第一話 空の帝王の三男、メイド長に捕まる
第一話 空の帝王の三男、メイド長に捕まる
俺を王都へ連れ戻すために、追っ手が来た。
兵士でも、借金取りでもない。
もっと厄介な人だった。
「お迎えにあがりました、ます様」
酒場の扉に立っていたのは、栗色の髪を上品にまとめた女性だった。黒いドレスに白い襟。銀縁の眼鏡。その奥の眼差しが、騒がしい店内でまっすぐ俺を捉えている。
三年ぶりなのに、背筋が勝手に伸びた。
「……ダリオ」
「何だ」
「今から俺は、ここにいなかったことになる」
「無理だろ。目、合ってるぞ」
俺は卓の下から旅鞄を引き寄せた。裏口まで七歩。厨房を抜ければ、路地へ出られる。
昔なら、いけた。
「お鞄もお持ちなのですね。助かります」
逃走の準備を、帰宅の準備にされた。
クローディアは俺の前まで来ると、丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりでございます」
「久しぶり。元気そうでよかった」
「ます様も。最後のお手紙では、寝込んでいらっしゃるとのことでしたが」
「治った」
「お早いご快復で、何よりです」
笑顔が怖い。
ダリオが吹き出した。
「お前、昨日は病気で帰れないって手紙を書いてなかったか?」
「黙っててくれ」
「心配して迎えに来てもらったんだろ。よかったな」
「急に良識のある人間になるなよ」
クローディアは俺の食べかけのパンへ目を向けた。
「お食事中でしたか」
「うん。だから、話は食べ終わってからでも」
「では、私もご一緒いたします」
彼女は出口側の椅子に腰を下ろした。
逃げ道まで塞がれた。
商業学院を卒業してから、三年。
俺は空島と地上を行ったり来たりしながら、気ままに暮らしていた。
最初は半年くらいで帰るつもりだった。
ところが、港で知り合った船乗りに誘われて別の島へ渡り、そこで聞いた祭りを見に地上へ降り、祭りが終わっても宿の飯がうまくて一か月居ついた。
そんなことをしているうちに、三年経った。
自分でも、ちょっと驚いている。
金が減れば、荷運びや店番をした。商人に頼まれて帳面を整理したこともある。学院で習ったことが初めて役に立ったと思ったら、礼にもらったのは金ではなく、大量の干し肉だった。
あれには困った。
次の町で売ろうとしたが、買い叩かれるのが嫌で交渉しているうちに、腹が減って半分食った。
結局、たいして金にはならなかった。
それでも、食うものと寝る場所には何とかなっていた。明日の予定は、だいたい今日会った相手次第だった。
そうして辿り着いたのが、この山岳都市ベルクだ。
いい町である。酒は安いし、飯も悪くない。職人たちは気難しいが、作ったものについて聞けば、昼飯を忘れるまで話してくれる。
ダリオとは、宿代が足りずに荷運びをしていたときに知り合った。
その日の仕事が終わって、一杯だけ飲むつもりだった。
気がつけば三か月いた。
そして今日、迎えが来た。
「本日夕刻の便に、お席を確保しております」
クローディアが手帳を開く。
「今日?」
「はい」
「明日じゃ駄目?」
「本日がよろしいかと」
「俺にも予定があるんだけど」
「伺います」
俺は卓の端に置かれた木箱を指した。
「こいつの荷物を港へ持っていく予定だった」
ダリオが顔をしかめる。
「俺を言い訳に使うなよ」
「言い訳じゃない。昨日、聞いてきてやるって言ったろ」
箱の中には、銀細工の髪留めが並んでいた。王都の問屋から注文が来たのに、量が少なくて運賃が高くつく。ほかの荷物が集まるのを待っていたら、先方から催促が来たらしい。
俺は一つを手に取り、クローディアへ見せた。
「これ、よくできてるだろ。葉っぱの筋まで銀で作ってる」
「まあ……」
彼女が身を乗り出す。
「クローディアに似合いそうだな」
「私に、ですか」
「うん。こういうの一つあってもいいんじゃないか?」
クローディアは髪へ手をやり、眼鏡の位置を直した。
「お気持ちは嬉しゅうございますが、こちらはお客様のお品でしょう」
「そうなんだよ。だから、ちゃんと届くようにしたくて」
ダリオが妙な顔で俺を見た。
「何だよ」
「いや。お前は変わらねえなと思って」
クローディアは箱を閉じた。
「港へは、ご一緒いたします。お約束を済ませてから参りましょう」
「じゃあ、少しは時間を――」
「ご出発は、本日です」
やっぱり交渉の余地はなかった。
