第二話 三年ぶりの実家は逃げ場がない
「坊ちゃま、お帰りっす!」
玄関へ入った途端、金髪が飛んできた。
俺の鞄をひったくる勢いで受け取ったのは、ミリスだった。昔から屋敷にいるメイドで、昔から落ち着きがない。
「うわ。本物っす」
「偽物が帰ってきたことあるのか」
「三年も帰ってこないから、どっかで奥さんと子供でも作ったのかと」
「作ってねえよ」
「残念っす。クローディアさんの反応が楽しみだったのに」
「ミリス」
背後の声に、ミリスが素早く姿勢を正した。
「お荷物を運ぶっす!」
逃げていった。
あの逃げ足、俺も見習いたい。
見慣れた玄関だった。大きな階段も、壁の絵も、花瓶の置かれた台も変わっていない。
違うのは、俺の靴だけだった。
磨き上げられた床へ、乾いた泥が一片落ちた。俺が足を止めると、クローディアはそれを見て、何でもないように言った。
「お靴は、あとでお預かりいたします」
「ごめん」
「よく歩いていらしたのですね」
叱られる方が、まだ返事をしやすかった。
*
親父の部屋の前で、俺は一度だけ息を吸った。
中へ入ると、むらくも・アルフォードは寝台の上で新聞を読んでいた。
「おう。帰ったか」
「……ただいま」
「ずいぶん長い半年だったな」
それを言われると弱い。
「途中で、いろいろあって」
「手紙には、だいたい『元気にしている』としか書いてなかったが」
「元気だったから」
親父は新聞を畳んだ。
頬がこけていた。目の下にも、以前はなかった影がある。
その顔を見た瞬間、道中で考えていた言い訳が、全部どうでもよくなった。
「具合、どうなんだ」
「こうして文句を言えるくらいには」
「真面目に聞いてる」
「真面目に答えている」
親父は笑った。俺が笑わないのを見て、少し声をやわらげる。
「今すぐどうこうなる話ではない。ただ、医者から休めと言われた。お前まで同じことを言うなよ」
「休めよ」
「帰ってきて早々、味方が一人減ったな」
寝台の脇の椅子を引いた。
何を話せばいいか分からなかった。三年分もあるはずなのに、口から出たのは、つまらない一言だった。
「もっと早く帰ればよかった」
親父は俺を見た。
「帰ってきたじゃないか」
「そうだけど」
「なら、今聞く。どこが一番面白かった」
俺はしばらく黙って、それからベルクの話をした。
時計を直す爺さんのこと。荷運びで知り合ったダリオのこと。酒場の親父が、酔った客より帳面の計算間違いに怒ること。
話しているうちに、だんだん普段の調子になった。
「で、その干し肉を半分食ったのか」
「売れなくてさ」
「いくらで売ろうとした」
「もらった分の働きを考えて、これくらいは欲しいって」
「買う方には関係ないだろうな」
「分かってる。今なら分かる」
「残りは?」
「宿代にした」
「よかったじゃないか」
「三日、干し肉入りのスープが出た」
親父が吹き出した。
笑ったあとで咳をしたので、俺は慌てて水を渡した。親父は手を振って、大丈夫だと言った。
その手が、少し細くなっていた。
親父の手というと、もっと大きいものだった。
子供の頃、飛行船の甲板で俺の襟をつかんだ手。
手すりをよじ登ろうとした俺を、猫みたいに持ち上げた。
まさ兄は隣で青くなり、むら兄は笑っていた。あとで二人とも怒られた。
俺は、それがずっと続くと思っていた。
「ます」
「ん」
「そんな顔をするな。医者より怖いぞ」
「どんな顔だよ」
「こちらに言いたいことを言わせない顔だ」
親父は杯を置いた。
「医者の前で、お前の話をした」
「何て?」
「三男が三年帰ってこないと」
「……悪かったって」
「そうしたら、心配事は減らせと言われた。なかなか難しい処方だ」
「それ、俺に帰れって言ってる?」
「帰っている相手に言っても、仕方がないだろう」
笑おうとして、うまく笑えなかった。
親父も、それ以上は冗談にしなかった。
「便りが来れば、読んでいた」
「うん」
「元気だと書いてあれば、そうかと思った。次の便りが来なければ、またどこかへ行ったのだろうと思った」
寝台の脇の小さな抽斗を開ける。
封筒が何通か入っていた。
どれも、ひどい字だった。
一通には、干し肉の油が染みている。
俺が書いたものだ。
「捨ててなかったのか」
「保管に困るほど届いていない」
「そこは、もうちょっと優しく」
「優しく言っている」
親父は封筒を戻した。
「旅が駄目だったとは言わん。俺も、お前の祖父も、若い頃は好き勝手に歩いた」
「じいちゃんも?」
「あの人は、年を取ってからもだ。グランツが苦労していた」
おっさんの顔が浮かんだ。
いつの時代も、あの人は苦労しているらしい。
「だが、お前が今どこにいるかくらいは、知りたかった」
俺は膝へ目を落とした。
いい旅だった。
楽しかったし、後悔はしていない。
それでも、手紙を書く時間がなかったわけじゃない。
「次は、書く」
「次も三年か」
「まだ決めてない」
「そこは、しばらく出ないと言え」
今度は、二人で笑えた。
窓際で、クローディアがそっと水差しを置き直した。
こちらを見ないままなのが、ありがたかった。
親父は少し休んでから、俺の上着へ目を向けた。
「それで、稼いだ金は残ったか」
「経験は残った」
「金は?」
「だから、経験が」
