちらは先代会長、やまと様の頃の拡張工事でございます」
「じいちゃんが行ったの?」
「現地で工事の進み具合をご覧になっております」
絵の端に、帽子をかぶった男がいた。
その少し後ろに、手帳を持った若い男。
「まさか、こっちのおっさ……グランツ副会長?」
「はい。当時のお姿をもとに描いたと伺っております」
「若い」
「若い頃でございますので」
クラインまで、その調子だった。
この建物には、俺が勝てる相手がいるのだろうか。
*
最上階へ着くと、空気が変わった。
絨毯が厚いせいか、足音がしない。
扉の脇に立っていた秘書が、クラインへ小声で何かを告げた。
「申し訳ございません。北部鉱山地域の協議が長引いております」
「待つよ」
「別室でお茶をご用意いたします」
「ここでいい。邪魔じゃなきゃ」
椅子へ座ったところで、会議室の扉が開いた。
書類を受け取るために出てきた男の顔には、見覚えがあった。
新聞で見た。
王国中央銀行の副総裁だ。
隣にいるのは、大蔵省の人間らしい。クラインが姿勢を正したので、俺もつられて座り直した。
「……おっさん、何やってんの」
思わず、小声で言った。
「お仕事でございます」
知っている。
そういうことじゃない。
男が書類を受け取って戻るとき、扉の向こうから声が届いた。
「閉山すれば、町から人がいなくなります。あの地域への融資全体に影響が出る」
「かといって、今の坑区へ追加で資金を入れても、回収できる見込みがありません」
低い声が、重なった。
グランツの声は、その間に静かに入った。
「今、止めるべき設備はどれですか」
紙をめくる音。
「旧坑区の掘削と、選鉱設備の一部です」
「町へ電力を送っている設備は、その中に含まれますか」
「同じ運営会社ですが、設備そのものは別です」
「では、閉山の検討と一緒に止めないでください」
おっさんは、少しも声を張らなかった。
「鉱山をどうするか。電力をどうするか。住民の方々の仕事をどうするか。一枚の紙で済ませると、必要なものまで失います」
俺は開いた扉を見た。
長い机の向こうで、グランツが地図を指している。
「こちらの整備工場を、鉄道車両の修理に使う案は?」
「設備は転用できます。ただし、受注が確保できれば、という条件です」
「では、調べていただきたい。工場を買う話は、その後です」
「アルフォードが引き受けてくださるなら、銀行としても――」
「今、引き受けるとは申し上げておりません」
声は穏やかだった。
なのに、向こうの男が口を閉じた。
「ただ、当商会の船を修理できる技師は、現地にもおります。仕事を残せるか調べる価値はございます」
「調査の費用は?」
「こちらで負担します。現地責任者と、労務の担当者をお出しください。土地と設備の書類だけでは、技師の仕事は分かりませんので」
秘書が扉を閉めた。
話が途切れる。
俺は、しばらく動かなかった。
町が一つ、消えるかもしれない話だった。
あのおっさんは、その机で茶を飲んでいた。
「……いつも、ああなの?」
クラインへ尋ねると、少し考えてから返事が来た。
「いつもとは、申し上げられません。ただ、副会長は昔から、先代会長や会長が広げた事業の、その後をご覧になってきた方です」
「その後」
「港は、造って終わりではございませんので」
俺は、ベルクの荷役の連中を思い出した。
船が来なければ、仕事がない。
仕事がなければ、酒場の勘定も払えない。
それくらいなら分かる。
あの机の上には、それが町ごと乗っているらしかった。
会議が終わるまで、もう少しかかった。
出てきた人たちは、誰も笑っていなかった。ただ、入る前とは違って、手にした紙のどこかを確かめながら歩いていた。
最後にグランツが、副総裁を送り出した。
「来週、調査の段取りをご連絡いたします」
「頼みますよ、グランツ卿」
「できることから進めましょう」
握手を終えたおっさんが、こちらを向く。
俺と目が合う。
「……ます様」
目元が、ふっと緩んだ。
その顔を見た瞬間、口が勝手に動いた。
「おっさん、忙しそうだな」
廊下が静かになった。
クラインが、目だけで俺を見た。
あ。
「いや、その、副会長」
「三年ぶりに、ずいぶん他人行儀でございますね」
グランツが笑った。
秘書の一人が、何か珍しいものを見るような顔をした。
「ご無事で何よりです。お腹は空いておりませんか」
「今、すごい話してなかった?」
「しておりました」
「その次が、俺の腹?」
「こちらは、すぐ対処できますので」
クラインが下を向いた。
肩が、ほんの少し動いた。
*
執務室へ戻ったヴィクトル・グランツは、上着の釦を外すと、俺へ椅子を勧めた。