「ところで、あんたはこいつの?」
ダリオが尋ねると、クローディアは姿勢を正した。
「アルフォード家でメイド長を務めております、クローディアと申します」
ダリオの杯が止まった。
「アルフォード?」
嫌なところに気づいた。
「よくある名前だろ」
「ないだろ」
ダリオは窓の外を見た。港の係留塔には、大きな飛行船がつながれている。その腹に描かれた青い翼の紋章を見て、顔色が変わった。
「……空の帝王のアルフォード?」
「声がでかいって」
店内の視線が集まる。
「お前、伯爵家の息子なのか!?」
「三男でいらっしゃいます」
クローディアが淡々と答えた。
ダリオは自分の杯を見下ろした。
「俺、昨日、その三男に酒おごったぞ」
「ごちそうさまでした」
「一昨日は飯も」
「美味しかったです」
「金返せ!」
「おごりだっただろ!」
店中が笑った。
店の親父だけは笑わず、俺を睨んだ。
「ます。うちの勘定は払ってから帰れよ」
「払うって!」
出発の前に、二階の部屋を片づけた。
片づけといっても、鞄に入れるものは多くない。着替えが二組。歯の欠けた櫛。宿の親父から押しつけられた針と糸。途中の町で買った、どこの方角を指すか気分次第の方位磁針。
寝台の下に手を突っ込むと、銅貨が一枚出てきた。
「よし」
「それで、何がよろしいのでしょう」
扉のところでクローディアが見ていた。
「昨日なくしたやつ」
「お探しだったのですか」
「昨日は探してた。今日は諦めてた」
「……ます様らしいですね」
彼女は部屋へ入り、窓辺の椅子に掛けてあった上着を取った。
袖口がほつれている。
「縫ってある」
「ええ。拝見すれば分かります」
「俺が」
「そちらも、拝見すれば」
「褒めろよ」
クローディアは笑い、ほつれた箇所へ指を添えた。
俺は何となく気恥ずかしくなって、鞄の底へ櫛を押し込んだ。
三年の間に、いろいろできるようになった。
屋根のある場所を見つけること。腹が減ったときだけは、仕事を探すこと。知らない町で、話しかけていい人を見分けること。
翌月の予定を立てる能力は、むしろ衰えた。
最初の旅程表は、出発して四日目に焼き魚を包む紙になった。
あれは、うまかった。
「捨てるものでございますか」
クローディアが、机の端の紙束を指した。
「いや。それは持ってく」
干物屋のおばちゃんが教えてくれた塩漬けの作り方。荷運びの仲間と賭けた、未精算の飲み代。ダリオの商館の電話番号。
どれも丸まって、染みがついている。
クローディアはそれを一枚ずつ伸ばし、順番に重ねた。
「お手紙も、こちらに」
見覚えのある封筒が一番上に置かれた。
実家からの手紙だった。
俺は黙って受け取り、鞄の内側へ入れた。
下へ降りると、店の親父が帳面を開いて待っていた。
「勘定だ」
「分かってる」
財布を開く。
銀貨と銅貨を並べて、数えて、もう一度数えた。
「……一杯多くない?」
「昨夜、お前が『最後に一杯』と言った分だ」
「最後って二回言った?」
「三回だ」
負けた。
クローディアが財布へ手を伸ばしたので、俺は慌てて止めた。
「いい。自分の」
さっき見つけた銅貨を足す。
ぴったりだった。
親父が金を引き寄せた。
「ちょうどだな」
「俺もそう思う」
「帰りの飯代は?」
「……船で考える」
親父は俺の顔を見て、それからカウンターの下へ手を伸ばした。
紙に包まれたパンを二つ、放って寄越す。
「屋敷まで、途中で倒れられたら寝覚めが悪い」
「つけにしといて」
「おごりだ。さっきから奥の釜が鳴ってんだよ。さっさと行け」
包みは温かかった。
「また来る」
「次は、泊まる日数を先に言え」
それは約束できなかったので、笑ってごまかした。
クローディアが店の親父へ深く頭を下げた。
親父は急に落ち着かなくなり、帳面で顔を扇いだ。
「うちで食った分は、ちゃんと払ってたよ。たまに皿も洗った」
「お世話になりました」
「いや、だから、そんな改まらなくても」
俺の知らない顔だった。
実家のメイド長は、ここの親父にも強かった。
ダリオが別の荷物を取りに倉庫へ向かい、俺たちは先に店を出た。
山から吹き下ろす風が、通りを抜けていく。屋根の向こうには空島が浮かび、その底を薄い雲が流れていた。
三年前、あれを見るたびに、次はどこへ行こうかと考えた。
今日は、隣の人が行き先を決めている。
「よくここが分かったな」
「港でお尋ねしましたら、すぐでした」