「聞くまでもなかったな」
痛いところを突く。
俺は北の町で一週間働いた話をした。荷役の仕事で、支払いの計算が妙に少なかったので、仲間と帳面を見に行った。
「計算が違ったのか」
「休憩時間を二回引いてた。途中で担当が替わって、片方は引く前、片方は引いた後の時間を書いてたんだって」
「それは困るな」
「向こうも困ってた。怒鳴られると思ったらしくて、俺が帳面を出してって言っただけで、顔が真っ白になってた」
「お前は?」
「怒鳴る前に、帳面を見ようって言った」
親父が頷いた。
少し嬉しくなって、続きを話した。
「で、違ってた分は払ってもらえた。みんなに酒をおごられてさ」
「よかったじゃないか」
「飲んでるうちに、今度は俺がおごる番になって」
「……そうか」
「翌朝、金がほとんどなくなってた」
親父は額へ手を当てた。
「何だよ」
「いや。最後だけは予想できた」
「俺も、今なら分かる」
「お前の話は、今なら分かることが多いな」
まったくだった。
親父はしばらく笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「金を取り返したことは、よかったな」
「俺の分もあったし」
「うん。それでいい」
褒められると思っていなかったので、返事に困った。
親父は、その困った顔を楽しむように茶を飲んだ。
*
「しばらく王都にいるのか」
話が途切れたところで、親父が尋ねた。
「いるよ」
「そうか。なら、一度本社へ顔を出してこい」
「……本社?」
親父がこちらを見た。
俺はゆっくり椅子へ座り直した。
「それ、挨拶だけ?」
「仕事も見てくればいい」
「まさ兄は」
「議会が忙しい」
「むら兄は」
「軍の仕事が忙しい」
「俺も、忙しくなる予定が」
「いつから?」
「まだ決まってない」
親父は楽しそうに笑った。
「継げと言っているわけじゃない」
「本当に?」
「三年ぶりに帰ってきた男へ、いきなり任せるほど困ってはいない」
「それはそれで傷つくんだけど」
窓の外で、庭師が枝を切っていた。
親父はその音を少し聞いてから、俺へ顔を戻した。
「お前が旅先で会った連中の中にも、うちの船を使っている者がいたんだろう」
「いたよ。俺も散々乗ったし」
「なら、その船を動かしている連中にも会ってこい」
何となく、ベルクの港を思い出した。
船を見送るダリオと、運べずに残っていた木箱。
「グランツには話してある」
「手回し早いな」
「逃げる前に捕まえろと教えられた」
「誰に?」
「グランツだ」
おっさんめ。
「見てきたら、また話を聞かせてくれ」
親父はそう言って、俺の肩へ手を置いた。
「ここのところ、新聞と医者の話ばかりで退屈してるんだ」
それを言われたら、断りにくい。
「分かった。つまんなかったら、つまんなかったって言うぞ」
「それも聞こう」
*
部屋を出たところで、ミリスに捕まった。
両腕で、盆を抱えている。
「旦那様、笑ってたっすね」
「聞いてたの?」
「お茶を替える隙がなかったんすよ。さっきから、ずっと」
盆の上の茶は、まだ湯気を上げていた。
ミリスは俺の顔を見て、いつもより少し静かな声で言った。
「帰ってきてくれて、よかったっす」
「……うん」
「クローディアさん、ずっと気にしてたんで」
「親父のこと?」
「両方っす」
廊下の向こうで扉が開いた。
ミリスは一瞬で、いつもの顔に戻った。
「で、坊ちゃま。お土産は?」
「さっき荷物、運んだだろ。なかっただろ」
「三年もあったのに?」
「三年分の話ならある」
「食べられる方がよかったっす」
そう言って笑い、彼女は親父の部屋へ入っていった。
俺は少しだけ、閉じた扉の前に立っていた。
*
部屋へ戻ると、昔使っていた机が、そのまま置いてあった。
引き出しの取っ手には、子供の頃につけた傷が残っている。窓際の椅子には、明日着る服が揃えてあった。
「逃げる前提で用意した?」
「お出かけになる前提でございます」
クローディアが、上着の埃を払っていた。
「親父、結構元気だったな」
「ええ」
「でも、あんなに痩せてると思わなかった」
彼女の手が、少し止まった。
俺はベッドの端へ腰を下ろした。旅先の寝台と違って、妙に沈む。こんなに柔らかかっただろうか。
「もう少し、ちゃんと手紙書けばよかった」
クローディアは俺の前へ来て、膝を折った。
目の高さが近くなる。
「これから、お話しできます」
「うん」
「三年分でしょう。明日だけでは終わりませんね」
俺が笑うと、彼女も笑った。
それから、慣れた手つきで俺の髪を整えた。
「ひどい髪ですね。明日の朝、直しましょう」
「今、いい話してたのに」
「明日は、グランツ様にお会いになりますから」
「髪くらい、おっさんも気にしないって」
「私は気にいたします」
そう言われると、逆らえない。
クローディアが立ち上がり、扉へ向かった。
「お休みなさいませ、ます様」
「お休み」
扉が閉まる直前、俺はもう一度呼んだ。
「クローディア」
「はい」
「迎えに来てくれて、ありがとな」
彼女は一瞬、目を丸くした。
それから、今日一番やわらかい顔で笑った。
「どういたしまして」
その晩は、三年ぶりに、明日泊まる場所を考えずに眠った。