銀髪。背広。背筋。全部、きっちりしている。
俺が子供の頃からこうだった。祖父のやまとに仕え、親父の代でも商会を支え続けてきた大番頭だ。
世間ではグランツ卿と呼ばれているが、俺にはずっと、おっさんだった。
「お帰りなさいませ、ます様」
「ただいま。元気そうじゃん」
「おかげさまで」
「老けた?」
「ます様がお戻りにならない間にも、三年経っておりますので」
開始早々、刺された。
おっさんは椅子を示した。
「ご旅行はいかがでしたか」
「楽しかった」
「それは結構でございます」
机の上に、薄い書類の束が置かれた。
俺は表紙を見た。
自分の名前があった。
「何それ」
「屋敷へ届いた、ご連絡です」
「……苦情?」
「お礼もございます」
お礼も。
その言い方は、割合が気になる。
「北の港で、荷役人夫の賃金計算をお手伝いになったそうですね」
「ああ。あれ、計算が違ってて」
「その後、賃金の支払いを巡って口論になったと」
「ちゃんと収まったよ」
「先方からも、そのように伺っております」
次の紙が出てきた。
「こちらは宿屋の主人から。『帳面の間違いを直してもらった礼に、一週間泊めた』」
「いい人だった」
「『その後、さらに二週間泊まっていた』」
「皿洗いした」
おっさんが顔を上げた。
俺は先に言った。
「ちゃんとした」
「承知しております。手紙にございます」
怒られるつもりで身構えていた分、拍子抜けした。
おっさんは紙を揃えた。
「ほかにも、いくつか。よく覚えていらっしゃいました」
「俺がやったことだからな」
「では、これからのお仕事も、その程度には覚えていただけると助かります」
さらっと仕事の話になった。
この人は本当に、話を運ぶのがうまい。
「親父から、見てこいって言われただけなんだけど」
「ええ。何をご覧になりますか」
「何って言われても」
窓の外に、飛行船が見えた。
白い船体に青い翼。
ベルクを離れるときに見たものと同じだった。
「荷物を運ぶところ」
「航空輸送でしょうか」
「うん。ベルクの友達が、王都へ送りたい品があるって困っててさ」
おっさんがペンを置いた。
そこで初めて、自分が少し早口になっていることに気づいた。
銀細工のこと。革財布も同じ町から送ること。数が少ないせいで、品物の値段に比べて運賃が高くなること。
話し終えると、おっさんが尋ねた。
「その友人は、何を求めているのですか」
「安く運びたい」
「ます様は?」
「売れてほしい」
即答すると、おっさんはしばらく黙った。
何か変なことを言っただろうか。
「明日、輸送企画の者とお話しください。その前に、本社を一通りご覧いただきます」
「おっさんが安くしてくれれば、早くない?」
「私が頼めば、担当者はおそらく承知するでしょう」
「じゃあ」
「次に同じ荷物が出たときも、私へお持ちになりますか」
そこで止まった。
おっさんが、俺の顔を見る。
「お友達のビジネスを、毎回私の機嫌に預けますか」
それは、嫌だった。
ダリオが荷物を集めるたび、俺がおっさんに頼む。
俺がまた旅へ出たら、どうなる。
「……担当の人と話す」
「承知いたしました」
おっさんが机の端の小皿を寄せた。
蜂蜜の焼き菓子だった。
「どうぞ」
「子供扱いすんなよ」
「不要でしたら」
「いる」
一つ取る。
昔から変わらない味だった。
クラインが部屋を出たところで、俺は聞いてみた。
「じいちゃんにも、こんなふうに説教してたの?」
「やまと様は、お話が終わる前に外出なさいました」
「俺よりひどいじゃん」
「戻られてから、続きを伺いました」
「逃げても駄目か」
「ええ」
蜂蜜が甘い。
おっさんは甘くない。
菓子を食べ終えて、立ち上がりかけたときだった。
おっさんが、俺の手元を見た。
「ます様。右の手袋を」
「え?」
言われるまま、外した。
掌には、荷運びで擦れた跡が残っていた。治った傷もあるし、硬くなったところもある。
グランツは、その手を一度だけ見て、目を上げた。
「何か変?」
「いいえ」
机の抽斗が開く。
小さな軟膏の缶が出てきた。
「割れる前に、お使いください」
「おっさんも使うの?」
「昔は」
絵の中の、手帳を持った若い男を思い出した。
俺は缶を受け取った。
「……ありがと」
「明日は、こちらでお待ちしております」
「もう明日の約束?」
「今日もございます。クライン」
「はい。まずは空島事業本部へご案内いたします」
逃げる隙がなかった。
もっとも、さっきから、少しだけ気になっている。
あのおっさんを忙しくしている実家は、いったい何を持っているのだろう。