「そんなに目立ってた?」
「『人の仕事には首を突っ込むのに、自分の仕事はしていない若者』と」
「俺だな」
クローディアの口元がわずかに緩んだ。
「変わんないな、お前」
「そうでしょうか」
「うん。もっと怒られるかと思った」
「申し上げたいことは、たくさんございます」
彼女は俺の襟の折れを直した。
「ですが……お元気なお顔を拝見できて、安心いたしました」
責める声ではなかった。
「心配かけた?」
「ええ」
その返事に、胸がざわつく。
クローディアは少し間を置いてから、静かに告げた。
「ます様。旦那様が、お倒れになりました」
足が止まった。
「……親父が?」
「今は容体も落ち着いております。ただ、お医者様から、しばらく仕事を離れるようにと」
「いつ」
「十日ほど前です」
十日前。
俺はその頃、ダリオと煮込み料理の味で言い争っていた。
「何で、もっと早く……」
言いかけて、口を閉じる。
返事を後回しにした手紙が、鞄の中にある。俺が最後に書いたのは、帰らないための嘘だった。
「次の便は?」
「夕刻です。お席はございます」
「分かった」
俺は鞄を持ち直した。
「帰る」
クローディアが頷いた。
*
港で事情を話すと、ダリオは俺の背を叩いた。
「こっちはいい。早く帰れ」
「でも、荷物が」
「俺の仕事だろ。任せとけ」
俺は銀細工の箱を見た。
「東倉庫で、王都へ送る荷物がないか聞いてくれ。革財布の工房も、同じことで困ってた」
「まとめて送るのか」
「できるか分からないけど、行き先は同じだ」
「分かった。聞いてみる」
ダリオは手を差し出した。
「向こうに着いたら、連絡しろよ」
「荷物が送れたら、お前もな」
「ああ」
伯爵家の三男だと知っても、握り方は変わらなかった。
それが嬉しかった。
乗船口へ向かう俺の背に、ダリオが声を張る。
「おい、ます!」
「何だよ」
「あっちで暇になっても、すぐ戻ってくるなよ! まず親父さんに、三年分の話をしてこい!」
俺は手を上げて応えた。
飛行船が港を離れる。
窓の外で、ベルクの町が小さくなっていく。
クローディアが水の杯を差し出した。
「旦那様は、お帰りを楽しみにしていらっしゃいます」
「怒ってるだろ」
「お話ししたいことは、おありかと」
俺は杯を受け取った。
三年分の話なら、いくらでもある。
空島の祭りで朝まで飲んだこと。船を乗り間違えて、知らない鉱山へ着いたこと。ベルクの職人たち。ダリオの荷物。
手紙には、ほとんど書かなかった。
「クローディア」
「はい」
「親父、痩せた?」
「少し。ですが、ます様のお話を聞いて笑うくらいのお元気はございます」
俺は頷いた。
今は、それを信じようと思った。
窓に、俺の顔が映っていた。
日に焼けて、髪が伸びて、襟がくたびれている。
向かいのクローディアは、鞄から小さな裁縫道具を出していた。俺の上着のほつれを、もう見つけている。
「今やらなくても」
「少しですので」
「寝ていいよ。迎えに来るだけでも遠かっただろ」
彼女の針が止まった。
「お疲れですか」
「俺じゃなくて、お前」
クローディアは少し驚いてから、静かに笑った。
「では、こちらを済ませましたら」
上着が返ってくるまで、それほどかからなかった。
彼女は背もたれへ体を預け、目を閉じた。
眠ると、いつもより少しだけ幼い顔になる。
俺は初めて、目の下に薄い影があることに気づいた。
十日。
俺の居場所が分からない間、親父の様子を見て、屋敷を回して、船を手配して。
その上で、ここまで来たのか。
俺は膝へ置いた上着を取った。
肩へ掛けると、クローディアが目を開けた。
「寒いかと思って」
「ます様は」
「暑い」
嘘だった。船の窓際は、少し冷える。
彼女は一瞬俺を見てから、上着の端を引き寄せた。
「ありがとうございます」
また目を閉じる。
起きているか眠っているかは分からなかったが、口元は少しだけ緩んでいた。
俺は窓の方へ向き直った。
帰ったら、何を言おう。
さっきまでいくらでもあった三年分の話を、一つずつ思い出した。
「それから、グランツ様もお待ちです」
「……おっさんも?」
「ええ。まずはお顔を拝見したいと」
「顔だけで済んだことないぞ」
祖父のやまとの代から、うちに仕える大番頭。
親父ですら頭の上がらない男だった。
帰ったら、まず親父に会う。
おっさんのことは、そのあと考える。
できれば、翌日くらいに。




